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第 8 章 「たっぷり、どっさり、いっぱい」の意味分析

8.1 はじめに

8.2.2 先行研究とその検討

8.2.4.2 相違点

8.2.4.2.1 重さが際立つ「どっさり」、中身が際立つ「たっぷり」

「どっさり」と「たっぷり」の相違点として、まず対象の違いが考えられる。個別の意 味分析で見たように、「どっさり」の対象は典型的に重い一かたまりと捉えられるものであ るのに対して、「たっぷり」の対象は容器の中身と捉えられる連続体であった。

両語と共起する名詞をさらに詳しく見てみよう。

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前節では「たっぷりの」という形式(連体修飾用法)で共起する名詞を見たが(表 1)、

「どっさり」は「どっさりの」という形はとりにくいため、両語の比較のため「N がたっぷ り V」の形式(連用修飾用法)において共起する名詞を分類した。BCCWJ を利用して検索す ると「N がたっぷり」の事例が 317 例あり、この中で、別義①と解釈できる例において大き く次の表 3 のようなカテゴリーに分けられる。

表 3 「がたっぷり」と共起する名詞(カッコ内は 2 回以上出現した回数)

①飲食物:164 例 51%

野菜(9)・栄養(8)・うまみ(7)・脂肪(6)・具(5)・カルシウム(5)・ビタミン(4)・

食物繊維(4)・牛乳(3)・汁(3)・魚の幸(3)・果物(3)・ねぎ(3)・油(3)・クリーム

(3)・エキス(3)・みつ(3)・風味(2)・ケチャップ(2)ニンニク(2)・バター(2)・豚 肉(2)・香り(2)・チョコ(2)など

②人工物:25 例7%

炭・洗濯物・持ち物・テーブル・部屋・おつり・化粧品・衣類・フリル・ワイロなど

③生物(動物) なし

④自然物(非生物・形がないもの):19 例6%

光(6)・日ざし(2)・空気・ボイス・酸素・林・炭など

⑤抽象的概念(感情的・知的性精神的):43 例 14%

時間(20)・情報(2)・魅力(2)・自信(2)・色気・嫌味・皮肉・ユーモアなど

表 2 と表 3 から両語のカテゴリーの違いが確認できる。両語の対象は、ともに飲食物(今 井のカテゴリーでは「自然物」あるいは「人工物」に分類されると思われる)が圧倒的に 多い(「どっさり」46%、「たっぷり」51%)が、その内訳は「どっさり」においては、前 節で見たように、個体(の集合(「固いもの」あるいは「個別性のあるもの」)であった。

一方、「たっぷり」においては「牛乳・汁・エキス」など液体が多いが、それらは容器な しに個別には取り出すことのできない、「形のないもの」あるいは「個別性のないもの」で ある。また、「栄養・うまみ・脂肪・カルシウム・ビタミン・食物繊維」なども「形のない もの」あるいは「個別性のないもの」であり、普通、それらが属する領域から個別に取り 出すことのできない構成要素である。つまり、典型的に「たっぷり」の対象は連続体(「形 のないもの」「個別性のないもの」)であり、それが属する領域と一体となった密接な関係 にあると言える。

これらの領域と構成要素は、容器のイメージスキーマを介して理解されると考えること ができる。第 3 章で見たように、容器のイメージスキーマは、抽象概念の理解に役立つ。

たとえば、「胸の内」、「新学期に入る」、「ダイエット中」、「身内」のように、知的精神活動、

時間、状況、人間関係も容器のイメージスキーマを介して理解される。つまり、私たちは 直接把握しにくい抽象的な存在を、容器を基盤として理解している。

有薗(2009:187)は、「頭がいっぱいになる」は、「知的精神活動の容器としての<頭>

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の容量が満たされることを表す形式で、<ある考えに支配されて他のことが考えられなく なる>という慣用的意味を表している」そして、この例には「<頭>を知的精神活動の容 器として捉える、≪身体(部位)を、知的精神活動の容器として捉える≫という概念メタ ファーが関与している」と述べている55

「たっぷり」の対象である「魅力・自信・色気・ユーモア」なども、それらが属する領 域(人間など)から別個に切り離すことができないものである。知的精神活動は中身であ り、それが存在する領域は容器と捉えることができる。「魅力/自信/色気/ユーモアにあふ れる」という表現からも確認できるように、私たちは、捉えにくいこれらの知的精神活動 の量を「容器」にあふれる水と同様、容器の中身として具体的に理解する。さらに、表 3 の抽象的概念において「たっぷり」が「時間」と共起する例が、圧倒的に多く観察できる。

時間の量の捉え方として、「容器」が関わる場合があることは、先行研究に記述されている。

たとえば、碓井(2009:42)は「時間というものは、私達がそれをどのように認識し、

言語化するかでその様を変容させている。時にそれは線的なものとして認識され、また環 的なものとしてとらえられることもある。また時に継続性を持つものとなり、量を持つも のとなることもある」と述べた上で、「時間が三次元的にとらえられたとき、空間に似たイ メージが想起される。その時、私たちは時間を量的なものとしてとらえており、時間を容 器に入れて量っているかのような表現が多く生まれる。CONTAINER METAPHOR(容器のメタ ファー)がそこには大きくかかわっているようである」と記述している。つまり、容器の イメージスキーマが基盤となり、空間における容器が、時間においても維持されているこ とが分かる。

