第五章 『婦女雑誌』の終焉と継承
第 1 節 本研究の各章内容
本研究の第一章では、予備的な考察として、清末における女性雑誌の出版活動を分析し た。近代中国における雑誌の刊行は西洋宣教師によって始められたが、中国では日清戦争
1前山加奈子、「近 10 年間の中国女性史研究―主として日本における動向と展望」、『近きに在りて』(48)、 2005 年、40 頁。
2刘人峰、『中国妇女报刊史研究』、中国社会科学出版社、2012 年。
3近年来、『上海沦陷时期「女声」杂志研究』(涂晓华、中国传媒大学出版社、2014 年)のように単独の 雑誌を対象とする研究は現れたが、著作として出版されたものは多くない。
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の敗北を経て康有為、梁啓超など維新派の男性知識人が変法運動を宣伝するために、大量 の維新変法を主旨とする革命的な雑誌を発刊した。それが近代中国の女性教育発展の推動 力となり、女性雑誌の産生に必要な条件を創造した。
清末の女性雑誌は日本からの影響が多かった。当時東京で創刊された『中国新女界雜誌』
は最も代表的な女性雑誌であると言われる。編集長である燕斌(煉石)は、日本留学中に 見た日本の女性問題を語った上で、国家に貢献できる欧米女性を見本とし、独立精神を持 つ「女国民」を育成することを同誌の主旨とした。さらに、清末における 40 種類ほどの 女性刊行物の中から発行時期が最長の『女子世界』を取り上げて考察した。同誌は『中国 新女界』が主張した「女国民」と比較すると、「國民の母」を強調する傾向が強かった。
また、『女子世界』は日本から翻訳された大量な記事を啓蒙手段としていることから、当 時の中国知識人が日本に高い関心を持っていたことがうかがえる。第 1 章の最後では、『女 子世界』に受容された明治期の『女学世界』という女性雑誌に掲載した記事を分析した。
戦時の女性の情況と女性教育などについての記事を翻訳翻案したものを見ると、中国人に とって馴染みの薄い言語と文化に関する内容を削除し、言葉を付け加えた記事が散見され る。確かに『女子世界』に掲載された女性問題に関する最新の情報は、中国女性読者の見 聞を高めただけではなく、これらの翻訳文を読んだ彼女ら自身の現状を認識させるほど多 大な刺激を与えたに違いないことが分かった。『女子世界』の場合は、外来文化を吸収し た一方、中国伝統文化の独自性も追求していた姿勢は評価に値する。しかし、守旧的な翻 訳方式のために、若干本来の意味を離れた部分があることは否定できない。
第二章では、『婦女雑誌』初期の編集長としての胡彬夏、王蘊章を取り上げて考察した。
『婦女雑誌』創刊当初の編集長は王蘊章であったが、1916 年から僅か 1 年間であったが、
胡彬夏が最初の女性編集長として迎えられた。『婦女雑誌』に掲載された彼女の記事は、
理想的な家庭像として、夫が家庭の中心的な位置に立ち、妻が常に夫を補助する形を想定 する。そして、家庭を改良できる女性を養成するために、必ず高い知能力を持つ女性、即 ち高等教育を受けた女性が必要であるとした。しかし、胡彬夏のこのような女性教育理念 はあまりにも時代に先行しすぎていたため、当時の良妻賢母的な女性教育が主流であった 社会背景と相容れなかった。
1917 年 1 月、王蘊章が再び『婦女雑誌』に戻り、1920 年 11 月まで同誌の編集長とし て担当し続けてきた。そして、1918 年 1 月の『婦女雑誌』に掲載された記事の中に、日 本臨時軍事調査委員会によって出版された『歐洲戰と交戰各國婦人』(中国語訳『歐戰與 各交戰國婦人之眞相』)という著作の翻訳文がある。王蘊章がその著作を翻訳した理由は、
従来的な家庭内での女性の役割を強調しつつ、女性を間接的に国家の一員として認識する 言論に対して、女性の役割を家庭内に限定する規範から一歩踏み込んだ、進歩的な一面を 認めたためであると見られる。しかし、王蘊章の他の翻訳文では、女性の社会進出問題に 関して、否定するよりむしろ回避しようという意図を読み取ることができる。
