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第 7 章 ディルタイの自己形成論の地平Ⅱ̶̶̶歴史と価値 129

第 2 節 生と世界観の構造

哲学がその発展史において歴史的意識を受け入れてきたために,あらゆる絶 対的な妥当性を失い,その結果新たな学の構想を求めるようになった経緯をみ てきたが,ディルタイはそうした新たな学に求められる課題を次のように述べ ている。

哲学は,世界のなかにではなく,人間のなかに自らの認識の内的な連 関を探し求めなければならない。人間によって生きられた生̶̶̶それを 了解することこそが今日の人間の意志である。‥‥‥歴史的意識の形成 は‥‥‥あらゆる哲学的諸体系における普遍妥当性への要求と,こうし た諸体系の歴史的な無政府状態との困難な矛盾を解消するために,われ われにとって役立つものでなければならない。[VIII 78

とはいえ,こうした非常に困難な課題をディルタイはいかにして乗り越えようと していたのか。その一つの方途が世界観の構想である。ディルタイは,生を類 型的に把握する仕方を目指そうとする。もちろん,ここに大きな矛盾点がある ことはいうまでもない。すなわち,生の個別性が強調されているにもかかわら ず,なぜそれらをいくつかの類型によって把握しうるのか,ということである。

その疑問を念頭に置きながら,ディルタイの世界観学の構想をたどってみたい。

ディルタイは「生はわれわれの知のうちに無数の形式において現存している けれども,至るところで同じ共通の特徴を示す」[VIII 78]と述べたり,「人間 の本性がつねに同一であるのと同様に,生活経験の根本特徴もすべてに共通の ものである」[VIII 79]と述べたりする。ディルタイにとって生はそれ以上遡 ることができない根本概念であるが,そうした生を生きる人間の本性に同形性 という共通性を見出しているのである。人間がその本性において同形性を有し ていたとしても,その人間によって生みだされ,現われてくる生は多様な側面を 示す。それゆえ,その生の全体はわれわれにとってつねに「謎(R¨atsel」[VIII 80]に満ちているといっていいだろう。

ただ,われわれは生全体が謎に満ちつつも,日々の生活を送っている。そして そうした日々の生活経験が繰り返され,結合されることによって,われわれの 生活に対する「気分(Stimmung)」[VIII 81]が成立するとディルタイは考え ていた。個々人の生活でさえも一面的ではなく多面的ではあるが,それぞれの 個人においては・

あ・ る・

特・ 定・

の生活気分が優位を占めることとなる。そうした個々 人の生活気分もまたさまざまな様相を示すのであるが,究極的には「楽天主義

(Optimismus)」と「悲観主義(Pessimismus)」[VIII 81]の二つに収斂され,

それぞれの生活気分はこの両者の間で細分化されたものと考えることができる。

そして,そうしたさまざまな生活気分が世界に対する見方をも規定することとな

る。先に示した生の謎は,そうした世界観を通じて解明の試みがなされる。と いうのも,生活に対する気分が世界観を形成していくわけであるから,世界観を 捉えていくことが生を捉えることにつながるからにほかならない。実際,ディ ルタイは「明瞭なものが不可解なものに対する了解の手段,あるいは説明の根拠 となる」[VIII 82]と述べて,明瞭なものとして現われてくるとディルタイが みていた世界観が,不可解で捉えがたい生を捉える手段となりうることを示し ている。ディルタイにとっては,世界観はそれ自身が学の対象となっているの ではなく,それを通じて生を了解するものとして位置づけられているのである。

そうした意味では認識の枠組みであるといえる。

それでは,世界観とはいかなるものなのであろうか。ディルタイは世界観の 構造について,「心的な法則性によって規定されており,その法則にしたがっ て,生の経過における現実把握がさまざまな状態や対象を快と不快,満足と不満 足,同意と不同意において評価するための基礎であり,こうした生の評価がさ らにふたたび意志決定のための底層を形成する」[VIII 82]と述べている。つ まり,世界を認識・把握することによって得られる「世界像(Weltbild」[VIII 83],そしてそうした認識・把握にもとづく価値評価として現われる「生活経験

(Lebenserfahrung)」[VIII 79],さらにそうした価値評価から導かれる意識の 最高の境位である「生の理想(Lebensideal)」[V 380]の三つの構造契機を指 摘しているの。

まず,ディルタイは現実認識について次のように述べている。

およそ現実認識あるいは認識は,その言葉をそのもともとの意味におい て受け取るならば,つねに所与を対象とし,実在性とその固有性を確定し ようとする。‥‥‥現実認識の体系にとって固有なカテゴリー的な関係 は,実在性,事物,固有性,状態,作用,苦痛である。[VII 298

