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日本の女子教育-ドイツとの類似性

第 4 章 子宮頸がんワクチンの接種対象者である女性―その近代化の歴史

4.2 教育理念における女性性-「他者のために生きる」

4.2.2 日本の女子教育-ドイツとの類似性

日本では、17 世紀以降(江戸時代)、朝廷および幕府が学問を推奨したが、その教育は 武士階級の男子の養育が目的であり、一般庶民の男子はもとより、女子も除外された。江 のオックスフォード大学は12世紀初頭の創設である。ボローニャ大学HP, ‘I numeri della storia’, http://www.unibo.it/it/ateneo/chi-siamo/la-nostra-storia/i-numeri-della-storia, オッ クスフォード大学HP, ‘Introduction and history’,

https://www.ox.ac.uk/about/organisation/history?wssl=1, 2017年6月閲覧。

6 当時のドイツの初等教育は、民衆学校と予備学校に分かれており、予備学校(6歳から3年)

修了後の進学は、ギムナジウム、実科ギムナジウム、高等実科学校(それぞれ9歳から10年)

と中間学校(9歳から6年)の4つに分かれていた(世界教育史研究会1977:51,59)。

7 第二次世界大戦後1949年に、ドイツはドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主主義共 和国(東ドイツ)に分裂し、1990年にドイツ連邦共和国として統一された(松村1995:2535)。

戸時代の女子教育は、儒教に基本を置くもので8、読書、習字、作文、詠歌、調理、裁縫、

機織などの習得に加えて、初歩の茶道・華道で十分とされ、男子と同じく学問を志すこと は婦人の人生に害を成すと考えられた。しかし、江戸時代も後期になると、庶民の教育も 家庭から寺子屋9という学校へ託されるようになり、明治初年には、1万3000を超える寺 子屋が約74万人の子供を教えており、男女の比率は7対2であった(櫻井1943:5-7)。

徳川幕府が瓦解して新政府が成立すると、1871年(明治4年10)には文部省が設置され、

その翌年、官立の東京女学校11が開校した。明治維新後の日本では、文明開化の思潮の高 まりを受けて洋学が急速に拡大しており、華族の女子を対象に英語や和洋の女性の仕事が 教授された(森1984:18; 櫻井1943:13-16)。また同年、明治政府は学制12を公布し、小学 校の設置において「一般ノ女子男子ト等シク教育ヲ被ラシムヘキ事」とし、初等教育にお いては、少なくとも男女が平等に扱われることとなったが、中学については男子の中学が 女子を「併せ教える」ことと定められた(櫻井1943: 20-23)。1874年(明7)に女子師範 学校が設置され、1882 年(明15)には、この女子師範学校の付属高等女学校が開校した が、これは小学校6年修了者が対象の5年課程で、女性のための礼節、家政、育児等を主 要学科とするものであった(森1984: 31,42)。20世紀になり、1900 年(明33)には新た に小学校令が改正され、就学の義務が明確化された。小学校への就学率は飛躍的に上昇し、

1887年(明20)には、男子60%、女子28%、全体では45%であったのが、1912年(明

45・大正元年)には、それぞれ99%、98%、全体で98%となった(森1984:62-64)13

女子教育に関しては、1899 年(明32)に高等女学校令が公布され、入学資格を男子中 学校と同様に定めて、各府県にその設置を義務付けるとともに、私立校の設置も認められ た。この高等女学校は、中流層以上の女子を対象に「良妻賢母主義」の教育を行うことが

8 儒学の古典における、婦人は「結婚前には父に、結婚後は夫に、夫の死後は子に従う」とす る三従や、婦徳(貞節)、婦言(言葉)、婦容(身なり)、婦功(家事)を女性の徳目とする四 徳(四行)などを指す。(新村1998:1110)。

9 寺子屋は、鎌倉時代末期から江戸時代を通じて普及し、初めは寺院において僧侶が、後には 武士、浪人、医師、神官などが教師となり、9歳前後の男女が3年から5年の間、習字、読書 き、珠算、武芸や漢学、裁縫等の科目を習得した(櫻井1943:6-7)。

10 西暦の後に()で表示する日本の年号については、4章の日本関係事項においてのみ適宜示 すものとし、2回目以降は、明治は「明」、大正は「大」、昭和は「昭」、平成は「平」の略語で 示すこととする。

11 東京女学校の修業年限は、下等と上等に2分された計6年であり、それぞれ、国書・英学・

雑工・手芸と国書・手芸・英学が課せられた(櫻井1943:15)。

12 この学制では、全国を8大学区、32中学区、210の小学区に分けて大学、中学、小学を設 置し、その他に専門学校、外国語学校、師範学校等の整備も行われた(櫻井1943:23)。

13 森(1984)64頁、表IV-1を参照した。

その目的であり、修養科目は、修身、国語、外国語、歴史、地理、数学、理科、家事、裁 縫、習字、図画、音楽、体操の他に、教育、漢文、手芸が随意付加可能とされている(森

