第三章 1920 年代前半の『婦女雑誌』に関する考察
第 2 節 章錫琛編集期の『婦女雑誌』(1921 年~1925 年)
2.1 章錫琛におけるエレン・ケイ思想の受容
2.1.3 章錫琛の婚姻観について
また、エレン・ケイの恋愛観のもう一つの大きなテーマは「自由離婚」である。しかし、
ケイは、「古い時代の戀愛がとくに恐れていたのは、相手方が結びつきを十分認識してい ないのではないかと疑った61」ためであると述べ、「自由離婚」はどちらも相手方に苦痛 を与えないので、法律により互いの自由を制限することはこのような関係のもとでは無意 味であると主張する。当時中国の一般国民にとっては、婚姻拒否や婚約破棄など自由離婚 と自由恋愛を実践する行為は受け入れがたいものであった62。
例えば、周建人は、多くの中国男性知識人が「自由離婚」の四文字に脅かされ、彼が「人 間の性質はそもそも惡いので、もしも婚姻は自由に離散できると言えば、道徳は必ず墮落 し、風紀は必ず破壞され、男女は必ず亂れてしまうに決まっている63」と述べている。そ して、進歩的な姿勢で読者の注目を集めていた『婦女雑誌』において、ますます論争を呼 び起こしていた離婚問題を、編集長の章錫琛は第8巻第4号の特集号のタイトルに選んだ のである。
1922年4月の『婦女雑誌』の「フェルステル博士の離婚反對論」(福斯德博士的離婚反 對論)という文章では、章錫琛は自由離婚を主張するエレン・ケイと、厳格な一夫一妻制 を主張するフェルステルの論説を比較した。フェルステル博士は恋愛の自由を病的な現象 と考え、ケイが提唱した「離婚の自由」はただ肉体恋愛の一種の形式にすぎないとし、人 間の本性は放縦になりやすいので、ある形式で制限しなければならず、その方法は「一夫 一妻」であると指摘した64。
章錫琛が率いた改革時期の『婦女雑誌』は、多くの西洋の自由恋愛や自由結婚思想を真 に受け入れる「先覺者」として、読者からも大いに歓迎された。中国の伝統的な離婚法や 貞節観念、そして二重の道徳観を批判すると同時に、自由離婚に対する賛否両論を紹介し ているものの、「フェルステル博士の離婚反對論」の文末には「私は、たとえフェルステ ルの離婚反対論が完全に正しいとしても、わが中國には決して適用すべきではないと思う、
なぜなら中國はそもそも一夫一妻制の國ではなく、だからフェルステルが要求した嚴格な 舊道徳を守れることはあり得ない。我々は當然彼の舊道徳を土台として離婚の自由に反對 することができない、それに彼も戀愛は結婚の基礎であると主張するが、我々の結婚は依
61エレン・ケイ著、小野寺信・百合子訳、『恋愛と結婚』、1997 年、新評論、302 頁。
62史夙儀、『中国古代婚姻與家庭』、湖北人民出版社、1987 年 7 月、145 頁.
63原文「人性是壞的、如果婚姻說是可以自由解散、則道德必定要墮落、風化必定要敗壞、男女必定要混 亂」、周建人、「離婚問題釋疑」、『婦女雑誌』第 8 巻 4 號、1922 年 4 月、16 頁。.
