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科学という知とそれを分配される個人

第 2 章 リスク社会論

2.2 リスクをめぐる多様な見解と主張

2.2.4 科学という知とそれを分配される個人

2.2.2 の(3)で論じたように、ギデンズにより近代が徹底される時代とされ、高度近代と

呼ばれる「第二の近代」化を媒介するものは、ベックの非知という概念とは対極を成す、

科学的知、専門的知、日常的知というものであった。さらにギデンズは、近代の特徴とし ての「脱埋め込み」が起こるためには、貨幣のような「象徴的通標」の創造に加えて、「専 門家システム」が確立されることが必要だとしている。この専門家システムとは、我々が 生きている物質的および社会環境において共有される、統一的な科学技術がもたらす成果 や、専門家知識そのものを指している(Giddens1990:21-29=1993:35-44)。このような「専 門家システム」とその知を分配され消費する個人との関係について、ギデンズは、「信頼」

という概念を設定して議論を進めている。

(1) リスクと信頼

ギデンズは、危険とはリスクに内包される概念であり、望んだ結果に対する脅威として 現れるもので、「安心(security)」という概念との対比を構成すると論じた(2.2.1(2)参照)。 この安心というものについて、ギデンズは、一連の危険(danger)が減少または最少にと どめられている状態であり、対象とするものへの信頼と受け入れ可能なリスクのバランス が取られている時に実現するものであるとしている(Giddens 1990:35-36=1993:52)。そ して、この「安心」を説明するために、ギデンズは、我々は家の中の階段が原理的には倒 壊することがあることを承知しながら、家の設計者や建築業者が用いる専門家知識を信頼 しているので、普段は心配することなく階段を上り下りしているという例を挙げている

(Giddens 1990:27=1993:43)。この例は、日常の生活において、我々が専門家の知識や技 術に一定の信頼をおいて生きていることを意味している。我々は、日常に様々な潜在的な 危険があることを知っているが、たとえば車を運転する場合でも、車が壊れないというこ とを信頼しており、道路においても道が陥没していたりすることがなく、通行人も他の自 動車も交通規則を守っていることを、信頼している。つまり、我々は車や交通システムを 設計し製造した専門家知識を信頼しているので、車を運転することで事故を起こすという 危険な行為を受け入れ可能なリスクに変換して、安心を享受していることになる(Giddens 1990:27-29=1993:42-44)。

この「信頼(trust)」という概念について、ギデンズは、まず「人や物や何らかの特質 や属性を、あるいは述べられたことがらの真実性を確信したり、それらに依存すること」

という辞書の定義を挙げ、ここで言及されている確信(confidence)や依存(reliance)

をゲオルグ・ジンメルの主張と関連付けている。ジンメルは「信頼は、われわれが誰かを 何かの原理を「信じる」場合に生じる」として、「あるモノにたいしてわれわれがいだく観 念とそのモノ自体との間には一定の結びつきや一体性があるという感情や、そのモノに対 するわれわれの概念形成が首尾一貫していること、そうした概念形成にわれわれは安心し て抵抗なく自我を委ねていること、を示している」17と説明している。ここから、ギデン ズは、信頼とは信仰(faith)の一形態であり、生じる結果に対して人々が寄せる信頼は、

単なる認知的理解ではなく、何かあるものに対する傾倒(commitment)を表すものであ るという主張を導き出している(Giddens1990:27-30=1993:42-46)。

続いて、ギデンズはルーマンの見解について言及している。ルーマンは、確信と信頼が

17 Simmel, G(1978),The Philosophy of Moneyの179頁(=元浜清海他訳,1981,『貨幣の 哲学』:242頁)からのギデンズによる引用(Giddens 1990 : 182 = 1993:223, 注24)。

類縁関係であると認めながら、危険とリスクを責任の帰属の有無によって区別したように、

ここでも、確信と信頼に区別を与えている18。ギデンズによれば、ルーマンは、信頼は、

近代になって登場したリスクという概念と特に関連付けて理解する必要があり、我々自身 の意思決定の帰結が、かつて運命として受け取られたことから、リスクにとして認識され るようになったことと同様に、信頼はリスクを伴うことを認識しているものであるが、確 信はリスクの認識を前提としていない、としている(Giddens1990:30=1993:46)。ルーマ ンはここにおいても、「起こりうる損害が決定の帰結と見なされ、従って、決定に帰される 場合にはそれをリスクとし、あり得る損害が、外部からもたらされたと見なされる、つま り環境に帰属される場合は危険と呼ぶ」(Luhmann 1991=1993:21-22 =2014:38)という、

