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第 4 章 考察対象とする語の分類基準について

4.2 下位分類

4.2.4 プラス評価とマイナス評価

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たっぷり:必要量を超えて多量にある様子を表す。ややプラスイメージの語。

「たっぷり」は「どっさり」に似ているが、「どっさり」は重量・豊富の暗示がある。

どっさり:多量に存在する様子を表す。ややプラスよりのイメージの語。

「どっさり」は「たっぷり」に似ているが、「たっぷり」は必要量を超えて多量にある 様子を表し、豊富・余裕・充足の暗示がある。

(12)彼は莫大な遺産を相続したのはいいが、借金もどっさり抱え込むはめになった。

(13)×彼は借金もたっぷり抱え込むはめになった。

(『現代擬音語擬態語用法辞典』p.330 下線は引用者)

上の記述を見ると、「たっぷり」と「どっさり」について「似ている」としながら、それ ぞれ、「ややプラス」、「ややプラスより」とほぼ同じ記述となっている。しかし、その根拠 については記述されていない。その上で(13)の「たっぷり」は「×」とされているが、

筆者には批判や皮肉の解釈の場合には容認可能であると思われる(これについては 8.2.3.1 で詳しく述べる)。このことから、評価性とその動機付けについてもさらなる説明が必要と 思われる。

(12)の「借金」は、マイナスの評価性を持つ語である。この「たっぷり」は読み手に 違和感を与えるが、話し手の批判や皮肉を表すと解釈できる。これは本来プラスの評価性 を持つ「たっぷり」が「借金」という、マイナス評価を持つ語と共起する衝突によって生 じるものと考えられる。このことから「たっぷり」は基本的にプラス評価を与える語であ ると考えられる。

一方、「どっさり」は(12)のようなマイナスの文脈においても、「今年は米がどっさり取 れた」(『現代擬音語擬態語辞典』p.329)のようなプラスの文脈においても用いることがで きる。このことから「どっさり」の評価性は基本的に中立であると考えられる。

さらに、本研究は、先述のように、「どっさり」「たっぷり」がプラス・マイナス両方に 用いられる理由は体感に動機付けられていると考える。

仲本(2013)は、「人間の圧覚を反映する概念は、視覚に基づく客観的な事態の捉え方(観 察表現)と異なり、事態を内部的に体感するもう1つの認識のあり方(体感表現)を示す」

とし(p.35)、人間の圧覚に基づく経験を基盤とする「きつい」の多義構造を記述している。

仲本は、「きつい」は身体的な圧覚を反映するものであり、ある特定の状況に埋め込まれた 主体の感覚を表す、と述べ、「この服は小さい」「今日は風が強い」という場合と「この服 はきつい」「今日は風がきつい」という場合を比べると、後者の方が主体の態度(この場合、

不快感)を強く反映していると感じられる、と記述している(pp.25-26)。その上で、「き つい」という形容詞は、客観的に事態を記述するというよりも、主体がしめつけられて<

苦痛である>と感じること、またその結果、主体の能動的な活動が制約されて<困難であ る>と感じるといった意義を含意する、と述べている。

「どっさり」と「たっぷり」も身体的な感覚(体感)に基づく経験を基盤とする表現で

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ありそれが主体の心的態度と結びついていると考えられる。たとえば、「おかずがたくさん ある」「宿題がたくさんある」と言う場合と「おかずがたっぷりある」「宿題がどっさりあ る」と言う場合を比べると、後者の方が主体の態度(好ましいという評価や満足感)や重 くて負担になるという体感を伴って感じられる。

このように、「たっぷり」と「どっさり」は私たちの内部にもたらされる「体感」の共通 性が意味拡張の基盤になっていると考えることができる。

さらに、「たっぷり」と「どっさり」が、オノマトペであることも体感を伴って感じられ る理由であると思われる。喜多(2013:79)は、「擬音語・擬態語」の意味表象が普通の言 葉と質的に違うということを示唆する現象として、第一に「擬音語・擬態語」は経験の生 き生きとした質感を呼び起こす、という点をあげ、以下のように説明している。

(14)たとえば、「べちゃべちゃ」という擬態語を聞くと、濡れたものをさわったときの触 感とそれにともなう不快感があたかも実体験を再現したかのように具体性を帯びた かたちで立ちおこってくる。実体験の再現を促すということは、擬音語・擬態語は イメージの喚起と同等の機能を果たすことができるということもできる。すなわち、

擬音語・擬態語の意味は「イメージ的」であるということができる。

(喜多 2013:79-80)

そこで、第 8 章では体感に関わる経験を反映すると考えられる「たっぷり、どっさり」

について個別の意味分析と類義語分析を行い、どのような体感が基盤となっているのか考 察する。

また、高見・久野(2006:265-266)は「たくさん」と「いっぱい」の違いについて、以 下のように記述している。

「いっぱい」は、本来、ある限られたスペースが何かで「いっぱい」になるという意味 であるのに対し、「たくさん」は、(そのような意味合いがなく)あるものの数や量が 単に多いという意味である。そのため、次の例では興味深い意味の違いがある。

(ii)a.風呂おけに水をいっぱい入れた。

b.風呂おけに水をたくさん入れた。

(iia)では、風呂おけが水でいっぱいになっているという意味合いがあるが、(iib)で は、風呂おけは水で必ずしもいっぱいになっている必要はなく、例えば水を 6 割方入れ たとしても、(iib)を用いることができる。しかし、そのような状況で(iia)を用いる

と不自然になる。 (高見・久野 2006:265-266)

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上の説明のように、「いっぱい」は本来、容器における(連続体を典型とする)中身の量 を表すと考えられる。『大辞林』(第三版)によれば「入れ物・場所などに物が満ちている さま」と記述される。つまり、空間認知に関わる経験に根ざしていると考えることができ る。一方、「たっぷり」は「満ちあふれるほど十分なさま」と記述される。つまり「たっぷ り」も「満ちあふれる」という表現から分かるように「容器」を基準としている点で、空 間認知に関わる経験に根ざした表現であると考えることができる。そこで、第 8 章では「体 感に関わる経験」を表す「たっぷり、どっさり」に加えて、「空間認知に関わる経験」を表 す「たっぷり、いっぱい」の類義語分析を試みる。

ところで、人間を数える場合にも「大量」と捉えるか「多数」と捉えるかでは人間に対 する評価性が異なると考えられる。

(15)自分の体力年齢を測定してみませんか。多数の人の参加をお待ちしております。

(15)の「多数」を「大量」に置き換えると違和感があり、失礼な感じを与える。この ことから、人間を数える表現として「大量」を用いた場合、マイナス評価が付与される場 合があると考える。この理由については第 7 章で考察する。