64瑟盧、「福斯德博士的離婚反對論」、『婦女雑誌』第 8 巻 4 號、1922 年 4 月、78 頁。
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然として賣買的である65」という言葉を加えた。このように章錫琛は、離婚という婚姻問 題に対して、中国と欧米の社会的な背景の差異を強調する。1920年を皮切りに欧米の自 由離婚の理論が大量に輸入され始め、章錫琛が編集長の地位につくや、『婦女雑誌』はさ らに積極的に離婚問題に関する討論を進行させた。その結果、1922年の「離婚問題號」
では婚姻観の討論がピークに達した。男性知識人は西欧の離婚理念に同調すると同時に中 国の現状を分析し、自由離婚こそが人道と男女平等の精神に符合すると主張した。
1925 年 1 月に発刊された『婦女雑誌』の「新性道徳特集號」には、章錫琛の「新性道 徳とは何か」、周建人の「性道徳の科学的基準」、「現代性道徳の傾向」、沈雁氷の「性道徳 の唯物観」、沈澤民の「エレン・ケイの『恋愛と道徳』」など新性道徳に関する文章が掲載 された。周建人の記事における「同時に二人以上の相手と恋愛することについて、本人自 身の意志で他人に害を与えなければ、道徳上決して問題にならない66」という文章に対し て、章錫琛はさらに「配偶者雙方の同意があれば、一夫二妻または二夫一妻のような不貞 なケースがあっても、社会や他人に損害を及ぼさない限り不道徳とすることはできない67」 と指摘した。
章錫琛はケイの自由離婚の内容をそのまま受容した。離婚後の両親の責任感については、
ケイの見解は以下のようである。
子どものないとき、新しい人たち68の間に起こる離婚問題はこういう種類のものなの である。だが、子どものある場合には——これが普通であるが——互いの見込みちが いではあっても、自分たちの血をわけた子どもを協力して育てる責任からは免れるわ けにはいかないと彼らは考えるのである69。
両親は協力して子供を育てるという責任感を持つべきことが強調されているが、ここで 注目すべきことは、ケイが唱えた子どもの養育問題は、章錫琛の論説には殆ど見られなか ったことである。その結果として、恋愛自由の主張は恋愛に基づく真の一夫一妻の結婚の 実現と結びつけて論じられ、伝統的結婚批判の重要な原理となった。
実は、エレン・ケイの受容に関する先行研究は少なくないが、らいてうと英文学者の本 間久雄との比較に関する研究を除いて、日中両国間のケイ思想受容の比較についての研究 は管見の限りごくわずかである70。ここで筆者の関心を惹くのは、ケイの影響を受けた晶
65原文「我以爲福斯德反對離婚的主張即使完全正確、在我們中國卻萬萬不能適用、因爲中國本不是一夫 一婦的國家向來並不守福斯德所主張嚴格的舊道德的。我們當然不能拿他的舊道德做招牌來反對自由 離婚況且他也主張結婚須以戀愛爲基礎而我們的結婚依然是買賣式」、同注 64、瑟、82 頁。
66建人、「性道徳之科学的標準」、『婦女雑誌』第 11 巻第 1 號、1925 年 1 月、21 頁。
67章錫琛、「新性道徳是什麽」、『婦女雑誌』第 11 巻第 1 號、1925 年 1 月、15 頁。
68エレン・ケイは「新しい人」を「新時代の人間」の意味で用い、「古い時代の人」と正反対に意味付け をした。同注 61、小野寺信・百合子『恋愛と結婚』、新評論、302 頁。
69同注 61、小野寺信・百合子、303 頁。
70エレン・ケイ思想の受容に関する先行研究は以下のものが挙げられる:
① 広瀬玲子「平塚らいてうの思想形成―エレン・ケイ思想の受容をめぐる本間久雄との違い」、『ジ ェンダー史学』2、2006 年、35~48 頁。
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子らの女性解放運動者の女性運動に関する文章が中国の『婦女雑誌』に多数翻訳されたが、
らいてうは女性進歩グループの「青鞜社」を創設し、「母性」と「子供」の保護を提唱し、
当時における日本の女性解放思想を語る上で触れなければならない一人であるにも関わ らず、彼女に関する作品は一つも『婦女雑誌』で本格的に紹介されなかったということで ある(表 11 参照)。
表 11. 章錫琛編集期の『婦女雑誌』に翻訳された主な日本女性思想家の作品
原著者 翻訳者
(筆名) 出版年月 バックナンバー タイトル 日本語(筆者訳)
與謝野晶子
幼雄 1921 年 11 月 第 7 巻第 11 號 女子的經濟獨
立与家庭 女子の經濟獨立と家庭 瑟 1922 年 8 月 第 8 巻第 8 號 戀愛與性欲 戀愛と性欲 瑟 1922 年 8 月 第 8 巻第 8 號 女子是道德的 女子は道徳的である 張嫻 1924 年 3 月 第 10 巻第 3 號 給聰明的男子
們 聰明な男性たちへ 無競 1924 年 12 月 第 10 巻第 12 號 女子活動的領
域 女子の活動の領域 張嫻 1925 年 2 月 第 11 巻第 2 號 新道徳的要求 新道徳の要求
CY 1925 年 5 月 第 11 巻第 5 號 什麽是≪女樣
≫? 「女樣」とは何か?