そして、民国期に入り、中国の知識人は人材の育成が国家強大化のための重要な手段で あると意識した。健全な子どもを育成するために、育児経験が不十分な母親に科学的な「養 育」知識が必要となり、雑誌、新聞などメディアの宣伝と紹介が非常に重要な役割を果た している。当時の『婦女雑誌』の内容を見てみると、西洋と日本の育児経験を積極的に紹
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介しつつ、子どもを「保護されるべき人間」として子どもの養育方法に言及する表現が見 られる。ここで、「衣」、「食」、「住」という三つの方面から、近代中国の先進的な男性知 識人が何を新式女性に要求したのかについて考察した。
例えば、服装を選択する際に、何よりも子どもの健康を優先条件として適切なものを着 用すべきとした一方、衣服の清潔維持など、衛生面でも子どもに良好な生活習慣を身に付 けさせることも母親に求めた。そして、「食」の面では、西洋の食文化の伝来が子どもの 食生活に影響をもたらした。『婦女雑誌』では、子どもの成長に適当な栄養に含んだ食事 を与える必要があることが指摘されたが、数年間の記事の内容には一致しない点から見ら れたことから、科学的な子どもの食生活についての概念が定着するまでには一定の時間が 必要であると分かった。「住」については、科学的な家庭教育と、子どもの成長に相応し い生活環境が特に重視された。しかし、「衣」、「食」、「住」をめぐって論じられた改良方 法は、下層家庭の子どもにとって無縁の存在であったと考えられる。最初から、貧困層の 子どもは「教育されるべき者」の枠から排除されていたことが容易に推測できる。教育の 面では、「徳育」(道徳教育)と「智育」(智能教育)が、家庭の中で特に重要視されるよ うになった。儒教思想に基づく子どもの行動の支配、1910 年代後半の『婦女雑誌』では 以前と比べると幾分異なる論調の言論が見られる。子どもを「小さな大人」と看做すので はなくその個性を尊重して自由に伸ばす教育が家庭教育の一環として紹介され、その中で 特に日本を経由した欧米のモンテッソーリ教育方法も重要な役割を果たしたと考えられ る。
第三章では、1920 年代前半を扱った。この時期は、日本の大正デモクラシーにあたり、
中国社会の各分野では様々な変革が行われ、特に女性解放や教育などが重視された時代で ある。そして、五四運動を経て、章錫琛を『婦女雑誌』の編集長として迎えた時期の誌面 内容を検討した。章錫琛編集期の『婦女雑誌』の特徴は、女性問題や女性解放など多くの 問題を論議した上で、「自由戀愛」、「自由離婚」など西洋の女性問題を紹介することを通 して、「女性の地位向上及び家庭改革4」を唱える女性雑誌への変化を目指したことである。
本章では主に、明治女性思想家である平塚らいてうと章錫琛に焦点を当て、スウェーデ ンの女性解放思想家であるエレン・ケイの女性観をほぼ同時に受容した二人の相違点につ いて考察を試みた。まず「戀愛觀」に対しては、二人どもケイの恋愛至上主義という思想 に傾倒したが、章錫琛と比較すると、らいてうは種族保存と生殖のほかに、女性の社会的 な地位を求める部分がケイに近いことが分かった。もう一つの特徴として、らいてうがケ イと同様に、「來るべき子どもの權利の保護」と「婦人の社會的な自立」について認識し ているという共通の傾向が伺えた。章錫琛は不健康な子どもを生み出さない限り、社会に 害を与えなければ、如何なる結婚形式でも不道徳とは認められないと考える。その一方、
らいてうとケイの、「一夫一妻」以外の恋愛形式は決して道徳と認めない、むしろ自主的 な制限として「一夫一妻」を存続するという認識である。章錫琛のこの観念は、エレン・