危険とリスクを区別した際の決定の帰属の有無を連関させている。それは、損害が決定の 帰結と見なされるリスクを前提とする信頼は、それが裏切られた場合には、リスクと同様 に自らがその責任の一端を負わなければならないが、確信の場合は、結果が期待外れに終 わったことについて 誰かにその責任を負わせることで対処できるという ものである

(Giddens 1990:30-31=1993:46-47)。

ギデンズはさらに、意思決定をする際に他に選択肢があることを認めて、リスクを敢え て取る人は相手を信頼しようとするが、他の選択肢が考慮にない人は確信の状態にあると いうルーマンの主張を、次のような例で説明している。それは、予算がなくて中古車しか 買えない人は、他に選択肢を考慮できない状況にあることで確信の状態にあり、買った中 古車に欠陥があった場合、その人は中古車を販売した相手にその責任を追及する。しかし、

予算に余裕があり、新車でも中古車でもどちらでも買えたのに、敢えて中古車を買う場合、

その人は、中古車を売る人や会社の評判に対して信頼を置くことで購入を決定する。この 場合、買った車が欠陥車だった時には、新車を購入する経済的余裕があったにも関わらず、

敢えて中古車を買った自分にも責任の一端があり、また、車を売った会社や相手を信頼し てしまったことを後悔するかもしれないとしている(Giddens 1990:31=1993:47-48)。

しかしながら、ギデンズは、危険とリスクを区別したように、信頼と確信を区別するた めに行われた概念化についてはルーマンの見解を評価しながらも、信頼は確信と異なるも のではなく、ルーマンが示すように、選択肢がある場合とかない場合というような特定の

18 Niklas Luhmann, Trust and Power1979)(=大庭健・正村俊之訳,1990,『信頼』)におけ る“Familiarity, Confidence, Trust: Problems and Alternatives,”を指す(Giddens 1990

=1993:224,注27参照)。

状況と結びつけて捉えるべきものではないとしている。ギデンズは、信頼は、より継続的 な状況で成立する確信の特殊なタイプであり、それは時間的にも空間的にも自分がそこに いないこと、つまり対象に対する情報が欠如していることが成立の条件であり、相手また は対象物に大きな権限を与え得る白紙委任状のような、絶対的な信任であると結論してい る(Giddens 1990:32,33 =1993:48,50)。

本項では、リスクと信頼、そして信頼と確信について、ルーマンとギデンズの見解を対 比することで検討を行った。ギデンズのリスクと信頼の関係は、我々は潜在的なリスクを 知りながらも専門家知識を信頼することでリスクを最小化し、一応の安心を日々享受して おり、信頼とは「信仰(faith)」の一形態であり、単なる認識や理解ではなく、「何かある ものに対する傾倒(commitment)」、すなわち、対象を知らないからこそ成立する、強い 信任であるというものであった。対して、ルーマンは、危険とリスクの区別をしたように、

決定の帰属という概念を媒介に信頼と確信を区別している。この信頼と確信の問題は、本 論が事例とするワクチンの提供と選択の問題にとって重要な要素であり、6.2.6において分 析に応用する。次項では、科学知とそれを消費する個人の間にどのような信頼の関係が構 築されているかについて、ギデンズの主張を続けて知見する。

(2) 個人と科学知の間における信頼

前述したように、ギデンズは、信頼(trust)が成立する条件としては、目の前にいる人 やあるシステムが何をしているかという情報が「ないこと」であるとしており(Giddens

1990:33=1993:49)、また、近代という時代における信頼は、近代の社会制度とともに、人

間の行為の変容可能性が甚だしく拡大するという状況で、成立するものであるとしている。

そして、このような近代的な制度の本質は、2.2.2 の(3)で示された象徴的通標と専門家シ ステムをひとまとめにした「抽象的システム」(Giddens 1990:80=1993:102)に対する信 頼 、 と り わ け 専 門 家 シ ス テ ム に 対 す る 信 頼 と 密 接 に 関 係 す る (Giddens 1990:

34=1993:50-51)。

近代社会において非専門家である一般人すなわち個人は、専門家の知識に頼らずに生き て行くことは不可能であるが、専門家の知識は、専門家である人により現されるため、非 専門家である個人は、その知識そのものではなく、その知識を代弁する人を信用しがちで ある。この知識を語る人が「顔の見える」知識の代理人であり、個人は抽象的システムに 存在する知識そのものを理解することができないので、そのアクセス・ポイントで出会う