第 6 章 ディルタイの自己形成論の地平Ⅰ̶̶̶倫理と自己形成 112
第 2 節 ディルタイ倫理学の位置づけ
( 1 ) ディルタイ思想における倫理学の位置
ディルタイの倫理学は具体的には「道徳的意識の分析の試み」[VI 1ff.](以 下「教授資格論文」と略記)と「倫理学体系」[X 13ff.](以下「体系」と略 記)において展開されているが,それは教育学と非常に密接な関係をもって構想 されている。例えば,彼自身,教育の目的が倫理学に依存することを認めてい る[vgl. SzP 112f.]が,それだけではなくむしろノール[1938: 9]が指摘する ように,ディルタイの研究そのものがこれらの著作からはじまったという点に 着目したほうが思想全体のなかでの位置づけが明瞭になるであろう。
ノール[1938: 9]は,「教授資格論文」を端緒して,その後の『序説』や「人
間・社会・国家の学の歴史研究について」[V 31f.]において,ディルタイが「社 会についての他の学問と道徳との連関を,そして社会が健全に形成し続けるこ とを」発展させようと試みていると指摘する。この指摘のとおり,ディルタイは
「私は精神生活の構造から,衝動の体系からはじめる。そして私が確固とした足 場を築く点は‥‥‥心理学的に認識できる人間の本性であり‥‥‥自己意識な のである」[X 9]
(1)
と「体系」の出発点を述べる。すなわち,ディルタイは衝動 や意志という起点から倫理学を構築しようと試みているわけであるが,「教授資 格論文」においては,道徳的問題を意識の問題として展開し,社会とのかかわ りにまで十分に言及することができなかったが,それを補完する方向において
「よりよき社会的現実構築の手段」[Bollnow 1986=1986: 7]としての精神諸科 学の基礎づけが進められたという側面も指摘できる。ディルタイは『序説』のな かで「この序説の願うところは,政治学者や法律学者,神学者や教育学者のため に,彼らを導いている諸々の命題や規則が人間社会という包括的現実に対して どのような地位を占めているかを彼らが知るようになるという課題を容易なも のにすることである」[I 3]と『序説』の意図̶̶̶精神諸科学の基礎づけの意 図̶̶̶を述べている点から考えれば,「体系」は,意識の問題として展開された
「教授資格論文」と精神諸科学の基礎づけの基礎づけとの結節点として存在して いるといえる。
それゆえ,彼の倫理学においては,道徳という問題を先験的な問題としてでは なく,人間の心的生から考えようとするところに特徴がある。確かに,ディルタ イの倫理学は,その企図を十分に貫徹しているとはいいがたい。そのうえ,功利 主義に対する批判が前面に押し出されることによって,自らの体系を十分に構 築するという点にまでは至っていなかったからである(2)。そもそも,功利主義と は,ディルタイによれば,「自然道徳体系と自然宗教体系ならびに自然法体系と いう遺産」[X 29]を受け継いだものである。その代表的思想家として,「ライ プニッツ,ロック,ルソー,カント,レッシング」をあげ,そして,彼らの共通 点として,「ある合理的連関̶̶̶これは実践的行為の諸原理を含んでいる̶̶̶に おいて発展させられた理性が人間の文化の諸体系には備わっている」[X 29]と いう認識をもっていたことを指摘し,それらに対する批判を行っているが,教 育学における抽象学派と歴史学派の相剋とパラレルに捉えられるといってよい(3)。
つまり,彼らのように自然的体系に依拠した道徳原理は,われわれ人間の現実と は乖離しているという指摘である。そして,この自然的体系がもっとも強く打 ち出されるのがJ. ベンサムとJ. S. ミルである。「体系」を書いていたディルタ イの念頭には,彼らの存在があった。それゆえ,以下で,ベンサムとミルに対す る彼の理解と批判を概観しておく。
( 2 ) ベンサム批判
