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日本の「第二の近代」化の様相

第 7 章 おわりに

7.4 日本の「第二の近代」化の様相

以上においては、本論の目的である日本の第二の近代化の様相を探求するという目的を 達成するために、子宮頸がんワクチンの選択主体である女性のサブ政治との関わり方、お よびワクチンの選択を通してみた選択主体である女性の個人化の状況、そして、その背景 としての日本の女性の社会的状況をまとめた。

日本の女性は、教育段階においては女性に教育は不要とする古い規範から解放され、男 性と同等の教育機会を得られるようになった。このことによって、日本の女性は自己実現 のための土台を築いたと言えるだろう。これは主観的レベルでの個人化の萌芽とも言うべ きものである。教育機会の均等性に再統合された後、労働においては、過去の「他者のた めに生きる」存在からは解放されつつあり、女性も多様な職種に進出している。しかし、

この労働における解放の次元は男性と全く同じではなく、第一の近代である産業社会が、

男性だけを社会の単位としていたことが残響している状態であり、男性とは異なる労働条

件の受け入れを余儀なくされている。つまり、日本女性は、労働において男性と同じ次元 に再統合されてはいない状況にある。男女の共生関係においても、日本においては性別に よる役割分業が根強く残っており、女性が職業を持ち、かつ結婚または男性との共生関係 を望む時、それは他者のためだけに生きていた時に比べてより困難な環境を形成している。

言い換えれば、男性と同等という意味での再統合がなく、他者のための存在からも完全に 解き放たれていないという意味では、半解放の状態であり、「再埋め込み」のない「半脱埋 め込み」ともいえる状況にあると考える。すなわち、日本の女性は未だ反近代的な存在で あり、しかしながら、近代的意識を形成する土台を築く段階に、ようやくたどり着いたと 言えるだろう。

このような意味での近代化が基礎を築いたばかりの状況において、日本の若い女性達と その保護者達は、子宮頸がんワクチンという未知の医薬品の選択を迫られることになった。

ベックのリスク社会論におけるサブ政治という側面においては、子宮頸がんワクチンを選 択した若い女性とその保護者達には、専門知を専有することで成立する医学というサブ政 治の存在に対する認識が形成されておらず、同じサブ政治勢力が政治の中に浸透している という構造についても理解しているとは言い難い状況があった。また、子宮頸がんワクチ ンを推奨するメディアに対しても、それが、市場において生産される様々な商品や情報を 発信することにより、その受け手である人々に影響を与え、受け手を操作することが可能 であるサブ政治であることの認識が不足していた。しかし、一方において、国が承認した 子宮頸がんワクチンを個人として実際に選択して副反応被害に遭った女性とその保護者達 は、被害に遭ったことによって下からのサブ政治としての連帯を形成し、医学というサブ 政治の対抗勢力となった。

また、個人化という観点においては、予防接種制度が部分的に個人化したことにより接 種の選択を付与され、それを強制されることになった。日本の子宮頸がんワクチンの提供 においては、製薬企業、医師、ワクチンの推奨団体を含む医学というサブ政治からの苛烈 な推奨活動があり、加えて、接種の無料化という政治的措置がその選択に大きく影響を及 ぼした。さらに、選択主体の周囲にある中間集団が、学校や保健所等の制度においても、

友人同士や近隣共同体という日常においても、ベックが主張するように、ワクチンに関す る医学的知識を持たない「非知」の状態からの情報伝達を行い、選択主体はそれらをギデ ンズの主張する「顔の見える」知識の代理人として信頼を置き、ワクチンを選択したと考 えられる。

また、客観的レベルにある予防接種制度は、義務接種の廃止により接種の選択を個人に 付与したことでその個人化を進めた。しかし、一方に、個人の接種の選択に対して、副反 応被害が起こった場合国が責任を取るという救済制度が存在している。個人の選択に別の 主体が責任を取ると言う構造は、個人化における選択の在り方からはずれるものがあり、

それがねじれとなって予防接種制度の個人化を部分的なものとしている。対して、主観的 レベルにある個人は、義務接種の廃止という制度の変化と、上述したような構造を理解し ておらず、客観的個人化に遅れることになった。

このように、子宮頸がんワクチンの選択は、部分的に個人化した制度により提供された ワクチンを、個人が医学的な知識を持たない非知の状況から、医学というサブ政治勢力、

中間集団、そして政治からの影響を受けるという制御が困難な条件下において行われた。

それは「国の承認したものだから間違いはない」という確信に基づき、「周囲が勧めるもの」

として受け入れたものであり、ワクチンが副反応という不可逆性の高いリスクを内包する ものであることの認識が欠如していた。結果として、当然のことながら、子宮頸がんワク チンの選択においては、個人がワクチンのベネフィットとリスクを考慮して選択を行うと いう、積極的かつ主体的な選択は行われ得なかったと考える。

近代化という言葉は、我々に肯定的なイメージを抱かせる言葉である。しかしながら、

ベックの提唱する第二の近代は良いことばかりが起こる時代を指しているのではない。こ れまで見てきたように、サブ政治化および個人化という現象は、市場に依存する現代社会 において避けがたく浸透するものである。この不可避の状況において問題となるのは、日 本では、この近代化が男性と女性という性別の間において不均衡に生起していることであ る。この不均衡さは、男女が共存しているにも関わらず、男性と女性という性別による差 異が現存している社会ではどちらか一方にしわ寄せを生む。子宮頸がんワクチンの選択で は、この第二の近代化の進展における不均衡は大規模に女性に押し寄せた形となった。本 論は子宮頸がんワクチン接種が男性にまで拡大されることを、決して支持するものではな い。しかしながら、男性が持つ HPV によって生じる子宮頸がんの予防対象が、子宮を身 体に有するというだけで、まず女性が接種対象となったことも、社会システムがその単位 を男性においていることと無関係ではないと考える。

本論は、日本の「第二の近代」化が、現在どのような様相にあるのかをテーマに論考を 展開した。日本における子宮頸がんワクチン事業を通して見た「第二の近代」化は、個人 化という視点においては、制度は部分的に個人化を遂げているが、個人における個人化は

性別により不均衡に進行している。また、個人に委ねられた選択に際しては、政治を確信 し、サブ政治や中間集団からの影響を多大に受けやすい存在であったことを考えると、日 本の女性には、未だに第一の近代的な特徴が見受けられる。社会の半分が女性であり、残 りの半分が男性という性別で構成されているとすれば、女性の「第二の近代」化の問題は、

そのまま男性の問題となり得る。

非常に長い間、男性中心で進んできた社会が女性をその中核に取り込んでいくことは、

容易なことではない。しかし、我々の生活が第二の近代に、徐々に、また不均衡に移行し ていることは本論が示してきた通りである。本論では、このような状況において未知の不 確実性を内包するものを選択する困難さを、子宮頸がんワクチン事業という事例を通して 確認することができたと考える。

個人の自由、平等、自己実現という近代の原理は、男性だけでなく女性においても同等 に実現されるべきものである。求められているのは、第二の近代化が不均一に進行する社 会においては、提供される選択肢について、「非知」である状態から脱してリスクとベネフ ィットを吟味することであり、主体的かつ積極的に選択に臨む姿勢を我々自身が身に付け ることであると考える。