第二章 民国初期における女性雑誌の出版活動
第 3 節 胡彬夏・王蘊章編集期の『婦女雑誌』(1915 年~1920 年)
3.1 胡こ彬ひん夏かについて
1899 年、日本の女教育家・下田歌子(1854 年~1936 年)は実践女子学校を創設した。
実践女子学校は日本で最も早く、1901 年から中国女性留学生を募集し始めた。しかし、当 時の中国女性留学生らが勉強できたのは師範科あるいは工芸科のみであった。
胡彬夏は上海大同大学の創設者である胡敦復の娘として 1888 年に江蘇省無錫市で生まれ、
1902 年から 1903 年にかけて日本の実践女学校に留学した。1903 年 4 月、実践女子学校に 留学中、日本で中国留学生による女性団体である「同愛会」を発起した。当時 14 歳の胡彬
49同注 45、岩間、35 頁。
50沈軼群、「牛乳之研究」、『婦女雑誌』第 1 巻第 10 號、1915 年、5 頁。
51例えば、『婦女雑誌』1915 年 3 月號の「家庭教育簡談」、1915 年 6 月の「簡明實用母之衛生及育兒法」、 1915 年 11 月の「兒童健康之保護法」などの記事があった。
56
夏は『江蘇』という刊行物の編集に参与した。胡彬夏は、近代中国の女性解放と雑誌メデ ィアの先駆者と言われ、「中国新女界において稀有な人物52」と胡適は評価した。胡彬夏は のちに 1907 年から 1914 年まで官費留学生としてアメリカのウェルズリー大学で勉学し、
帰国後の 1916 年 1 月から 1916 年 12 月までの僅か 1 年間『婦女雑誌』の編集長として活 躍した。
日本留学中、胡彬夏は仲間と共に「共愛会」を組織して活動し、「女學の振興」、「女權の 回復」を提唱した。胡彬夏が『婦女雑誌』に就任する前に、1915 年 12 月の『婦女雑誌』
は「美國惠爾斯來大學校學士無錫朱胡彬夏女士輯編婦女雜志大改良廣告」(第 1 巻第 12 號)
という記事を掲載し、胡彬夏を「我國女界明星」(わが国女性界のスター)と称した。ここ から、商務印書館は胡彬夏の留学経験を非常に重視し、彼女を欧米と中国の間の仲介者と して、西洋の現代的な「イメージ」を読者に伝えられると期待したことが分かる。また、
他の雑誌編集に参与した経験もあり、類似職と留学の経験があった胡彬夏は当時『婦女雑 誌』の編集長として最も相応しい人物であったと考えられる。
胡彬夏は新しい編集長として、毎月 1 篇ずつアメリカの留学見聞を社説として『婦女雑 誌』に掲載した。最初の記事は「二十世紀之新女子53」(二十世紀の新しい女子)である。
その内容は、彼女がアメリカで出会った「梅夫人」、「孟夫人」、「南夫人」という 3 名の女 性を紹介したものであった。この女性らは専業主婦であるだけではなく、「育児の合間を縫 って社会のための義務」も果たし、むしろ「新奇でかつ不思議な女性54」であると胡彬夏は 評価した。特に最初に取り上げた「梅夫人」について、胡彬夏は「この夫人こそが、私の 思う賢母良妻の模範である55」と称賛した。
「梅夫人」は、5 歳から 0 歳の子供三人と弁護士の夫と暮らす上流社会の婦人である。彼 女は常に家庭のすべてを衛生的で清潔に整理し、栄養のバランスを考慮して料理を用意し、
さらに子供の教育にいたるまで、家事と育児のすべてを一人できちんと行う「有能」な主 婦であった。それだけではなく、「梅夫人」は家事の合間に、女性団体に招かれて演説する ほど多忙であり、「心の中に描かれていた理想的な新女性」に間違いないことを胡彬夏は強 調した。