ケイの女性思想から受容されたものであると考えられる。
4原文「本誌的主旨固在謀婦女地位的向上和家庭的革新」、無名氏、「編輯餘錄」、『婦女雑誌』第 7 巻第 2 號、1921 年 2 月、143 頁。
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第四章では、第三章に引き続き、章錫琛の女性観を論じた。商務印書館から離れていた 章錫琛は、1926 年 1 月に『新女性』を創刊し、『婦女雑誌』の女性解放精神をそのまま受 け継いだと言われる。一方、杜就田を編集長とする新しい『婦女雑誌』は、編集方針から 誌面内容まで比較的に「保守」であると先行研究で指摘されていたが、章錫琛編集期の『婦 女雑誌』より、女性読者から好評を得た。この章ではまず、1920 年代前半の『婦女雑誌』
で討論の頂点に達した「離婚問題號」(離婚問題号)と「配偶選擇號」(配偶選択号)とい う二つの特集号を取り上げて、杜就田編集期の「自由離婚」と「理想的な配偶者」など編 集者の言論と比較してその変化を明らかにした。まず、「自由離婚」という観念が中国に 伝来した際、『婦女雑誌』の編集者は反対の立場に立って「人倫の不幸」と語ったが、「先 進的」な五四時期になっても一部の知識人は「自由離婚」を「道徳堕落の元凶」と視なし た。しかし、「保守的」と言われると杜就田編集期の『婦女雑誌』には「自由離婚」に対 して男性知識人が疑問を呈する発言が見られなくなってきた。
また、1920 年代前半の男性知識人は「女は才能がないことが徳」といった従来の儒教 的女性観を否定し、理想的な配偶者として女性に良好な教育を求めたが、女性が職務を持 つことに対してそれほど関心を示さず、むしろ男性が外で働くべきという主張が強化され た。一方、1920 年代後半の『婦女雑誌』では「勞働力」など女性の独立能力を育成する ことに重心に置かれ、女性は「家庭改革の主動者」と認識され、経済的な生産に専念すべ きと『婦女雑誌』の編集者らは主張した。杜就田編集期の『婦女雑誌』を見る限り、「保 守的」、「中庸的」という判断は一面的であり、編集者らは当時の中国社会と家庭問題に対 する自らの理解に基づいて実際の女性問題を考える立場に立ち、実践と討論の空間を作り 上げようとしていたのではないかと思われる。
本章の一部の内容は、章錫琛が 1926 年 1 月に創刊した『新女性』という雑誌について 論じたものである。『新女性』は「青年男女の心の改造に努力する」ことと「新性道徳の 基礎を建設する」ことを目標とし、女性の社会的な地位と性に対する意識の変革を意図し たものである5。章錫琛の恋愛観はエレン・ケイの女性思想から大きな影響を受けたもの であることは第三章で示したとおりである。貞操観の変容について、『婦女雑誌』編集期 の章錫琛は、「男女同等」の立場から男性も女性も貞操を守らなければならないと強く主 張したが、『新女性』編集時期になると、貞操は恋愛と同様に「靈肉一致」の意義を付与 され、決して第三者が加わらない「戀愛」と「貞操」を条件として「内的」「自然的」な
「一夫一妻」を理想とする形式へと変貌するようになった。しかし、章錫琛のような社会 改良者が提唱した貞操観を見れば、個人の内在的な改造という主張は『新女性』の誌面で 繰り返し論じられたが、経済、政治、女性の権利などを含む社会制度の改造については殆 ど論及されなかった。勿論この「個人」から知識もしくは育児能力を持たない「舊式女性」
は排除されていたと考えられる。
第五章では、まず 1930 年代最初の編集長である葉聖陶が執筆した記事と小説を材料に して、彼の女性観の形成を考察した。葉聖陶は中国女性が自覚に欠け、大部分が男性の指 導に過度に依頼していることを批判し、女性教育と女性の社会進出の必要性に関連する記
5無名氏、「排完以後」、『新女性』第 3 巻第 3 號、1928 年 3 月、119 頁。