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第7章 人間を表す数量表現の類義語分析

7.2 類似点

7.4.2 存在物としての人間の際立ち

「大勢、たくさん、数多く、多数」の 4 語はすべて人間を表す語と高頻度で共起し、「大 量」とは異なり、人間らしさが際立つ場合にも用いることができるとはいっても、この 4 語が表す人間らしさの程度においても段階性があることが予想される。まず、「大勢」は人 間専用の語であることから、人間らしさの程度が最も高いと予想できる。以下の例におい て「大勢」は、ヒト名詞以外の名詞と共起している。

(21)人前で話すこともできなかった自分が、大勢(*たくさん/*数多く/*多数)

の前でマジックを披露できるようになるなんて思いもしませんでした。 (BCCWJ)

(22)サッカーの中村俊輔選手を育て、全国高校サッカー選手権大会準優勝を果たした、

桐光学園の佐熊裕和監督は、大勢(*たくさん/*数多く/*多数)の前で叱った ほうがよい選手と、そうでない選手を2分した指導を行っています。 (BCCWJ)

7.2 の表 1 で見たように、「大勢」と共起する名詞は、頻度の高い順に「人、人々、方々」

などのヒト名詞が占める。ところが 4 位に挙がっている「前」は(位置を表すのであって)

普通、人間を表さない。(21)(22)の「大勢」は人間の数を表すが、「たくさん、数多く、

多数」とは置き換えることができない。置き換えるには「たくさんの人(人々、人間)の 前で」などのように人間を表す語が必要である。

「大勢の前」とは言えても「たくさん/数多く/多数の前」が言いにくい理由について、

空間を表す「N(名詞)の前」という形式における N は、N を基準として相対的な位置を表 すことから空間に存在する具体的なものが選ばれやすいと考えられる。つまり、「大勢」は 単に「数」を表すのみならず、人間の集まりという具体的な存在物として捉えることがで きるが、「たくさん、数多く、多数」は(物や人間はもちろん抽象物も数えることはできる が)「数」に注目するのであって、具体的な存在物として捉えにくいため基準になりにくい と考えられる。

続いて、人間らしさの程度を「ある」と「いる」との共起から考察する。以下の例では 人間を表しても「ある」が用いられている。

(23)共同人名票は、表題部に記載すべき所有者もしくは各区に記載すべき登記権利者 または登記義務者が多数(?大勢)あるときに、表題部または各区に記載するのに

かえて、共同人名票という別個な用紙に記載されます。 (BCCWJ)

(24)そのようにモーツァルトを高く評価した人物が、多数(?大勢)ありながら、モー ツァルトの葬儀が、ミサやレクイエムによる通夜なしで行われたという「事実」を

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取り巻く事情は、極めて厳しいものであったと解釈しなくてはならない。

(BCCWJ)

(25)また、周辺事態法、これが憲法違反だという見解を持っておる日本の政治家とい うのはたくさん(?大勢)ありますし、私もそうでありますし、そのような方が知 事や市町村長あるいは地方議員に当選をされるということももちろんあるわけで

(略) (BCCWJ)

(26)法然門下では、ひとり高名の士ばかりでなく、強盗・遊女のような人たちであっ ても、その信仰の真実の故に、立派な感動物語のヒーロー・ヒロインとして、名誉 の名を長く伝えている人が数多く(?大勢)ある。 (BCCWJ)

(23)の「多数」は、存在主体である「(表題部に記載すべき所有者もしくは各区に記載 すべき)登記権利者または登記義務者」の数を表すが、世界の中のある個体を指し、その 個体がある空間的場所に存在していることを述べているのではない。つまり、存在主体は 物理的に存在する個体を指示するのではなく、[x が登記権利者または登記義務者である]

という命題関数を表す変項名詞句であり、「多数ある」でこの命題関数に含まれる x の値が 大であることを述べていると考えられる。今井・西山(2012:192)は、このように「存在 主体を表す名詞句が変項名詞句であり、文全体が変項の値の有無を述べているタイプの存 在文を絶対存在文とよぶ」(強調は原文のまま)とし、「台所に母がいる」のように場所表 現を伴う存在文(以下「場所存在文」)とは「異質な存在文」であるとしている。

