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第 9 章 「多く」と「たくさん」の意味分析

9.2 先行研究とその検討

9.4.2 連体修飾用法における類似点と相違点

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最後に、以下のように「多く」が頻度を表す別義④で用いられる場合、「たくさん」とは 基本的に置き換えが難しい。このことから「たくさん」は、頻度を表す意味では用いられ にくいと言える。

(42) 抗がん剤は、細胞へのダメージの与え方によって数類にわけられ、治療の際には、

2 種類以上の抗がん剤を組み合わせて使用することも多く(*たくさん)おこなわ

れている。 ((=25))

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た場合でも、「たくさん」は割合の意味ではなく、あくまでも母集合からは独立した数を表 す。

続いて、以下の例は、数量大を表す別義③の例である。

(45) 「動乱の十年」については多くの(たくさんの)本があるが、事態の原因について これほど本質的に言いあらわしたことばを私は読みも聞きもしていない。

(BCCWJ)

(46) 町営小山スキー場でもスキー教室が開催されました。1月 20 日は、教室最終日と いうこともあり、多くの(たくさんの)参加者が集まりました。 (BCCWJ)

(45)(46)の「多く」は、それぞれ「(『動乱の十年』について書かれた)本」「参加者」

というものの数量が大であることを表すが、偶然的な空間関係にある量を表す表現ではな い。(45)は、物理的空間を示す表現がないことからも分かるように、ある空間に位置する

「本」の量ではなく、「本」という上位カテゴリーに対して「『動乱の十年』について書か れた本」という下位カテゴリーに属する本の量を表す。つまり、対象「動乱の十年」に「多 くの本が書かれた、つまり、多くの人が興味を持つ出来事である」といった属性を付与す る属性叙述である。さらに、(46)の「多くの参加者が集まりました」は出来事を表すが、

「スキー教室」が有する性質(盛況であった)を表す叙述と捉えることが可能である。(45)

(46)においては基準の制約が無効であり、話し手が一般的な基準で量を判断している。

それゆえ、「多く」を「たくさん」とほぼ同じ意味で置き換えることができる。このように 考えると、冒頭の(1)「多くの参加者が集まった」も、文全体で(文中には明示されてい ない)ある出来事の性質を表す属性叙述であると考えられる。

次に、別義④の頻度の意味では、連体修飾形「たくさんの」は用いにくい。

今度は逆に、「たくさんの」を「多くの」に置き換えることができるかどうか見てみよう。

(47) きのう、たくさんの(?多くの)専門書を買った。 (=(13)) (48) 「野菜が苦手・・」というお子様のために、たっぷりの野菜を使った「ベジバーグ」。

たくさんの(?多くの)野菜をみじん切りにして、あいびき肉と混ぜ合わせます。

(NLT)

(47)(48)においては、「たくさんの」を「多くの」に置き換えると容認度が下がる。

自然な文にするには「いつもより」のような、基準になる語を付加しなければならない。

これは、(47)(48)の「たくさん」は、ある時空間に実現するある事象の量を述べるの であって、ある対象がある属性を有することを述べるとは捉えにくいからである。このこ とから、連体修飾用法「多くの」においても基準の制約が有効であることが分かる。

ここまでの考察をまとめると、連体修飾用法「多くの」は「多く」の別義①、別義②、

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別義③の三つ意味で用いられる。この中で別義③の場合、「たくさんの」とほぼ同じ意味で 置き換え可能である。ただし、連体修飾用法においても制約は維持され、「多くの」が偶然 的な空間関係にある量を表す場合(すなわち、事象叙述において)は、基準が明示される かあるいは想定できなくてはならない。

9.4.2.2 「多くの」と「たくさんの」の相違点

さて、それでは「多く」の別義③と「たくさん」の別義①とはどのような違いがあるの であろうか。結論から先取りすると、この二つの形式は、決定的に文型が異なる。「たくさ んの N」は、「は」が下接しにくいという制約が認められる。NLB を利用して検索すると、「た くさん+の+N」の形式は 1829 件あるが、この中で「は」が下接する例は 3 例のみであっ た。

