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第 8 章 「たっぷり、どっさり、いっぱい」の意味分析

8.1 はじめに

8.3.2 先行研究とその検討

8.3.4.2 連体修飾用法における違い

本章冒頭で見たように、以下の文においては、「いっぱいの」と「たっぷりの」ともに不 適格である

(73) 田中先生はたくさんの(*たっぷりの/*どっさりの/*いっぱいの)学生を呼び 出した。 (=(2))

「名詞+いっぱいの」という複合形式ではなく、単独で用いられる「いっぱいの」は<容 器が限界まで達した>状態を表す表現であると考えられる。したがって、(73)「いっぱい の」は<容器>が示されておらず不適格になると考えられる63。また、(73)の「たっぷり の」は、「たっぷり」が人間の数を表しにくいため不適格になる。人間以外の場合でも「た っぷりの」が自然な表現になるのは「たっぷりの熱湯」のように、「ゆでる」という目的を 達成するための中身(熱湯)の量が自然に想定できる場合であると考えられる。一方、「い っぱいの」が用いられる例は、日経テレコン 2010 年に 105 例あるが、そのうち 94 例(90%)

は「名詞+いっぱいの」のように接尾語的に用いられ、「いっぱいの」が単独で用いられる 例は 11 例(10%)のみであった64。また、「たっぷりの」の例は 79 例あり、そのうち単独で 用いられているのは 29 例(36%)であった65。このように両語は、「の」を介しての連体修 飾形において、単独で用いられる場合より「A いっぱいの/たっぷりの B」の複合形式でよ り生産的に用いられる。同じ形式が「いっぱい」と「たっぷり」でどのような違いがある か見てみよう。

8.3.4.3 「A いっぱいの B」の 3 つの意味と「A たっぷりの B」

*「A いっぱいの B」

①<A が容器、B が中身>(「いっぱい」の別義①)

(74) 空いっぱいの(*たっぷりの)バルーンがきれいだった。 (日経 2010/11/04)

63 「ジョンは*いっぱいのリンゴを食べた」(岸本 2005)のように、「いっぱいの」という形式は普通、容 器が示されないと不自然な表現になる。(73)も「頭がいっぱいの学生」あるいは「課題がいっぱいの学生」

のように容器と捉えられる語が示されると容認度が上がる。

64「10 人も入ればいっぱいの店」「空想や妄想でいっぱいの主人公」「腹がいっぱいの外国人」「皿がいっぱ いの食べ物で満たされたさま」などであり、「いっぱい」はいずれも「容器が限界に達した(容器が満ちた)

状態」を表す意味である。

65 以下のような例が観察できる。

「たっぷりの湯で、固めにゆでる」「たっぷりのカツオ節と昆布からとっただし」「たっぷりのキャラノー ラ油にこのネギを」「ひじきはたっぷりの水につけてもどし」「そばとたっぷりの野菜サラダ」

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(75) 両手いっぱいの(*たっぷりの)荷物を持ち、背中にも荷物を背負って、夜逃げ同 然の姿だった。 (BCCWJ)

②<A が限界点>(「いっぱい」の別義②)

(76) 先物相場は急進し、制限一杯の(*たっぷりの)ストップ高で引けた。

(日経 2010/08/06)

(77) アロマーの左翼線いっぱいの(*たっぷりの)ライナーは、二塁打となりました。

(BCCWJ)

③<A が中身、B が容器>(「いっぱい」の別義③)

(78) 花いっぱいの(*たっぷりの)会場で結婚式をあげる。 (日経 2010/10/26)

(79) 甘味と香りいっぱいの(たっぷりの)「牧丘の巨峰」 (日経 2010/10/15)

*「A たっぷりのB」

<A が中身、B が容器>(「たっぷり」の別義①)

(80) 「華やか」に見せるのに、もうひとつ大切なのはボリュームです。花たっぷりの(い

っぱいの)あしらいは、それだけで華やか。 (BCCWJ) (81) 自然の魅力たっぷりの(いっぱいの)みどころが点在する。 (BCCWJ)