ここに示されるように,現実認識は所与を対象として生起するので,それはつね に「事実的なもの(T¨atsachlich)との関連に限られている」[VII 121]。ただ,

ディルタイにとって事実的なものは外的なものばかりではなく,内的なもの,す なわち,その所与から推論等によって導かれるものも含まれている。そのため,

ディルタイは現実認識を思考による操作が加えられる以前の段階と思考による

操作が加えれた後の段階に分けて考えている。彼は 2枚の紙片を比較するとい う例を挙げて,われわれはその2枚の紙片を見たときにその色調の違いに「気 づく(bemerken」[VII 122]が,これは反省によって気づくのではなく,「色 自体がそのようなものであるという事実」[VII 122]によって気づくと述べて いる。すなわち,ディルタイがこの場合想定している思考による操作とは,そ の意識状態を生じさせる端緒がどこに由来するのかという点によって規定され ると考えてよいだろう。ディルタイは「現存しているものははっきりしている」

[VII 122]と述べてはいるが,そうした「気づく」作用がわれわれにとって思考

以前なのかどうかは判断の難しいところである。ただ,所与に直接結びつかな い論理的な操作が行われているかどうかを基準として現実認識に 2つの段階を ディルタイが見出していたことだけを確認しておきたい。

そして,次の段階として,表現,特に言葉に結びついた現実認識がある。そ れをディルタイは「概念的思考(diskursives Denken)」[VII 124]とよび,一 面では所与と結びつきうるが,しかし他面では「ただ潜在的に,ただ推理され うるものとして,その所与に含まれているものを顕在化させる」[VII 125]も のと位置づけている。そしてこの対象認識が世界像の基礎となっていることは,

「世界という概念のなかには,すべての体験しうるものと直観しうるものを,そ の概念に含まれる,事実との関係の連関によって表わそうとする要求が示され ている」[VII 129]という言葉から窺うことができる。

こうした2 段階の現実認識を基礎として,価値規定による生活経験という状 態があげられている。

こうした現実認識は,あらゆる価値規定に対する基礎を形成する。‥‥‥

価値評価は現実認識の範疇において遂行されるものではない。ここで 感情にもとづいた新しい主体の活動が生じてくる。これに対してはじ めて価値,すなわち価値評価や価値の段階づけとの関係が生じるのであ る。‥‥‥しかしながら,関係といわれるものは,確かにその基礎に現 実を有しているが,感情活動のなかに与えられたものなのである。[VII 298

価値規定もまた,現実認識の第2段階として位置づけられていた概念的思考と

同様,一方で所与と関係していた。しかしながら,現実認識の第 2段階が「思 考」にもとづいていたのに対して,価値規定が「感情」を基礎としている点に大 きな隔たりを見出しうる。価値規定や価値評価を前提とした生活経験は,感情 の活動として位置づけられ,感情の活動であるために多様であり,一元化し得な いものなのであって,ここに生が多様化する理由の一端が示されているとみて よいだろう。

こうした世界像と生活経験との内的交渉は価値ある行為を生みだそうとする が[vgl. Bollnow 1936=1977: 149ff.],それぞれの場面での価値ある行為が目指 されるにすぎない。しかし,われわれの行為は,例外はあるものの,なにがしか の方向に向いていると考えることができる。その都度価値ある行為が目指され るだけではなく,一定の方向に向いているということについて,ディルタイは次 のようにいう。

生活の諸価値についての意識に第3のそして最後の連関が基礎づけられ ており,この連関において,われわれは事実,人間,社会,われわれ自身 を意志行為によって導き,また秩序づけようとする。目的,善,義務,生 活の規範,それから法律や経済や社会的規律や自然の支配におけるわれ われの実践的な行為の膨大な仕事のすべてが,この連関に属しているの である。[V 374

ディルタイはこの第3の連関において「はじめて世界観は自らの実践的なエ ネルギーを受け取る」[VIII 84]と述べているが,生の理想が生起し,それが行 為を導く基準となっていくのである。ディルタイは行為を人間の最終的な規定 とみなしているので4,この第3の層において世界観が完成することになる。し かしながら,これはあくまでも世界観の・

構・

造でしかない。各々の世界観はそれ ぞれ,この構造にもとづきつつ形成されているのであり,その意味では世界観 の構造において同一性という普遍的形態を・

理・ 念・

上見出すことは可能である。だ が,こうした世界観はすべて「発展(Entwicklung」[VIII 84]するのであって,

その発展において世界観に内包されたものが発現することとなる。その意味で ディルタイは世界観を「歴史の産物(Erzeugnis der Geschichte」[VIII 84]と いうのである。