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第 6 章 出来事、動きの量を表す「たくさん、数多く、多く、多数」の意味分析

6.1 はじめに

6.2.1 先行研究とその検討

6.2.3.3 別義③

以下の例においては基準となる比較対象が明示されておらず、想定も難しいが「多く」

が用いられている。

(20)このカロリヌムには、天文学者ケプラーから哲学者デカルトに至るまで、有名な 学者が多く訪れた。 (BCCWJ)

(21)平和維持活動については、能力的な限界が指摘され、また、財政問題など検討す べき課題が多くあることも同時に明らかとなってきている。 (BCCWJ)

(22)世の中には、多くの情報がはんらんしていますが、正しい情報を見分ける力が必 要です。 (BCCWJ)

(23)商業祭「十日町いろは市」が十日町商店街で開催され、多くの人で賑わいました。

(BCCWJ)

(20)~(23)の「多く(の)」はそれぞれ「有名な学者」「検討すべき課題」「情報」「人」

の数量を表す。上の例においては判断の基準は明示化されていないが、「多く(の)」を用 いるには、もちろん、何らかの基準との比較が前提となっていると考えられる。この判断 の基準とは、先述の「体験的に獲得された典型値や、状況から判断してこれくらいであろ うという期待値」のような際立ちの低い基準に基づく、話し手の判断であると考えられる。

したがって、これらの例における「多く」の基準は、文中に明示化されたり、想定できる 基準よりも際立ちの低い主観的な基準による判断であると言える。この点で別義③は別義

①と区別される。

(16)において、加藤の「ある種の制限」を示したが、なぜ(20)~(23)においては

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(16)の制限が無効なのであろう。(20)~(23)は、「ある対象 X がある属性 Y を有する ことを述べる」すなわち「属性叙述」(益岡 2004)であると考えられる(9.4.1 参照)。た とえば(20)においては「多く」は「有名な学者」の数を述べているが、「有名な学者」の 数を述べるというよりも、むしろ、「このカロリヌム」が「有名な学者が多く訪れたくなる ような性質を持っている」という属性を表すと捉えることができ、属性叙述であると考え ることができる。同様に、(21)は「平和維持活動」の属性を表すと捉えることができる。

また、(22)、(23)においても「多くの情報」と「多くの人」はそれぞれ、「世の中」と「十 日町いろは市」の属性を表すと捉えることができる。

つまり、「多く」が単にものの存在量を表す場合、制限が有効であるが、対象の特徴付 けをする属性叙述である場合、この制限が無効になると考えられる(詳しくは第 9 章参照)。

以上のように、「多く」と判断する基準には、①文中に明示化された、あるいは想定され る際立ちの高い個別の基準と、②明示化されない、あるいは想定も難しい際立ちの低い一 般的な基準の 2 つのタイプの基準があることが分かった。

また、(20) (21)は連用修飾用法であるが(22)(23)は連体修飾用法であることから「遊離 数量詞」として用いられる場合のみならず、連体修飾用法においても、同様に 2 タイプの 基準があることが分かる。

6.2.3.4 別義④:<ある出来事の生起する回数・頻度が><大であると捉えるさま>

(24)飛行機事故は離陸時と着陸時に多く発生します。 (BCCWJ)

(25)風水害発生時の心構えと準備は大丈夫ですか。9月は台風や集中豪雨が多く発生 する季節です。 (BCCWJ)

(24)(25)の「多く」はそれぞれ「飛行機事故」「台風や集中豪雨」という出来事の量 に注目し、その量がある基準を上回ることを表す。まず、(24)は(滞空飛行時などの)他 の時間帯(の発生件数)が基準となってそれよりも「離陸時と着陸時」における発生件数 が上回ることを表す。同様に、(25)の「多く」は「台風や集中豪雨」という出来事の量に 注目し、「9 月」は他の月よりも発生件数が上回ることを表す。したがって、(24)(25)の

「多く」は基準が想定できるタイプである。

一方、以下の例(26)(27)においては判断の基準となる比較の対象は明示されておらず 想定もされにくい。

(26)過失の有無を判断する日本医師会の賠償責任の審査には時間がかかりすぎるとい

う声を聞くことが多くある。 (BCCWJ)

(27)ハリウッド映画はただの娯楽でメッセージ性を持たないと多く言われるが、そう 思うか。日本映画も娯楽でメッセージ性を持たないと思うか。 (=(3))

(28)不特定多数の出入りが多くある施設に最適です。Suica などの IC カードをかざす

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だけで、開錠と同時に交通費精算や打刻管理も同時に行うことが可能です。

(朝日 2015/03/10)

(26)(27)の「多く」は、それぞれ「時間がかかりすぎるという声を聞く」「ハリウッ ド映画はただの娯楽でメッセージ性を持たないと言われる」という出来事の回数が大であ ることを表している。これらにおいては、比較の基準が明示されず想定もされにくい。た とえば、(26)では「時間がかかりすぎるという声を聞く」という出来事の回数を、話し手 が先述のような一般的な基準によって「多く(ある)」と判断するのであって、(たとえば

「外国の医師会」と比べてなど)基準が示されておらず、(基準の)想定もしにくい。ただ し、(27)ではたとえば「ハリウッド映画」以外の映画に比べてと想定することは可能であ る。さらに、(28)の「多く」は「不特定多数の出入り」という出来事の回数が一般的に大 であることを表し、「施設」を特徴付けている。この場合「不特定多数の出入りが多くない