無競 1925 年 6 月 第 11 巻第 6 號 女子的自修自
學 女子の自修自學 無競 1925 年 6 月 第 11 巻第 6 號 女子與高等教
育 女子と高等教育 張嫻 1925 年 7 月 第 11 巻第 7 號 我的備忘錄 私の忘備録
山田わが 拙菴 1921 年 12 月 第 7 巻第 12 號
科學在人生上 的地位与現代
婦女
科學が人生に立つ地位と 現代婦女
② 金子幸子「エレン・ケイ女性論の受容:平塚らいてうを中心に」、『平塚らいてうの会紀要』(7)、
2014 年、5~⒕頁。
③ 加藤祐子「『母性』の誕生と変容―エレン・ケイから母性保護論争までを通して」、『中央大学大学 院研究年報』(28)、1998 年、127~138 頁。
④ 金子幸子「大正期における西洋女性解放論受容の方法―エレン・ケイ『恋愛と結婚』を手がかり に」、『社会科学ジャーナル』24(1)、1985 年 10 月、73~92 頁。
⑤ 内藤寿子「大正期の〈エレン・ケイ〉―翻訳・解説・受容の力学」、『文藝と批判』9(4)、2001 年 11 月、14~25 頁。
92 山川菊榮
瑟廬 1920 年 6 月 第 6 巻第 6 號 婦女解放與男
性化之杞憂 婦女解放と男性化の杞憂 李達 1921 年 6 月 第 7 巻第 6 號 绅士閥與婦女
解放 紳士閥と婦女解放 嬰彦 1922 年 2 月 第 8 巻第 2 號 男女爭鬥之過
去現在及將來
男女爭闘の過去現在と將 來
味辛 1922 年 6 月 第 8 巻第 6 號 產兒制限與社
会主義 産兒制限と社会主義 高山 1924 年 6 月 第 10 巻第 6 號 日本婦女的自
由職業 日本婦女の自由職業 高山節 1924 年 6 月 第 10 巻第 6 號 日本婦女職業
生活的概况 日本婦女職業生活の概況 一鴎女士 1925 年 1 月 第 11 巻第 1 號 貴婦人生活解
剖 貴婦人生活の解剖
伊藤野枝 瑟廬 1920 年 10 月 第 7 巻第 10 號
貞操觀念的變 遷和經濟的價
值
貞操觀念の變遷と經濟的 な価値
市川房枝
張嫻 1924 年 6 月 第 10 巻第 6 號 美國的職業婦
女 アメリカの職業婦人 祁森焕 1924 年 7 月 第 10 巻第 7 號 婦女都市俱樂
部的介紹 婦女都市倶楽部の紹介 無競 1924 年 10 月 第 10 巻第 10 號 美國婦女運動
的左・右翼
アメリカ婦女運動の左 翼・右翼
先行研究によれば、エレン・ケイの恋愛、結婚論の受容から出発した平塚らいてうは、
大正時代のデモクラシー潮流の中で評論家として活動し育児をしながら、ケイの思想や社 会学の知識によって補強しつつ、自身の思想を作り上げていった。次節では、平塚らいて うと章錫琛という二人の人物に焦点を当て、エレン・ケイの「恋愛の自由から引き出され た性道徳観」の受容の違いを通して、二人の相違点について比較を試みたい。