上のように、「A いっぱいの」の形式には A に大きく 3 つの意味が観察できる。すなわち、

A が①容器、②限界点、③中身を表すと捉えることができる。この場合、①は「いっぱい」

の別義①に、②は別義②に、③は別義③にそれぞれ対応する。一方、「A たっぷりの」の形 式では、A は「中身」とのみ捉えることができる。この中で両語が置き換えられるのは、A がともに中身の場合のみである。しかし、置き換えた場合、前節で述べた同じ理由で意味 が異なることが分かる。すなわち、「たっぷり」は期待・予想される量が想定されその基準 を満たすことを表すが、「いっぱい」は量の甚だしさそのものに注目する。たとえば、(79)

の「いっぱい」は中身(甘味と香り)の量の著しさを表す。「甘味と香り」は「巨峰」の特 徴付けに必要な必須の要素であり、これを「たっぷり」に置き換えた場合でもその量が期 待・予想されると自然に想定できる。このような場合、両語は置き換えることができるが、

「量の著しさ」に注目するか、「期待・予想される量」が想定されるかという異なる捉え方 を反映している。

一方、(78)の「花いっぱいの会場」は、容器(会場)における中身(花)の量そのもの に注目している。これを「たっぷりの」に置き換えると、まるで「花」が「会場」に必要 な何らかの期待・予想を満たすもののように感じられてしまう。この期待・予想が想定し にくいため容認度が下がると考えられる。逆に、(80)「花たっぷりの」が自然な表現であ るのは、文脈から「花」の量が「華やかさ」「ボリューム」を出すという「あしらい」の目 的のために必要であると自然に想定できるからである。同様に(81)においても、「自然の 魅力」は「みどころ」に期待・予想される要素であると想定できる。

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8.3.4.4 構文66の意味を動機付けるイメージスキーマ

ところで、なぜ、「いっぱいの」は<容器>、<中身>、<限界点>と連辞関係を結べる のに「たっぷり」は<容器>と連辞関係が結ぶことが難しいのであろうか。由本(2009)

は「日本語の複合形容(動)詞形成で生産性があるのは、(中略)たとえば「奥深い=奥が 深い」のように、パラフレーズすると名詞が「が」で現われる、いわば主語に相当する名 詞との結合」(p.210)であるが、形容動詞であれば「日本に固有の→日本固有の」「女性に 独特な→女性独特な」のように補部との複合が許される場合があると述べている(p.225)。 このことから、「たっぷり」も「コップにたっぷりの水→*コップたっぷりの水」のような 表現が可能であるはずであるが実際には認められない。

伊藤(2008:114-117)は、池上(1995)を引用しながら構文の意味を動機付けるものと してのイメージスキーマの重要性を述べている。たとえば、下のような例では「 ニカ カル」の に相当する部分に入る、「鉄橋」「山」などの語から共通の意味特徴を見出す ことでは説明できない。

(82) a.列車が鉄橋にかかる。

b.月が山にかかる。

c.水が服にかかる。

d.父が病気にかかる。

e.太郎が医者にかかる。

f.私が(あなたの)お目にかかる。 (池上 1995(伊藤 2008:115 より))

しかし、伊藤は、(82a-f)のような、「〔A が B に‘かかる’〕という形式は、<A というも のが B という領域に入っていく>というイメージ・スキーマを共有していると考えられる」

とし、「イメージ・スキーマはこのような特定の動詞など個々の語彙に 1 対 1 で対応してい るわけではなく、意味の拡張において重要な役割を果すものである」(p.117)と述べ、以 下のように図式化している。

A B

図式 1 <A というものが B という領域に入っていく>というイメージ・スキーマ

(伊藤 2008:117)

上の説明に照らしてみると、「A いっぱいの/たっぷりの」という複合形式においても、イ

66 野田(2011:2)は、構文を「意味と形式の結び付きが慣習化したゲシュタルト的な複合体」と定義し、

「あらゆるレベルの複合表現(複合語、句、節、文など)に適用できる概念であると位置付ける」と述べ ている。この定義によれば「名詞+いっぱいの/たっぷりの」も構文と位置付けることができる。