第 5 章 ディルタイの自己形成論の展開Ⅲ̶̶̶生の構造と自己形成 94
第 2 節 他者了解と地平
「思惟は生の背後へとさかのぼることができない」[V 5]ゆえに,「生を生そ のものから了解しようとする」[V 4]ことが求められる̶̶̶これがディルタイ の出発点であり,到達点でもある。生はいうまでもなく,生動性(Lebendigkeit) を有している。ディルタイは,「自我に沈思するように努力することにおいて,
自我は実体,存在,所与のものとしてではなく,生,活動性(T¨atigkeit),エネル ギーとしてみられる。そしてフィヒテはすでに歴史的世界のエネルギー概念を 仕上げていた」[VII 157]と述べ,生動性という捉え方がフィヒテの自我概念 に由来し,そしてそれはけっして実体的に把握され得ない,流動的なものである ことを示している。ここで,フィヒテの自我概念に踏み込む余裕はないが,ディ ルタイがこのフィヒテの自我概念に立脚しつつ生を捉えているとすれば
(5)
,生は 流動的,生動的なものとして捉えられているがゆえに,生そのものから了解する という方法しかないことが導出される。
ただ,生そのものから了解するとはいうものの,流動的なものはそのままでは 捉えられないために,客観態(Objektivation)を通じた了解という仕方が示され るのは当然の帰結といってよい。そこで,ディルタイは,体験の表現とその了解 という,体験−表現−了解の連関において生を捉えようとする。体験が表出さ れた客観態は固定されたものであり,生そのものではあり得ないために,生その
ものを了解するには解釈という営みを避けることはできない。そして,「永続的 に固定された生の表出は了解の前におかれていて,したがって,了解は再三再四 この表出にもどっていくことができる」[VII 217]のであり,その了解の営み が「解意(Auslegung)」あるいは「解釈(Interpretation)」であるという。すな わち,ここで,了解にもとづく解釈という仕方が,ディルタイにおいて主要な テーマとなってこざるを得ないのである。
ディルタイにおいて了解は「外から感覚的に与えられている徴表(Zeichen) から内面的なものを認識する過程」[V 318]あるいは「感覚的に与えられた 徴表から心的なもの̶̶̶その心的なものの表出が徴表である̶̶̶を認識する過
程」[V 318]として示される。「外から感覚的に与えられている徴表」とは,例
えば,挙動,声,行為といった形で現われてくる。そして,それらから,それ らを生み出したところの心的なものを認識することが了解であるというのであ る。ただ,こうした説明で客観性が保証されるわけではない。この説明だけで あれば,外的に感性的に与えられている現われから了解者の主観的な思いこみ や恣意によって内的なものを捏造してしまう可能性を捨て去ることはできない。
ディルタイは「解釈の普遍妥当性を理論的に基礎づける」[V 331]べきである として,了解にもとづく解釈が恣意的なものではなく,普遍妥当性をもつもの として成立しなければならないと考えていた。もちろん,こうした志向の背景 には,精神諸科学の基礎には「了解と解釈の過程」[V 315]があり,それゆえ に精神諸科学に対する普遍妥当性の要求がすなわち,了解にもとづく解釈に対 する普遍妥当性の要求と合致するという確信があるのはいうまでもない。ただ,
ディルタイはこの普遍妥当性という概念を非常に不分明なものとして用いてい るが,少なくともミッシュ,ボルノーによって補完されたところにしたがえば,
これを客観性という意味で捉える必要がある。すなわち,主観性を全く排除す ることはできないという確信のもとで,客観性がいかに生起し,それがいわば恣 意的な解釈にならずにすむのかという問題へと展開していかなければならない。
それでは,いかにして客観性が確保されるのかといえば,ディルタイは人間 本性の同形性にその根拠を求める。ただこれはシュライエルマッハーの見解を ディルタイが受容し,展開したものと考えてよいだろう。シュライエルマッハー
[1809/10=1984: 27]は「表現されたものは,最も普遍的なものを理解すること
