第二章 民国初期における女性雑誌の出版活動
第 2 節 『婦女雑誌』の創刊と発展
2.2.2 民国初期の女性教育
28謝黎、『チャイナドレスをまとう女性たち―旗袍にみる中国の近・現代』、青弓社、2004 年、87 頁。
29上海通社編、「上海雜誌講話」、『上海研究資料』、中華書局、1936 年、397 頁~412 頁。
30羅蘇文ほか、「民国経済」、熊月之編、『上海通史』第 9 巻、上海人民出版社、1999 年、99 頁。
31呉咏梅、「モダニティを売る―1920-30 年代上海における『月份牌』と雑誌広告に見る主婦の表象」、落合 恵美子・赤枝香奈子編、『アジア女性と親密性の労働』、京都大学学術会、2012 年、128 頁。
32小浜正子、『近代上海の公共性と国家』、研文出版、2000 年、19 頁。
33葉聖陶、「我和商務印書館」,茅以升、「我與商務印書館」。『商務印書館九十年』、商務印書館、1987 年、
218~219 頁。
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民国初期の女性教育政策の多くは、清朝の政策から引き継がれたものである。日清戦争 の敗北を味わった清末の中国は、日本から積極的に「近代」を取り入れたが、女性教育も 例外ではない。女性教育の方針もまた、基本的に日本の良妻賢母教育を肯定し、それを吸 収する形で進化した。当初、「良妻賢母」という理念は帰国した女子留学生や日本人教習の 手によって取り入れられたが、1907 年からは国家方針として系統的に導入されることにな った。1911 年、辛亥革命が起こり、1912 年に中華民国が成立した。民国成立直後には革命 に参加した女性らの影響から、「良妻賢母」という女性教育を進めるのではなく、「女傑」
という女性を育成しようという声もあった34。
そして、1912 年に「壬子癸丑學制35」の成立によって、中国女子中学校の設立も認めら れるようになった。3 年生を例にすると、週 34 時間授業のうち、家事が 2 時間、裁縫が 2 時間とされ、さらに手芸の 1 時間を加えると、週に 5 時間が家政科の授業に使用されてい たことになる36。そして、男性と同様の科目を学習しながらも、女性にはさらに「裁縫」な ど「特質」に配慮した科目が加えられることとなったのである37。
家事科は、他の科目と比較すると特に重視され、栄養学に基づく調理法、発育段階ごと に分かれた育児法など、これまでなかった科学的な知識が取り入れられた38。中華民国政府 も基本的にこの教育方針を引き継いだ。しかし、政府が力を入れたにもかかわらず、家事 科に対する女子学生の関心は低かったと先行研究で指摘されている39。清末から民国初期に かけて女子学生の比率は全体の1%にすぎなかった。そして、女子学生の家長の身分は、主 に高級官僚もしくは公務員など中流・上流階層であった。
このような女性学生の家庭は、ほぼ例外なく使用人を雇っていた。家事科で教授された 内容の多くは、これまで使用人の仕事であった。そして、家事科が重視されなかったもう 一つの理由は、教学上の問題である。当時の女性学校では実習施設はなく、教科書だけを 使用して講義しており、これはいわば実際の生活に役立たないものであった40。このように、
民国初期の家政科教育は日常的な生活に運用されるよりも、むしろ女性に対して家庭内の
34杉本史子、「民国初期における女子家事科教育―その『近代』性と限界について」、『立命館大学言語文化 研究』13(4)、立命館大学国際言語文化研究所、2002 年 2 月、4 頁。
351912 年 1 月 19 日に蔡元培によって「普通教育暫行辧法」と「暫行課程標準」を公布した。そして、同年 9 月以降次々と教育宗旨や学校系統令が公布され、小学令・中学校令・師範学校令・専門学校令・大学令をま とめた「壬子癸丑學制」が公布されたのである。董秋艶、「中国近代学制の歴史的変容:民国初期における 教育制度「壬子癸丑學制」制定に注目して」、『教育基礎学研究』(12)、九州大学大学院人間環境学府教育 哲学・教育社会史研究室、2014 年、17 頁。
36璩鑫圭・唐良炎、『中国近代教育史資料匯編』、上海教育出版社、1991 年、671 頁。
37同注 35、董、 29 頁。
38杉本史子、「中国近代における家事科教育―その導入と抵抗」、『ジェンダーからみた中国の家と女』、東方 書店、2004 年、23 頁。
39同注 38、杉本、23 頁。
40曹敏、「東遊記略」、『北京女子高等師範文芸會季刊』第 1 期、1919 年 6 月、8 頁。
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女性としての能力を養う鍛錬の場として行われていたことが分かる。
一方、一部の先進的な知識人は、女性教育改良という観点から、社会性のある女性を目 指そうという呼びかけを始めた41。1915 年頃始まった五四新文化運動は、女性の解放を高 らかに叫び、女性を圧迫するものとして、従来の儒教制度そのものを批判し始めた。1910 年代後半から 1920 年代にかけて繰り広げられた新文化運動の中で、男性知識人は「民主」、