その記事の中で、胡彬夏は女性が学問を獲得することによって自活、自立する重要性を 強調した。そのため、「二十世紀の新女性はまず幅広く生活知識を学んでから専門的な知識 を学習する必要がある」と述べた。そして、「アメリカの家庭」という記事では、彼女が中 国の大家族において存在した種々の問題をまとめて説明し、アメリカ人の日常的な家庭生 活を以下のように述べた。
52胡適、『胡適留學日記』第 1 冊、商務印書館、1947 年、146 頁。
53朱胡彬夏、「二十世紀之新女子」、『婦女雑誌』第 2 巻第 1 號、1916 年 1 月、24 頁。
54同注 53、朱胡彬夏、28 頁。
55同注 53、朱胡彬夏、25 頁。
57
夕飯の後、8 時になると、子女は皆就寢し、階下客間の爐火があかあかと燃えている。
主人とその奥様が座っている。周圍が物音一つせず静寂に包まれている中で主人が大 きな椅子に座って(中略)況して溫文優雅の主婦が隣に寄り添い、共に笑い合ったり、
若しくは慰め合ったり(中略)宗教を論じ、哲學を論じ、詩歌を唱えて、文章を讀ん で、それと同等の娯楽は何があるでしょうか56?
この文章で、胡彬夏が描き出したのはアメリカの核家族である一家団欒の姿である。しか も、夫婦の座席の位置からは、妻は常に夫を補助する立場に立つべき存在であると彼女が 強調したことが分かる。即ち、家庭は専業主婦が自らの才能を発揮する場所であり、妻の 責任は、仕事を終えて家庭に戻った夫に充分な休養をさせながら愉快な気分を与えること であると考えられる。これこそが理想的な家庭の形態であった。さらにそこから理想的な 社会を作り出せると彼女は考えた。
さらに、胡彬夏は「何者爲吾婦女今後五十年内之職務」(何者は吾婦女今後五十年内の職 務である)という記事の中で秋瑾の名に言及し、彼女より「横行跋扈の者57」は討論に及ば ないと強調した。秋瑾は当然「女英雄」として記念すべきだと世間に認められたが、胡彬 夏が言うには中国の女性も当然ながら自らの家庭を改良しており、その家庭は国家を強大 させる基礎として存在していたというわけである。彼女は以下のように述べた
家庭の清潔は我々の人民を清潔に慣れさせ、家庭の汚穢は我々の人民を汚穢に慣れさ せる。清潔に慣れる者の街道も清潔であり、汚穢に慣れる者の街道も汚い。だから家 庭を改良すること即ち社会を整頓することであり(中略)ゆえに家庭を改良すること は我々婦女今後五十年の最も重要な職務であり、しかも家庭の改良は、家庭の清潔か ら始まるのである58。
胡彬夏は中国女性が自らの権利を得るより、家庭の改良から始めるべきと考えた。しか も、家庭を改良できる女性を育成するために、必ず高い知力と能力を持った女性、即ち高 度教育を受けた女性が必要であるとした。そして、胡彬夏は、アメリカ各級の学校では全 て「まず幅広く学び、そこから専門的な知識を學習すべき」(先博後専)という教育方針で あると示した。
56原文「晚膳后、八句鐘、子女悉就寢、樓下客廳内爐火焰焰、坐主翁夫婦二人、萬籟俱寂、主翁坐於大臂椅 内(中略)況有溫文優雅之主婦侍坐在旁、或共笑樂、或相勸慰(中略)談宗教、論哲學、詠詩詞、讀文章、
其相娯樂爲何如耶?」彬夏、「美國家庭」、『婦女雑誌』第 2 巻第 2 號、1916 年 2 月、20 頁。
57原文「秋瑾何人未可許也,而其囂張狂妄甚於秋瑾者更不足稱述」、彬夏、「何者爲吾婦女今後五十年内之職 務」、『婦女雑誌』第 2 巻第 6 號、1916 年 6 月、19 頁。