また、瀬戸(2005:211-212)は時間の捉え方に、時間を「運動」と捉える見方(例「時 間が過ぎる」)と時間を「貴重品ないしお金」と捉える見方(例「時間は大切だ」)という 2 つの大きな系統があることを述べた上で、「すでにどれほどの時間が過ぎ去っているかに諸 君は注意しない。充ち溢れる湯水でも使うように諸君は時間を浪費している」というセネ カの言葉を引用している。「充ち溢れる湯水」は、まさに「たっぷり」が表す意味・音象徴

(「(液体のように何かが)溢れ出るというイメージ」(11)参照)と重なる。このように、

「たっぷり」という表現は容器のスキーマが基盤となっていることが確認できる。

さらに、以下の例では「たっぷり」が数詞「1」に前接している。

(48) 必ずコップにたっぷり一杯以上の水で飲みましょう。 (NLT)

55 有薗(2009:184)は、「身体が容器として見立てられるとき、そこに関わるのは、喜怒哀楽のような物 事に対して起こる感情だけでなく、物事の理解といった知的側面や、欲求などの意志も関わる」従って、

「身体を、感情だけでなく、知情意という全ての精神活動に関わる容器として捉える」と述べ、THE BODY IS A CONTAINER FOR THE EMOTION<体は感情を入れる容器である>より、さらに包括的な≪身体(部位)を、

精神活動の容器として捉える≫という概念メタファーを提示している。また、有薗(2009:302)は、「容 器として捉えられる身体を表す形式で、その内容物である心的要素の意味を表すのは、容器と内容物の隣 接関係に基づくメトニミーによるものである。従って(略)慣用的連結句を構成する身体部位詞の意味は、

≪身体(部位)を、精神活動の容器として捉える≫という概念メタファーを前提として、容器と内容物の 隣接関係に基づくメトニミーによって生じている」と述べている。

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(49) しかし「あの事件」に関してここで詳しく言及するのはよそう。それだけでたっぷ り1本レポートが書けてしまうほどだからここではとりあげない。 (NLT)

(48)の「たっぷり」は、「水」の量を表すが、「コップ」という基準において期待・予 想を上回る量である。つまり話し手が注目するのは「一杯」の中身の量である。同様に、(49)

の「たっぷり」は「レポート」の数ではなく「内容」に注目する。「内容」とは「一定の形 式をとって形をなすものの中を満たして、そのものを成り立たせている事柄。物事の実質 や価値」(『大辞林』(第三版))と記述される。レポートの内容という知的抽象物について も、「たっぷり」はその量が「レポート(「1 本」)」を成り立たせるのに期待・予想される量 を上回る量であると捉えることができる。「一杯」「1 本」は数えることができる最小の数で ある。このことからも、「たっぷり」が容器のスキーマを基盤とし、容器の中身に注目する 表現であることが支持される。

以上、「たっぷり」が表す対象は、典型的には個別性が際立たず、容器の中身として捉え られるものであることを述べた。このことは、代表的な個物である「人間」の数を「たっ ぷり」は表しにくいこととも矛盾しない56。一方、「どっさり」の対象は一かたまりとして 捉えることができ、個別性のあるものであって、容器を介する動機付けが低い。

この違いは、両語のオノマトペとしての本来の意味に動機付けられていると考えること ができる。すなわち、冒頭で見たように、「たっぷり」の対象は、容器に「満ち溢れてタッ プンタップン」という液体であるのに対して、「どっさり」の対象は、一かたまりの重い物 体であるという、両語の存在論的カテゴリーの違いが、拡張された意味にも(制約となっ て)受け継がれていると思われる57

8.2.4.2.2 評価性と基準の違い

それでは、「どっさり」と「たっぷり」が同じく対象となるものの数量大を表す場合、両 語の違いは何であろうか。

第一に、基準の違いがあげられる。先述のように、「たっぷり」は、ものの量が単に大で あるだけではなく、期待・予想を上回ると捉えている。つまり「たっぷり」は、あらかじ

56 仁田(2002:185)は「信じているやつがタクサンいる」のように、主体が人である場合「たくさん」の ような量の副詞は共起するが「物の量を表す『タップリ、ドッサリ』などは共起しない」と述べている。

この指摘のとおり、冒頭で見た(1)「*田中先生は学生をたっぷり呼び出した」(2)「*田中先生はたっ ぷりの学生を呼び出した」(3)「*田中先生は学生たっぷりを呼び出した」と言えないのは「たっぷり」

が、人を表すことが難しいからと考えられる。しかし、「どっさり」は 8.2.3.2 で見たように人間の数を表 す例が観察できる。ただし、「敵」のように話し手に重荷を支えるのと同様の体感を与える対象であると捉 えることができる。

57 今井(1997:24)は、椅子やコップのような「物体」と、水や砂のような「物質」について以下のよう に述べている。

物質は物体のように個体としてはっきり境界を持つ堅固な存在ではないため、時間的に持続するそれ自 身の形を持たない。また、一部をつかんで動かしても残りが同時に動くということもない。物体同士は 接触によって混ざり合うことはないが、2 種類の物質(たとえば水と塩)は混ざり合ったり、科学的に 反応したりする。つまり、物体と個別化されない物質は互いに相容れない属性のセットを持ち、その意 味で物体と物質は異なる存在論的カテゴリーに属すると考えてよいだろう。