久野(1973)は「『ハ』でマークされる日本文の主題」は、「総称名詞句か、文脈指示の 名詞句でなければならない」(pp.29-30)として、以下のような例をあげている。

(49) a.鯨ハ哺乳動物デス。[総称名詞]

b.太郎ハ私ノ友達デス。[文脈指示]

c.二人ハパーティーニ来マシタ。[「その二人」の意味]

d.*大勢ノ人ハパーティーニ来マシタ。

ただし、久野は「対照を表わす『ハ』に先行する名詞句には、このような制約が無い」

として、(49d)が非文であるのに対して「大勢ノ人ハパーティーニ来マシタガ、面白イ人 ハ一人モイマセンデシタ」という文法的な例をあげている(p.30)。このように、文脈によ って「対照」を表すと解釈できれば容認度が上がる。

ここで、「たくさんの N は」の実例を見ると、3 例とも「こんなに」「ここにいる」のよう な指示詞や直示表現などによってその場に存在する事物を指す現場指示用法で用いられて いる72。単独で「は」が下接する例は観察できなかった。このことから、「たくさんの N」は 総称名詞句にも文脈指示の名詞句にもなりにくく、対照を表すことも難しいと考えられる

(「たくさんの人はパーティーに来ましたが、面白い人は一人もいませんでした」も容認度 が低い)。主題の「ハ」でマークされる名詞句の特徴について、高見・久野(2006)は、「聞 き手がその指示対象が何であるかを決定できることである」(p.186)と記述している。こ の記述から、「たくさんの N」に「は」が下接できないのは、聞き手がその指示対象が何で あるかを決定することが難しいからと考えられる。しかし、「こんなに」「ここにいる」の ような指示詞や直示表現などによってその場に存在する事物を指す現場指示であれば、注

72 以下の 3 例のみであった。

①「こんなにたくさんの細菌はどこからやってきたのでしょう」

②「こんなたくさんの新聞は、お父さんがいないんだからもうとるのをよそう」

③「ここにいるたくさんの人たちは、一体どうなってしまうのだろう」

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72 で見たように「は」が下接できる。つまり、指示詞や直示表現などによって指示対象が 何であるか聞き手が決定しやすくなると考えられる。

指示詞や直示表現などによって数量詞の個体性(卓立性)が上がることは、岩田(2006)

によって指摘されている。岩田は、例えば「二人」という数量詞において、「二」というの は「指示物の数」を表し、「人」というのは「指示物のカテゴリー」を表すことから、「二 人」という数量詞自体が、指示物を指し示す機能をもっているわけはない、と述べる(岩 田 2006:40)。しかしながら、以下の例においては「二人」が指示物を表す用法で用いられ ているとしている。

(50) (女性→聞き手二人への発話)「待って!!」「二人には言わなかったけど、ベイマー さんには村に下って、雪崩のことを知らせるようにお願いしたんです。」「すべて私 の責任です。」 (岩田 2006:40 下線は原文のまま)

岩田は、上の例の「二人」は「あなたがた」や「X さんと Y さん」のように代名詞や指示 物を表す名詞に置き換えが可能であると述べ、このような数量詞の用法を「数量詞代名詞 用法」と呼ぶ。その上で、指示物を指し示す機能をもたない数量詞を(50)のように数量 詞代名詞用法で用いることができる理由について、「現場に存在する聞き手二人を指してい るので、この場合も指示物が何であるか明白である。このように文脈における個体性とい うものがこの数量詞代名詞用法に関わっているのではないだろうか。ここでいう個体性と は一種の卓立性である」と述べている(p.40)。「たくさんの N」も指示物 N の数量を表すの であって指示物を指し示す機能があるわけではない。このことは、注 72 であげた(51)に おいて、「たくさんの N」に「は」が下接する例において、「こんな」を削除すると容認度が 下がることからも分かる。

(51) 母親の周りには、いろいろな商業郵便や官公庁の機関からの通知書や、畳んだまま の新聞、週刊誌まである。「?たくさんの/こんなたくさんの新聞は 、お父さんが いないんだからもうとるのをよそう」と言うと、「だめだめ、それはいつも読んで いるんだから」と、反対する。 (注 72 より、前後文脈追加して再掲)