58原文「家庭之清潔能使吾人習慣于清潔、家庭之汚穢能使吾人習慣于汚穢。習慣于清潔者其街道亦清潔、習 慣於汚穢者其街道亦汚穢。故改良家庭即所以整頓社會(中略)故改良家庭、當爲吾婦女今後五十年内最要 之職務、而改良家庭、以清潔家庭爲始」同注 57、彬夏、20 頁。
58
民国初期の中国における大部分の知識人は、女性の実業教育を重視し、家政学を身に付 けさせることだけを目指した。実際に、1902 年に女性教育家である呂碧城が『大公報』で
「女性の道は實業を基本としたものであり、實業の學問は普通教育から開始される59」と述 べ、女性は実学を中心に学習すべきと提唱した。しかし、胡彬夏が編集した『婦女雑誌』
の中では、天文、地質、森林、礦物、鉄道財政、政治、法律、教育、心理、哲学、文学に 関する文章が大量に増加した60。彼女の中で、育児したり、料理掃除したりすることは、普 通の女性にとっては「粗淺」、「簡易」なことであったが、高等教育を受けた女性にとって はそこから得られるものが多いと言える。そのため、家庭のことを行う中国女性は最も高 等教育を受ける必要がある61と強調した。これは当時の社会が標榜した「良妻賢母」や「三 從四徳」の女性教育と相違している。胡彬夏は欧米の影響を受け、中国の知識女性の才識 を家庭に押し込むことに新時代の主婦像を求めた。
彼女が考えたのは、家庭の中で女性の役割を構築しようとする際に、女性の才能を発揮 させることが、社会を推進して進歩させる源泉となるということであった。言い換えれば、
胡彬夏が女性は家庭においても男性が社会で行う貢献と同様に自らの価値を実現できると 唱え、女性は男性と異なる方法であるが、同様に社会に貢献できると強調した。
このような胡彬夏の女性教育理念はあまりにも時代に先行していた。当時の男性知識人 が主張した日本の良妻賢母主義と異なり、家庭の改良によって新しい国民を育成し、家庭 内の「新女性」を作り出すことを目的としていた。筆者は、これを商務印書館が彼女を辞 職させた主要な原因ではないかと推測している。とはいえ、胡彬夏が提唱した現代的な生 活方式及び夫婦間の相互尊重も、近代中国の中産階級女性が追求する理想的な家庭の手本 となる。
胡彬夏は商務印書館を離れてから上海の教育界と婦女界で活躍した。1917 年に胡彬夏は 夫の朱庭祺など男性知識人と共に中華職業教育社を発起した。彼女は 50 名の発起人の中で 唯一の女性であった。さらに、1918 年に上海で児童教育研究会を成立し、生涯にわたって 幼児教育専門家として中国教育界で活躍した62。
胡彬夏の『婦女雑誌』における編集長の就任期間はあまりにも短いため、この時期は先 行研究では殆ど重視されなかった。しかし、男性知識人が『婦女雑誌』など女性雑誌の編 集長となって女性問題を討論した際には、女性の立場を殆ど考慮せず、男性の立場に立っ て議論するという傾向があった。当時、社会に現れた女性問題の討論は実際には男性知識 人が想定したものであった。民国期の女性知識人の代表とされた胡彬夏は『婦女雑誌』に 関わったこの 1 年間で、女性として確実に多数の女性問題を提起したと見られる。そして、
編集長が再び男性の王蘊章に交代した際に、どのような変化が起きたのかについては、次
59碧城、「興女學議」、『大公報』、1902 年 2 月 26 日。
60同注 53、朱胡彬夏、34~35 頁。
61胡彬夏、「基礎之基礎」、『婦女雑誌』第 2 巻第 8 號、1916 年 8 月、28~30 頁。
62王秀田、「沉寂于歷史深処的報界女傑―胡彬夏」、『蘭台世界』7 月上、2010 年 7 月、17 頁。