1984:68-69)。明治40年代には高等女学校が急増するが、修業年限、科目および学習内容

は、男子の中学校課程と比べて小規模および低度に設定されており、中等教育において男 女の水準に差を設ける政策が反映された(森1984:68-69)14

大正時代に入り、産業の近代化と増産に伴い中産階級が増加して、一般民衆の社会的お よび政治的自覚が進み、都市における大衆文化が拡大した。1914年(大3)に始まった第 一次世界大戦は、政治、経済の面だけでなく、社会、特に教育の領野にも変動をもたらし た。大正年間には、17校の女子専門学校が開設され、音楽、医学、文学、家政学等の分野 で高等教育が行われた。1913年(大2)には、女子の大学入学制度についての審議が申し 入れられたが、女子のための大学制度の設置は時期尚早とされ、実現には至らなかった(櫻 井1943:246-252)15

昭和になり、世界恐慌の影響により経済不況が深刻化すると、軍部が勢力を増して全体 主義が台頭し、教育もその影響を受けた。第一次世界大戦後には、当時の女性の品行が放 縦かつ過激に傾き易いものであるという批判が起こり、成人教育および婦人教育の奨励気 運が高まり、1930年(昭和5)には「家庭教育振興ニ関スル件」の訓令により、日本固有 の美風を取り戻し、本来の家庭教育の意義を発展させることが喚起された(森 1984:85)。

政府は1937年(昭12)に「国体の本義」を、1941年(昭16)には「臣民の道」を刊行

し、天皇が日本国の主体であること(国体明徴)を教育に反映させることに努めた(森

1984:89-:91)。同年、従来の小学校令を改正し、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国

民ノ基礎的錬成ヲ成ス」という目的をもって国民学校令が公布された。日本が第二次世界 大戦に突入した1941年(昭16)の国民学校高等科の授業時数では、男子5時間の実業科 目(農業、工業、商業、水産)が女子は2時間となっており、女子には芸能科目の家事お

14 一方で、アメリカで宗教学、教育学を学んだ成瀬仁蔵は、1896年(明29)に『女子教育』

を出版し、女子の高等教育の必要性を説いた。成瀬は、女子教育不振の原因は、国家の使命を 自覚した婦人を育成する方針の欠如であり、裁縫や料理、技芸等の科目だけでなく、道徳、知 能、体格の面においても高度な学問的知識を与え、女子を人として、婦人として、国民として 教育することを主張し、1901年(明34)、日本初の女子のための大学として日本女子大学を開 校した(小河1995:198-201)。

15 しかしながら、同年、東北帝国大学が日本で初めて女子3名の入学を許可し、4年後に初の 女性学士を輩出した。続いて、1918年(大7)に北海道帝国大学が、1922年(大11)には同 志社大学が女子の学部入学を許可し、1925年(大14)には、九州帝国大学が法文学部および 農学部を開設して女子に門戸を開いた(櫻井1943:246-252)。

よび裁縫が5時間付加されている(森1984:92-93)16

1944年(昭19)8月には、学徒勤労令ならびに女子挺身勤労令が公布され、女子学生・

生徒も工場や農場に徴用され、学校は工場となり、教育の場および学習の機会は完全に失 われた(森1984:97)。

(2) 第二次世界大戦後-教育制度の改革

1945 年(昭 20)8 月、第二次世界大戦に敗戦した日本は、連合国総司令部(General

Headquarters: 以下GHQ)の管轄下に置かれた。1946年(昭21)、民主主義および平和

主義を理念とする「日本国憲法」が公布され、教育に関しても幾つかの条項が定められた。

中でも、第 26 条の「教育を受ける権利および義務」の規定により、日本国民には、能力 に応じて教育を受ける機会が均等に付与され、その普及のための義務教育の無償化も明言 された。日本国憲法の精神に則った教育の基本原則としては、1947 年(昭22)の「教育 基本法」17に続いて、同年、教育改革を具体的に制度化した「学校教育法」が公布された。

これは、教育の機会均等と男女の差別の撤廃を定め、学校制度を 6・3・3・4 制と単純化 し、中学3年までを義務教育とすることで、普通教育の向上を目指すものであった(森1984:

106-107;109-110)。

戦争が終結し、民主主義国家が成立して、このような民主主義的な学校制度が確立され たからといって、すべての日本国民子弟が即座にその恩恵に浴したわけではない。高等学 校(以下高校)への進学率は、1950 年(昭 25)では男子 48%、女子 36.7%、全体では

42.5%であり、女子は男子より1割ほど低かった。1975年(昭50)以降は男女とも90%

を超えるようになるが、高校進学において男女平等となるのには30年余が必要であった。

また、4年制大学(以下大学)および短期大学(以下短大)等の高等教育への進学は、1960

年(昭 35)までは、男子(大学)が 15%、女子(大学・短大合計)は 5%をわずかに超

える程度であったが、1965年以降の10年間で、男子(大学)は43%、女子(大学・短大)

で 32.4%まで急増した。1975 年以降は、女子は横ばい状態が続くが、男子は徐々に低下

し、1990年頃には、男子は女子に逆転される(井上・江原1991:116-117)。

高校における男女の学科選択に注目すると、2003年(平3)では、1位は男女ともに普

16 森(1984)93頁、表IV-2を参照した。

17 「教育基本法」は、戦前のような天皇による勅命ではなく、法律主義の原則に従って国会で 制定され、教育の理念や目的が、憲法における理想の実現にあることを明らかにし、教育の体 制を憲法に基づいて定めたものである(森1984:109)。