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第 3 章 ディルタイの自己形成論の展開Ⅰ̶̶̶認識と自己形成 60

第 2 節 意識の事実という基点

ディルタイにおいては,あらゆる事物の実在性が自己のなかの「意識の事実」

として与えられている。ディルタイは次のように述べている。「事物や対象とし て私の自己(Selbst)から区別される現実的なものは,私の意識(Bewußtsein つまりこの私の自己のなかにしか与えられていない。現実的なものとは,私の 心的全体のなかで働いているものである。」[XIX 17]「意識の事実」において,

あらゆるものの実在性が与えられるわけであるから,ディルタイにとって認識

とはこの「意識の事実」の分析にほかならない。そして,この「意識の事実」の 分析を自己省察によって行うこと,これを認識と彼は考えた。しかし,ここで注 意しなければならないのは,このような「意識の事実」をもっとも原初的な所与 のものとする見方が,いわゆる経験論やカントの認識論と一線を画しているこ とである。ディルタイ自身「ロック,ヒューム,およびカントが構成した認識主 観の血管に流れているのは生の血液ではなく,単なる思惟活動としての理性の 薄められた液にすぎない」[I XVIII]と述べ,自らの認識論が知覚,表象,思惟 といったものではなく,「意欲し,感じつつ表象する存在」(die wollend f¨uhlend vorstellende Wesen)としての「全体的人間」(ganzer Mensch)をその根拠に置 くことを宣言している[I XVIII]。

さて,この「意識の事実」を分析していくことで,さまざまな意識の働きが明 らかになってくる。さしあたって,意識は「外的知覚(¨außsere Wahrnehmung と「内的知覚(innere Wahrnehmung)」というふたつに分けることができる。ま ずは,「外的知覚」について考えてみよう。

「外的知覚」とは外界の事物にかかわっているが,外界の事物が「意識の事実」

として与えられている点に注意しなければならない。ディルタイは「私の意識 とは‥‥‥一見測りがたい外界全体を包含している場所のことである」[XIX 59]と述べ,外界の事物が「意識の事実」として与えられていることを明らかに している。しかしながら,このことは,外界の事物が意識の成分であるという ことを意味するのではない。というのも,意識の内部で外界の事物の表象が存 在しているということになれば,先に述べたディルタイの認識論の出発点を逸 脱することになるからである。ディルタイにおいて意識の内部に存在するもの は,外界の事物の表象ではなく,あくまでも事物それ自体なのであり,事物そ れ自体が自己の外部に存在するものとして自己に直接に与えられているのであ る。この意識の内部に直接に与えられる事物それ自体がその存在を確信される のは「抵抗経験(Widerstandserfahrung」[V 101]によってである。再度,彼 の認識論の出発点に戻ってみると,「意欲し,感じつつ表象する存在」としての

「全体的人間」からすべての心的事象を説明することを試みたわけであるから,

この「意識の事実」として与えられた外界の実在性もまた,ここから以下のよ うに説明がなされる。「私の経験の図式は‥‥‥随意的運動の意識(Bewußtsein

der willk¨urlichen Bewegung)とその運動が出会う抵抗の意識(Bewußtsein des

Widerstands)との関係のなかに存している。」[V 95]ここでいう随意的運動の

意識というのは「衝動(Impuls」を意味しているが,このような経験図式が「抵 抗経験」と呼ばれるものである。この図式が成り立つのは,この意志衝動が完全 には現実化されないことが根拠となっているからにほかならない。意志衝動の 現実化に限界があればこそ,この衝動が自己にはねかえされるのである。衝動 が外界の抵抗によってはねかえされるという構造があるから,このような経験 の図式が成立するのである。

しかし,ミッシュも指摘しているように1,意識から外界の実在性を説明してい くという方法からもたらされる印象によって,この抵抗経験の図式を,自己の確 実性が優先的に存在し,そこから外界の確実性を説明するというデカルト的な 意識の観念論と同義とみてはならないだろう。というのも,ディルタイにおい ては自己と外界はどちらが先に確実性を有しているかという問いそのものが誤 りであり,両者は同時に確実性が与えられているからである。意志衝動が生じ る以前から自己のまわりには事実性の壁(W¨ande von Tats¨achlichkeit)が取り巻 いているのであり,その事実性の壁を自己の意志衝動はけっして打ち破ること はできないのである[V 105]。そして,意志衝動が生じ,それがはねかえされ ることによってはじめて,その事実性の壁にわれわれは気づくことができるの である。すなわち,存在しているにもかかわらず,意識の事実においては明確に その差異性を明らかにされなかった外界と自己が,意志衝動の抵抗によって,分 節化されていくのである。それゆえに,このような外界と自己の確実性は,どち らが優先されることもなく,同時に与えられているといえるのである。これに ついて,ディルタイは「両者(外界と自己)はわれわれに同時に,しかも相並ん で与えられる。事物がわれわれの自己とともに,またわれわれの自己が事物と ともに与えられていることが,われわれにはわかるであろう」[XIX 152]と述 べ,自己が外界に優先せず,両者が同時に与えられていることを明らかにしてい る。このことは先に確認したように,「自己と客観は意識の内部で区分され,い わば らんかつ卵割 (Furchung)されるが,ほからならぬこの同じ営みによって,自己が限 界づけられると同時に,像が外部のものとして客観化される。実際,われわれ にとって自己が存在するのは,自己が外界から区別される場合だけである」[V

124]と述べていることにも通じる。すなわち,意識の事実とは,こうした「卵 割」の経験と言い換えても言いすぎではないだろう。

自己と外界の確実性が同時に与えられるとはいっても,両者は同じ起源を有 しているわけではなく,相関的なものであって,どちらが欠けても存在し得な い。「自己というのはまさに,それが外界から区別されるかぎりにおいてのみ,

われわれにとって存在するのであり,外界という言葉は,自己から区別されるか ぎりにおいてのみ,意味を有している。一方の事実を棄てて考えるならば,もう 一方の事実もまた棄てられてしまうのである」[V 124]と述べ,両者が常に相 関的に存在していることを示している。

さらに「抵抗経験においてのみ,他者は‥‥‥我々に与えられるにすぎない。

このような経験なくしては,この他者の身体は,我々に対して全く存在しないこ とになるであろう」[V 113]と述べられているように,「抵抗体験」は,他者 の現実性も含んでいる。他者のみならず,さらには自己自身の過去と未来まで も含んでいる[V 114]。ここにおいて,この経験の図式が単純な内と外という 図式にとどまっていないことが明らかになるであろう2

では,なぜ,この抵抗経験を知覚ではなく経験と呼ぶことができるのであろう か。ディルタイは「私の歩いている道のうえにある木を知覚しただけのものを,

経験ではなく,知覚と呼ぶのである。‥‥‥ある事実が私の知識との連関にお いて意味を獲得したときにはじめて〔大きな苦痛の経験といったように〕‥‥‥

私は経験について話すことができるのである」[XIX 91,角括弧内はディルタ イ自身による補足]と述べている。意志衝動が妨げられることで,ある事実が抵 抗として経験されるのであり,抵抗としてわれわれに与えられた経験は,自己の うちの知識の連関に組み込まれていく。この際,経験が知識の連関のうちに位 置づけられることが,知識の連関において,意味を獲得したといえるのである。

それゆえに,経験と呼ばれることができたのである。この経験を知識の連関に 組み入れることを可能にするものは,結論を先取りしていえば「自己省察」なの である。