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子宮頸がんワクチンの選択を通してみた個人化

第 7 章 おわりに

7.2 子宮頸がんワクチンの選択を通してみた個人化

前節においては、第二の近代に発展するとベックが主張しているサブ政治という概念と 子宮頸がんワクチンの選択主体の関係を論じた。本節では、リスク社会である第二の近代 において、よりいっそう進むとされている個人化という現象とワクチンの選択主体の関係 から、その第二の近代化の様相をまとめる。

6.3.3(1)において、客観的レベルにある予防接種制度は、ワクチンの選択権を個人に付与 したが、副反応に対する責任の部分では法的な救済制度を残しており、その個人化にはね じれが生じていると論じた。加えて、選択主体である個人は、ワクチンの選択が個人の判

1 ベックはリスク社会の原動力となるものは「不安である」ことであり、階級社会においては

「持たざること」が共有されたことに代わって、リスク社会では不安を共有することが政治的 な力になるとしている(Beck 1986=1998:75)。

断に委ねられた努力義務であり、ワクチンの選択に国の承認と個人の選択という二重性が 存在しており、結果としてその責任も二重になっているという構造を認識することがなか ったと考える。ワクチンの選択主体は、予防接種制度において義務が廃止され、努力義務 となったことの意味を問うことなく、ここでも、国すなわち政治の決定を確信したと考え られる。

このようにワクチンの選択において政治の決定、すなわち国を確信する姿勢は、第一の 近代を支えてきた国民国家に基盤を置く発想である。そのため、ワクチンの選択主体にお いては、製薬市場がグローバル化しており、子宮頸がんワクチンが日本とは異なる性の文 化を持つイギリスとアメリカの製造であり、それが日本に導入されることが妥当であるの かという問いを生み出すことがなかった。すなわち、この子宮頸がんワクチンが、西欧と は異なる文化を有する日本の中学生および高校生女子に真に必要なものであるかとうかと いう、必要性についての思慮が失われることになったと考える。

また、子宮頸がんワクチンの場合は、医学というサブ政治によるテレビCMや新聞広告 などの激しい推奨活動が展開され、加えて、リスクの軽減や回避のために機能するはずの 中間集団も本来とは逆の働きをしたため、その対象者の多くが接種実施へと導かれた。こ れらの推奨活動に関わった医師や専門家や有名人、そして中間集団の成員は、科学知その ものではなく、ギデンズが主張するように、知とのアクセス・ポイントにおける「顔の見 える」代理人である(2.2.4(2)参照)。子宮頸がんワクチンを選択した若い女性とその保護 者は、ワクチンという科学知にアクセスしてそのリスクについて知ることよりも、あるい はそのリスクを知っていたにも関わらず、その代理人を信頼したことになる。結果として、

現代の医療では治療が大変困難な副反応被害に遭った被害者達は、国を信頼したことと同 様にこれらの代理人を信頼したため、その確信の状態が強化され、ワクチンの接種選択へ 向かったと考えられる。

加えて、政治は、公費助成および定期接種化により子宮頸がんワクチン接種の無料化を 実施した。ベックが主張したように、第二の近代における選択に対して個人は非知の状態 にあり、選択対象を知る権利を奪われている(2.2.2(3)参照)。子宮頸がんワクチンの選択 主体は、政治とサブ政治がワクチンのリスクおよび努力義務接種についての周知を十分に 行わなかったため、非知の状態にあったことに加え、前述したように、自分が接種しよう とするワクチンについて主体的に努力することでそれを知ることよりも、その代理人達に 信頼を寄せた。つまり、子宮頸がんワクチンの選択主体は、ワクチンに対して自分達が非

知の状態にあることを自覚しておらず、推奨活動に説得され、無料化という措置に後押し されることによりワクチンを選択したと言える。結果として、副反応に遭った場合の救済 は申請可能であるが、その手続きは煩雑であり、その救済も医学というサブ政治がそれを 判断するというものであり、すべての被害者に行き渡るわけではなく、治療自体も大変困 難な状況となった。このような選択の在り方は、一度選択を決定したならば、その結果に ついては自分が責任を負うというリスク社会における選択の帰結を見通すことからは、大 きく乖離していることを示すものである。

1994年の予防接種法改正以前の予防接種制度においては、接種の選択権は個人にはなく、

それは国民の義務であった。この予防接種法改正において選択権が個人に与えられたこと は、個人化のプロセスとしては「解放」の次元を意味している(2.3.2(1)参照)。しかし、

この解放の後に「再統合」は起こっていない。子宮頸がんワクチンの副反応被害者達は、

政治がその責任として整備した救済措置により経済的な救済を受けることは可能だが、そ の副反応被害は新しいワクチンの新しい不確実性による不可逆性が高いものであるため、

本来の健康を取り戻すということが著しく困難であり、政治による救済は身体的損害、生 命、人生の救済ではない。つまり、日本の現行予防接種制度でワクチンを選択するという 行為は、解放はあっても元の健康な身体に戻るという再統合のない、まさに第二の近代に おける個人化が具現化されたものである。繰り返しになるが、これに気づくことは、個人 には大変難しいことである。しかしながら、子宮頸がんワクチンの選択主体に、この選択 における個人化の認識がなかったことも事実である。

個人化した社会では、個人は自分の人生に対して決定を下すことが可能になったが、そ の決定は、自分では制御不能な諸条件下で人生のチャンスやリスクを鑑みながら決定を下 すことを強制されるようになる(伊藤2017:79)2。この主張に沿って解釈すれば、子宮頸 がんワクチンの選択主体においては、選択については個人化した制度においてワクチンの 選択という決定を下したが、後の制御不能な条件下でのチャンスとリスクの考慮、すなわ ち、ワクチンのベネフィットとリスクへの考慮は実現されなかったと考える。

前節で述べたように、子宮頸がんワクチンの選択主体は、サブ政治という観点において 部分的に「第二の近代」化を経験していた。個人化という観点においても、副反応被害の 有無に関わらず、その選択に関しては制度により個人化を強制された状態である。しかし、

2 Ulrich Beck, 1997, “Was meint, 'eigenes Leben’ ?”, Ulrich Beck und Ulf Erdmann Ziegler Hg., Eigens Leben, Minchen, C.H.Beck, 9-17 からの伊藤による引用(伊藤2017:79)。

その個人化した選択の帰結が自分に戻されること、言い換えれば人生の成り行きが個人の 問題としてその行為に委ねられるということまでは考え至っていない状態である。すなわ ち、第二の近代の個人としてその生活史が自己再帰的になる(Beck1986=1998:267)こと においては、彼女達はその途上にあることから、制度の個人化に対し、個人のレベルの個 人化は遅れていると言わざるを得ない。

ここまで、ベックのリスク社会論におけるサブ政治と個人化という概念に沿って、日本 における子宮頸がんワクチンの選択主体の状況を論じた。次節7.3では、個人化における 解放と再統合、そして自己実現という視点からドイツと日本の女性を比較した第4章の考 察に立ち帰り、子宮頸がんワクチンの選択主体から視野を拡大して、現在の日本の女性が 置かれている状況を再度確認する。