また、「ある」と「いる」の使い分けについて、場所存在文において、有生の主語を取る 場合は「いる」のみが許容されるのに対し(例「田中さんは研究室に{いる/*ある}」)、 場所表現を伴わない存在文では「ある」も「いる」もともに許容される(例「病気をして も絶対病院に行かない人も{いる/ある}」)(金水 2006:19)。(23)が場所存在文ではない ことは、「登記権利者または登記義務者」が物理的な個体の存在を表す(場所存在文の)場 合は「会議室に登記権利者または登記義務者が多数{いる/*ある}」のように「いる」の みが許容されることからも分かる。

同様に、(24)の「モーツァルトを高く評価した人物」も[x がモーツァルトを高く評価し た人物である]を表す変項名詞句であり、「多数ある」は変項の値が大であることを述べて いる。

この場合、先述のように文体差はあるが、「多数ある」は、「たくさんある」「数多くある」

と置き換えることが可能である。(25)の「周辺事態法、これが憲法違反だという見解を持 っておる日本の政治家」も変項名詞句であり、「たくさんある」は変項の値が大であること を述べている。同様に、(26)の「立派な感動物語のヒーロー・ヒロインとして、名誉の名 を長く伝えている人」も変項名詞句であり、「数多くある」は変項の値が大であることを述 べている。これらは絶対存在文であり、「たくさん」と「数多く」が「ある」と共起してい る。これらは「大勢」と置き換えると容認度が下がると思われる。

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一方、BCCWJ の検索において「大勢」が「ある」と共起する例は以下の 2 例のみであった。

(27)僕だって強いことは言えないよ。若い連中と違って子供が大勢ある。 (BCCWJ)

(28)諸君。「花岡の家来」云々と言って新入生の内藤君にからかふものが諸君の中に大 勢あるやうです。 (BCCWJ)

(27)の「大勢」は「子供」の数を表すが、空間的場所における「子供」の有無を表す 存在文ではなく、所有を表す。このような所有の表現においては、人間であっても「ある」

が使われることはよく知られている。一方(28)の「大勢ある」の主体は、[xが新入生の 内藤君にからかふものである]という命題関数を表す変項名詞句であって今井・西山(2012)

のいう絶対存在文である。

さらに、検索エンジン Yahoo!を利用して検索すると、「人がたくさんある」は 6340 万件、

「人が多数ある」は 574 万件、「人が数多くある」は 138 万件観察できるのに対し、「人 が大勢ある」はわずかに 5 件のみであった。たとえば以下のような例が観察できる。

(29)原発反対の人が大勢あることを考えると、脱原発は大部分の国民の声だろうと思 う。 (http://dendrodium.blog15.fc2.com/blog-category-18.html)

(29)の「大勢」は「多数、たくさん、数多く」と置き換えることができる。このよう に、「絶対存在文」においてヒト名詞が「大勢ある」と共起する例も観察することはでき る。しかし、(23)~(26)のように容認度が下がる例が多く、量的にも圧倒的に少ない。

つまり、絶対存在文においては「大勢ある」は用いられにくいということができる。

絶対存在文において有生名詞に「ある」が用いられる理由として寺村(1982:159)は、

「この種の表現では、存在主体が生きものであるかどうかという区別意識が全くなく、ア ルとイルの区別もなくなる」と述べている。つまり、「大勢ある」が用いられにくいのは、

「大勢」は「存在主体が生きものであるかどうかという区別意識」が際立ちやすい、すな わち「大勢」によって「存在主体」が「生きものである」と捉えられやすいからであると 考えられる。ただし、(28)(29)においては「大勢ある」が用いられていることから、

すべての絶対存在文において「存在主体が生きものであるかどうかという区別意識」が「全 くない」というわけではなく、区別意識はあくまでも段階性があり、同じくヒト名詞が絶 対存在文に用いられても、有生物としての人間の意味がより際立つ場合と希薄化する場合 があり、際立つ場合には「大勢ある」は用いられにくいと考えられる。

また、「大勢ある」が絶対存在文に用いられにくいということは、先述のように、「大 勢」が「大勢の前」のように用いられて物理的な存在物としての(複数の)人間を表すこ とができることと矛盾しない。これらの事実から、「大勢」は人間らしさの際立ちの程度 が最も高いことが確認できる。

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