「自由」をスローガンにして、中国を支配していた封建制度による因習を打破する必要が あると認識した。1917 年に『新青年』に掲載された高素素の「女性問題的大解決」(女性問 題の大解決)という記事では、以下のように指摘された。
良妻賢母論は日本で盛んに唱えられている(中略)しかし、その教育方針は、結局多 くの知識をもつ奴隷を生み出し、男性に仕えさせるだけなのである42。
女性問題を解決するには、因習を打破し、それから女性の人格を確立し、家族主義の束 縛から解放して、女性職業の範囲を拡大し、社会が公認する女性の位置を守らせるべきで あると、全面的に女性問題を論じた。この独立した人格と自立した精神という「女」のイ メージは、日本と清末の「良妻賢母」の概念を超えて女性が家庭から社会へ貢献するとい う新しい理想的な女性像への期待を説いた。
理想的な女性像を具体的に表現したのは、イプセンの「人形の家」であった。1918 年 6 月、胡適は『新青年』に、イプセンの劇曲である「人形の家」を「玩偶之家」と題して発 表した。その中で、胡適は主人公ノラの家出を男尊女卑の苦境から逃げ出し、自由に満ち た人生を追求しようとするものと考えた。そして、封建的家制度の束縛に苦しんでいた知 識女性にとって、恋愛結婚とは一人の人間として独立し、性差別から解放されるという意 味を持ったのである。
しかし、1919 年の五四運動を経験しても、意識の変わらない女性学校の教職員と学生は 少なくなかったという43。家政科の取消と男女共学の実現に向けては、封建的な礼教から抜 けきっていない一般社会の反響が強かったこともあった。こうした言論は、1910 年代後半 の中国雑誌、新聞などのメディアを通して表現され、多くの女性読者や男性知識人に多大 な影響を与えたと言える。当時の女性雑誌において、男性知識人の女性をめぐる言説が多 く見られたが、ターゲットにした中国女性の実際の生活状況がいかなるものであったのか を把握するために、次節では女性向け刊行物の『婦女雑誌』の読者になる女性たちについ て考察したい。
41胡適、「論家庭教育」、『胡適早年文存』、周資平編、遠流出版、1995 年、169 頁。
42原文「良妻賢母之說盛唱於日本(中略)不過造成一多知識之順婢良僕、供男子之驅策耳」、高素素、「女子 問題的大解決」、『新青年』第 3 巻第 3 號、1917 年、89 頁。
43張允侯、『五四時期的社團』第 3 冊、生活・読書・新知三聯書店、1979 年、139 頁。
54 2.2.3 『婦女雑誌』の読者となる女性たち
清末に、西洋文化を受け入れた都市の女性に、女学生という新しい女性グループが誕生 した。上海最初の女学校は、1851 年に開校したアメリカ聖公会の裨文女塾であり、さらに 1850 年代から 1920 年代にかけて、清心女塾、聖マリア女中、中西女塾などの女学校が誕 生した。これらの教会学校は布教を目的として、裕福な家庭の娘たちに対して西洋式の教 育を実施した。近代に入っても、女学生というのは、将来の都市中産階級以上の家庭の「奥 様」になる貴族女性として新しい女性の代表と見なされ、一般民衆の憧れの対象となって いた44。
これらの女性は、上海の初期中学校を卒業した後、進学・就職・結婚のいずれかを選択し た。しかし、進学と就職は困難であり、さらに父母が反対することもあったので、結婚が 最も一般的な進路となった。たとえ進学や就職をしても、結婚までの過渡的なものと考え る者が少なくなかったのである45。
日本の『婦人世界』に掲載された「支那婦人は何を理想とするか」という記事の中で、
当時の駐日支那公使夫人の章彥安は中国の女性学生の人生目標について日本語で提起した。
女學校も大分殖えましたが、何れも家庭向きの婦人を養成することを目的としていま すから、女學生も皆賢母良妻を理想としてをります。今日の婦人は、家を治める子を 育てるにも、広く社会のことを知り、科學知識を研くことが必要となりましたから、
昔の良妻賢母より一層の骨折でせう46。
即ち、女性が広く科学知識を得ることによって、より理想的に家庭を維持でき、子どもを 育てられることを強調した。そして、学校卒業後に就職を選択できる女性の多くが小、中 学校の教員となったので、女性が社会進出できる範囲は狭くなった。たとえば、スタイル と容貌の良い女性は簡単に就職できるが、「花瓶47」(職場の花)として蔑視され、職業を続 けるために未婚のままでいる「老處女」(オールドミス)と差別される場合があった48。さ らに、新文化運動期の 1920 年頃には、仕事に専念して封建勢力と対抗するために独身を貫 く女性が現れた。こうした変化は当時において大量生産・流通・消費の社会的な背景に適合 するように、女性教育や女性職業の発展に伴って生じたものである。
また、教育の他に、科学的な意識の普及を促進したのは、大衆向けの啓蒙的な出版物で
44曹伯韓、「知識婦女的責任」、朱丹編、『新女性』、首都経済貿易大学出版社、2015 年、164 頁。
45岩間一弘、『上海近代のホワイトカラー―揺れる新中間層の形成』、研文出版、2011 年、32 頁。
46章彦安、「支那婦人は何を理想とするか」、『婦人世界』第 11 巻第 11 號、1906 年、2 頁。
47仕事ができない、容貌だけ綺麗な中国の職業女性に対する蔑称である。
48菊池敏夫、『上海職業さまざま』、日本上海史研究会、勉誠出版、2002 年、78 頁。