(=少ない)施設」という補集合が想定できるが、個別の基準(たとえば、「1 日に 100 人、

あるいは 1000 人以上」など)は不明である。このように、判断基準が明示(あるいは想定)

される用法であるか、際立ちの低い用法であるかの判断は連続的ではあるが、(26)~(28)

においては、個別の基準は際立たないことから、話し手が一般的な基準で判断していると 考えられる。

それでは、これらの文において話し手が個別の基準を明示せずに「多く」を用いた意図 は何であろうか。これらの「多く」は「~より(多く)」という基準が示されないため、

当然のことながら、基準が明示される場合より話し手の主観性の高い(逆に、客観性が低 い)判断である。たとえば、(26)において「時間がかかりすぎる声を聞く」という出来 事の生起する回数が「大である」かどうかは客観的には不明である(=判断する主体によ って変わりうる)。しかし、ここでの話し手の意図は、単に「時間がかかりすぎるという 声を聞く」という同じ経験が反復する「回数や頻度」(が大であること)を述べるという よりもむしろ、対象(「日本医師会の賠償責任の審査」)についての一般的、客観的な(「時 間がかかりすぎる」という)性質、あるいは評価を述べることであると考えることができ る。というのは、同じ出来事の反復は、一般的、客観的な(誰がいつ対峙しても同じ結果 が得られる)性質、評価であると捉え直すことができるからである29

また、出来事(コト)の生起がモノの性質に読み替えられるプロセスについて、堀川

(2012:170-171)は、「この病気は三十代の女性がよくかかる」という文は帰納的推論に よる属性叙述文であるとし、そのしくみは、「三十代の女性がこの病気にかかる」という 事態が多数、発生した場合、「この病気」そのものの性質の中に、「三十代の女性がかか

29 篠原(2008:99)は「同じ経験の反復」と「対象の特徴・性質」の関係について、知覚者の「身体経験」

が「対象の性質」として読み替えられるプロセスは、「知覚者が対象と接する際得られる同じ身体経験の反 復から生ずる」とし、「反復は、反復であるがゆえに客観的なもの(誰がいつ対峙しても同じ結果が得られ る)と捉えられ、知覚者や知覚行為といった側面は背景に退く」「つまり、反復は対象の側に当該の体感を もたらす性質が備わっていると捉え直されているわけである」と記述している。

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りやすい」特性があるのではないか、と帰納的に推論することができる。つまり、複数回 のコトの生起をもとにモノの性質を把握するのであり、図式的にいえばコトからモノへの 推論が成り立つという構図である、と記述している。この記述をもとに考えると、(26)(27) においても同様に、モノの性質と生起した事態の関係を話者が認定する属性叙述文である と考えられる。たとえば(26)においては、「時間がかかりすぎるという声を聞く」とい う、同類の事態が複数回生起したという経験的事実から帰納的に推論してモノ(「日本医 師会の賠償責任の審査」)の属性(「時間がかかりすぎる」)を認定するというメカニズ ムが働くと考えることができるからである。

同様に、(27)においても基準が示されないことから、「ハリウッド映画はただの娯楽 でメッセージ性を持たないと言われる」という出来事の生起する回数が客観的に大である かは不明である。しかし、ここで「多く」を用いた話し手は、当該の出来事の生起する回 数・頻度が大であることを述べることによって、「だだの娯楽でメッセージ性を持たない」

は「ハリウッド映画」の性質、あるいは一般的な評価であることを述べることであると考 えられる。同様に、(28)においては「不特定多数の出入り」の回数・頻度が、「施設」を 特徴付けている。

以上の考察から、別義③においても「多く」と判断する基準には、①文中に明示化され た、あるいは想定される際立ちの高い個別の基準と、②明示化されない、あるいは想定も 難しい際立ちの低い一般的な基準の 2 つのタイプの基準があることが分かった。そして、

対象の特性を叙述する場合(16)の制限が無効になると考えられることを述べた。

6.2.3.5 別義間の関連性

前節での検討を踏まえ、本節では「多く」の 4 つの別義間の関連性について考察する。

別義①と別義②の関係を考えると、ともに基準が明示されるか、あるいは想定できるこ とが必要である。別義①では他の要素が基準となり、別義②では全体において対比される 要素が基準となっている。別義①と別義②違いは全体が想定できるか否かにある。別義① と別義②から、<基準より><数量が大であると捉える>というスキーマを抽出できるこ とから、メタファーに基づく意味拡張と考えられる。

別義①は、比較の基準に注目しその<基準を上回る(すなわち、基準より大である)>

という意味であったが、別義③では基準の際立ちが薄れ、対象の数量を話し手が主体的に 判断している。別義①と別義③から<数量が大であると捉える>というスキーマが抽出で きるが、別義①より一般化している。したがってこの意味拡張は、狭い意味から広い意味 に転用されるシネクドキーに当てはまる(籾山 2014:55)。別義④は別義③同様、基準の際 立ちは低い。別義③は注目する要素が<もの>の数量であったが、別義④では<出来事>

の量(つまり頻度)へと拡張している。ともに<数量が大であると捉える>というスキー マが抽出でき、別義④は別義③からメタファーに基づく意味拡張であると考えられる。以 上をまとめると図1のように表すことができる。