なくしては,理解されないが,しかしまた同様に,最も個人的で特殊なものを理 解することなくしても,理解されえない」というが,これは全体と部分の関係を 前提とした了解作用を示しているのであり,このことは心的なものを了解する というディルタイの文脈に即せば,人間本性の同形性にもとづきつつ,個々の心 的なものを了解するということになる。実際,ディルタイ自身がシュライエル マッハーの解釈学を踏まえて次のように述べている。
普遍妥当的な解釈の可能性は,了解の本性から導出されることができる。
了解において,解釈者の個性と,解釈される著者の個性とは,2つの比較 できない事実として対立しているのではない。普遍的な人間の本性にも とづいて,この両者は形成されており,その普遍的な人間の本性が人間が 互いに語りあい了解しあうための共通性を可能としている。‥‥‥あら ゆる個人的な区別は,最終的には,人格相互の質的な差異によってではな く,ただその心的過程の段階的な相違(Gradunterschied)によって条件づ けられているにすぎない。[V 330]
表現者と了解者は人間の普遍的な本性によって形成されており,それゆえに両 者には同じ基盤のうえで語りあい了解しあう可能性が開かれているのである。
さらに個性の問題にまで言及され,人間の本性が普遍性を有するために個性は 質的な差異としてではなく,「段階的な相違」として把握されることを示す。こ の個性の問題は,他者了解をシュライエルマッハーやディルタイの視点から考 える際には重要である。というのも,個性が質的な差異ではなく,「段階的な相 違」であるがゆえに,人間には普遍的な本性が存在しているのであり,そのこと が了解の可能性を担保しているからにほかならない。ここでディルタイは「段 階的な相違」と表現しているが,「記述的分析的心理学の構想」においては,「量 的な関係」として次のように示される。
人間本性の同形性(Gleichf¨ormigkeit)は,あらゆる人間において(異常な 欠陥がないかぎり)同じ質的規定と結合形式が生じてくるという点に現 われている。しかし,・
量・ 的・
な・ 関・
係̶̶̶そのなかでこれらの質的な規定や 結合形式が表現される̶̶̶には互いに大きな・
相・
違がある。これらの区別
はつねに新しい・ 組・
み・ 合・
わ・
せのなかで・ 結・
び・ つ・
い・ て・
い・
るのであり,・ 個・
性・ の・
区
・別ということは〔さしあたって〕・ こ・
の・ こ・
と・ に・
も・ と・
づ・ い・
て・ い・
る。[V 229, 角括弧内はディルタイ自身による補足]
個性が顕現するのは,「量的な関係」のなかで質的な規定や結合形式が表現さ れることにおいてなのである。ここでいう「量的な関係」とは具体的には,内 的状態の強さ(Intensit¨at),内的状態の持続(Dauer),印象を受け入れる際の速 さ(Schnelligkeit),印象が保持されている深さ(Tiefe),を意味しているが[V 233],いずれにしても,こうした個性観のゆえに,人間本性の同形性が確保さ れ,了解の可能性が担保されることをここで指摘しておくべきだろう。
さて,この人間本性の同形性に依拠した了解は,具体的には「追形成(
Nach-bildung)」という仕方がとられる。ディルタイはこの追形成という仕方を次のよ
うに説明する。
‥‥‥解釈者は彼固有の生動性をいわば試みに歴史的環境へと移し置く ことによって,彼はここからつかの間,心的過程を強調し強化し,他の心 的過程を後ろへやり,他者の生を自らのうちで追形成することができる のである。[V 330]
すなわち,他者の生が生じてくる文脈へと自己の生動性を移し置くことによっ て,他者の生を自己のうちで追形成することができるという。これはシュライ エルマッハー[1809/10=1984: 12]が「解釈の眼目は,人が自己の心情から,著 者の心情へと,移行することができねばならないということである」と述べて いるところと一致するとみてよい。しかしながら,例の命題についての・
誤・ 解は,
このシュライエルマッハーの言説にも示されるように,自己を他者へと移し置 くことの意味内容をめぐって生じてくるといえるだろう。ただ,再三指摘した ように,これは表現者に「なりきる」とか「共感する」という事態を示すわけで はない。その意味では主観を抜け出て客観へというような形で自己を他者へと 移し置くのではなく,むしろどこまでも主観を残しつつどのようにして客観に 肉薄するのかが問われているといってよい。ディルタイがこの命題をめぐって
「解釈学的なやり方の究極の目標は,著者自身が了解していたよりもよく著者を