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ディルタイとゲーテの関係

第 4 章 ディルタイの自己形成論の展開Ⅱ̶̶̶他者と自己形成 74

第 2 節 ディルタイとゲーテの関係

ディルタイの若い頃(1852-1870)の日記や書簡を,彼の娘であるC.ミッシュ が集めた『若きディルタイ(Der junge Dilthey)』1933 年)を読むと,当時の ディルタイがゲーテにいかに心酔し,哲学の可能性を見出していたかを知るこ とができる。例えば,次の記述がそれを示しているだろう。

‥‥‥暗い影(d¨uster Schatten)から,理想を生と和解させるに至ったあ の時代が有した最も偉大なる詩人̶̶̶ヴォルフガング・・

ゲ・ ー・

テの何の懸 念もない朗らかな像へ。‥‥‥哲学が長い年月ののちにはじめて概念に おいて示しうるようになったもの̶̶̶生と理想の統一,永遠の同一性,歴 史の生における世界理性の実現̶̶̶をゲーテの場合は詩文(Poesie)がす でに感じとっていた。[jD 4f.

これは,ギムナジウム卒業(1852 年)に際して購入された日記帳の冒頭に書か れたものである。ディルタイは,生そのものに依拠せず,理想だけが語られるよ うな空虚な「暗い影」を乗り越える方途をゲーテの詩文のなかに見出すのであ

る。ここでディルタイは具体的な詩文を引用しているわけではないが,少なく ともギムナジウム卒業時にディルタイがゲーテに大きな関心を寄せていたこと はこの引用箇所から傍証されるであろう。そして,こうした生と理想の統一と いった,ディルタイが生涯にわたって取り組んでいくモティーフがここに示さ れているのである。

その後6,ディルタイは,博士論文,教授資格論文7に取り組む過程で,カントや シュライエルマッハーに傾倒していく。カントやシュライエルマッハー,そし てヘーゲルが彼の思索に大きな影響を与えたのはここで繰り返すまでもないだ ろう。しかし,先にみたように,彼の研究の端緒はゲーテの詩文にあり,そこ で示された生と理想の統一というモティーフがずっと生き続けてきたのである8。 すなわち,シュライエルマッハーやカント,ヘーゲルとの関係がディルタイの 思想を大きく特徴づけていることは否定できないが,ゲーテもまたディルタイ に大きな影響を与えているのである。例えば,ディルタイ自身が「ゲーテはこ んにちわれわれにとって生を生そのものから了解すること,そしてその喜ばし い肯定を意味している」[XXVI 162]と述べているように,ディルタイの根本 テーゼである「生を生そのものから了解する」[V 4]はゲーテから導かれるの である。

思想形成の過程でディルタイがゲーテから大きな影響を受けてきたことはこ うした点から明らかにされるが,従来の研究では,ゲーテからディルタイへの影 響は主に次の 2点で論じられてきた。第1に,ディルタイの歴史記述の方法が ゲーテの方法原理である「直観(Anschauung)」と「比較(Vergleichen)」から 大きな影響を受けているという点である

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。ディルタイは,「‥‥‥直観の世界は すべて,科学的研究に属している。法則の認識というもっとも抽象的な洞察だ けが価値あるものと考えるのは重大な誤りである」[XIII 200]と述べ,ゲーテ の直観という方法の重要性を示しているし,「類似や比較の方法によって,ゲー テはいまや記述的自然科学の内部へと歩んでいった」[XIII 200]と分析してい る。これは,単にゲーテの方法を分析にしたにすぎないのだが,実際,ディルタ イ自身もこれらの方法を自らの方法の中心におこうとする。例えば,直観につ いては次のように述べている。

歴史記述はわれわれにとってひとつの技術であった。というのも,芸術 家自身の想像力(Phantasie)のように,そこでは普遍が特殊において直 観されている(anschauen)が,まだ抽象によって特殊から分離されてお らず,独立して表現されていないからである。[I 40

この記述から,歴史記述の可能性を直観という方法に見出しているディルタイ の姿勢をうかがうことができる。また,比較についても,「記述的分析的心理 学の構想」[V 139ff.]や「[比較心理学について]個体性研究への寄与」[V

241ff.]といった一連の心理学がその方法原理のひとつとして比較という仕方を

認めていたことからも,ゲーテとディルタイの学的方法において近似性を見出 すことができるだろう10

第2 に,ディルタイの思想の最も基底的な部分へのゲーテの影響である。先 にも述べたように,ディルタイの根本テーゼである「生を生そのものから了解す る」ことがゲーテから導かれるわけだが,ディルタイが,その生を超越的なもの と捉えないこと,つまり生をどこまでも現実的なものとして捉えようとする姿 勢はゲーテに依拠していることをミッシュは以下のように指摘している。

ディルタイは現代人の生活状態として内的生の「此岸性(Diesseitigkeit を強調することを好んだ。ジョルダノ・ブルーノ,シャフツベリ,ゲーテ は,近代人の生活姿勢の基礎であり,またそうあり続けるようなこの立場 を世界に対して述べた。ディルタイはこのような思想家や詩人をひとつ の大きな連関として解釈し,表現したのである。彼らは,その内在につい ての自らの学説によって,近代科学の意識一般をはじめて可能にし,そし てこの科学の意識のなかにディルタイはいまやわれわれの時代にあの此 岸性にふさわしい形式を見出し,そして同時に神学やすべての「一神論 的形而上学」から自由になることを見出した。これは内的生の「此岸性」

の本来の意味なのである。[Misch 1957: XXIV

これと同様の指摘をボルノーも行っている。ボルノーによれば,ディルタイの 生の概念には汎神論的な基盤があるがゆえに,単に個人的な生,あるいは個別的 な生ではなく,包括的連関としての生という地位を保ってきたのであるが,しか

しながら,実際にはそのニュアンスは徹底的に抑えられ,むしろ生が人間の世 界に限定されたものであり,なんらの形而上学的な意味をも有さないものとし て捉え直される[Bollnow 1936=1977: 91ff.]。つまり,ディルタイの生の概念 は,汎神論的な性格をもちつつ,それを極力避けようとする二重性を有するので あり,そしてその契機が,ミッシュの指摘するように,ゲーテに代表される思想 家や詩人の態度だったのである。

さて,ディルタイとゲーテとの関係を振り返れば,このように2つの視点から みることができる。どちらもディルタイの思想形成に大きな影響を与えていた ことが指摘されうる。しかしながら,本章では,これらの研究成果を踏まえつつ も,ゲーテの詩的想像力をディルタイがいかに理解し,受容したかという問題を 中心に考えていきたいと思う。もちろん,詩的想像力がそのままディルタイの 思想に取り込まれているわけではない。むしろ,ゲーテの詩的想像力をディル タイが述べているのは,単なるゲーテ論にすぎないという指摘もできるだろう。

しかし,ゲーテの詩的想像力のなかに,最初に述べたいわゆる生と理想の統一,

換言すれば,主観−客観図式超克の方途を看取することができるのである。