このように、「たくさんの N」も指示詞や、直示表現によって個体性(卓立性)が上がり、

聞き手が指示対象が何であるかを決定できるようになると考えられる。

一方「多く」は、冒頭で見た(3)「多くの学生は、いつの時代でも花形産業に就職した がるものだ」のように「は」が下接できる。これは、「多くの学生」が学生の数を表すとい うよりも、一般的・総称的な学生を表す総称名詞句と解釈できるからと考えられる73

73 眞野(2008:74)は、「ものだ」は総称文にのみ付与される表現であり、内在的属性叙述を行うゆえに直 示的時間副詞とは共起しない(例「(*明日)象の鼻は長いものだ」)と述べている。「多くの学生は、いつ

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また、(11a)「多くの学生はレポートを出した」のような文において「は」が下接できる のは、9.2.2 で見たように、母集合が想定でき、聞き手と話し手にとってどの学生を指すの か指示対象が明らかであるからである(この場合は「多く」の別義②である)。あるいは、

「多くの学生はレポートを出したが、出さない学生もいた」のように対照を表すとも解釈 できる。つまり、「多くの N」は、総称名詞句または文脈指示の名詞句としての解釈が可能 であり、さらに対照を表すとも解釈することができるため、「は」が下接できると考えられ る。

9.4.2.3 「たくさんの大人も好きです」が不自然である理由について

ここで、9.2.1 で見た(9)「この本は子供のための本です。けれども、たくさんの大人も 好きです(引用者が漢字表記に一部改)」が不自然である理由を考えてみよう。

まず、この文から「たくさんの」を削除すると自然な文になる。また、市川の記述のと おり「多くの」に置き換えても自然な文になる。この場合「大人」と「多くの大人」はと もに「この(子供のための)本が好き」であるメンバーの種類を表すと解釈できる。この ことは、「たくさんの大人も」を「高校生や大学生も」と置き換えても自然な文であること からも分かる。ところが、これを「100 人の大人も」に置き換えると不自然になる。(9)は

「この本が好き」という共通の特徴を持つたメンバーの範疇に「(種類としての)大人一般」

が属するという判断を示すのであって、メンバーの「数量」を表す語は、同じ範疇に属す るとはみなされないと考えられる74。つまり「たくさんの N」は、「数量詞(たとえば「100 人」)の N」同様、あくまでも数量を表すのであって、種類を表すことが難しいと考えられ る。このことは、「たくさんの N」が「は」をとることが難しく、範疇化が難しいというこ とにもつながる。これが「たくさんの大人も好きです」が不自然である理由であると考え られる。

一方、「多くの N」は種類(N 一般)を表すことができ、総称名詞句の役割をし、(一般)

名詞同様、範疇化の機能を持つ表現である75

では、同じく大きな数量を表すにもかかわらず、なぜ「多くの N」は総称名詞句の役割を し、種類(N 一般)を表すことができるのに対して「たくさんの N」はできないのであろう か。

その理由は、両語の本来の意味に動機付けられていると考える。9.2.2 で見たように、加 の時代でも花形産業に就職したがるものだ」も、「ものだ」が用いられ、主語の性質が恒常的に成立するこ とを表すことから、内的属性叙述を行う総称文であり、「多くの学生」は「総称名詞句」の役割をしている と考えることができる。

74 加藤(2006b)は、「モの基本機能は、『同じカテゴリーに属するという判断』(同一範疇判断)を示すこ とであるが、A に対して『B も』とすると一般的には、同種のものの追加に解釈される(累加用法)(p.97 強調は原文のまま)と記述している。

75 加藤(2006b)は、(一般)名詞が有する「範疇化」機能について、『猫』という一般名詞であれば、そ こに含まれる指示物は、個別に異なっており、異なる個体をとりまとめて範疇を設定し、意味化する作用 が見られる」と記述している(p.16)「多くの大人」も「大人」という名詞同様、範疇化の機能を有する と考えられる。