ディルタイは,ベンサムの思想を「公共の福祉(allgemeines Wohl)」という 原理の展開として特徴づけている[X 30]。もちろん,ベンサムの倫理学の基 本的なスタンスは,功利性の原理である。ベンサム自身自らの倫理学の基礎に
「その利益が問題になっている人々の幸福を,増大させるように見えるか,それ とも減少させるように見えるかの傾向によって,または同じことを別のことば で言いかえただけであるが,その幸福を増進するようにみえるか,それともその 幸福に対立するようにみえるかによって,すべての行為を是認し,または否認す る原理」[Bentham 1789=1979: 82]である功利性の原理をおくことを表明して いる。ただ,ディルタイは,快楽と苦痛という感情をもとに,その計算によっ て行為の原則を決定するというこうした功利性の原理を,公共の福祉の原理と 捉えているのである。それゆえ,ディルタイは,「かぎりある財による幸福の増 加はこの財の大きさに比例せず,個人がすでに所有している財の総計に対する 幸福の関係に比例する。‥‥‥ある社会における最大幸福は,嗜好品がほぼ平 等に分配される場合にしか達成されない」という「人間の最大多数の最大幸福
(gr¨oßm¨ogliche Gl¨uckligkeit der gr¨oßten Anzahl der Menschen)」[X 40]の原理 よりも,「この原理(引用者註:公共の福祉という原理)を‥‥‥詳細に規定し ている」[X 30]と述べ,ベンサムの思想の中核を公共の福祉にみている。そ して,ベンサムがこの公共の福祉を社会倫理の課題の具体的解決に役立てよう と試みていることを指摘し,それゆえに「社会倫理学の創始者」[X 30]と呼 んでいる。
そして,こうした公共の福祉の達成のために,ディルタイは「快と不快の感情 のもつ諸価値が全体的に見渡せるものであること,それから,それらがここの課 題のために規定できるものであること」[X 30],つまり幸福計算の内実を記
述する。ディルタイは,ベンサムが,快と不快(快楽と苦痛)を捉える視点とし て,①強さ(Intensit¨at),②持続性(Dauer),③確実性(Gewißheit),④遠近性
(N¨ahre),⑤これらの感覚が他の例えば反対の種類の感覚を伴うことがあるかど
うか,⑥一定数の人間に善か悪が広がること,の 6点を示していることを踏ま えて,こうした「測ることのできないもの,把握することができないもの」を 把握する方途を見出していることを評価する[vgl. X 32]。しかしその一方で,
ディルタイは「彼の理論の根本的な欠陥は,そのアトミズムと現実の諸衝動と 諸欲求が切り離されている」[X 32]ことになると批判する。つまり,ベンサ ムの功利性の原理にもとづくと,公共の福祉は,個々人の快楽と苦痛の合計を 計算し,その行為に関わる個々人の計算結果を,さらにすべて計算するという 仕方で基礎づけられる。となると,社会性というものは,個々人の快楽と苦痛 に依拠するということになり,アトミズム的であるということになるのである。
また,ディルタイの批判は,アトミズムであることだけが問題なのではなく,そ れらが抽象化された計算に過ぎないという点に向けられている。つまり,快楽 と苦痛を計算するということ自体,それは感情を抽象化することにほかならず,
人間の生の感情と一致していない単なる仮説にすぎないということである。「感 情が現存することと感じられることとは,けっして別々のことではない。それ らは生なのである」[X 42]というように,ディルタイは生の全体性をみてい る。当然,その立場からすれば,こうした快楽と苦痛とを抽象化し,計算すると いう仕方は批判の対象となるであろう。それゆえ,ベンサムが求めた「社会倫理 学」の帰結が個人に還元されるアトミズムに堕したこと,そして人間の生の感情
̶̶̶ディルタイにおいては特に衝動ということになる̶̶̶と一致していないこ とが何よりもディルタイの批判の対象であったのであろう。だからこそ「この 考察(引用者註:「体系」)は,人間の衝動と社会の機能から出発する社会歴史的 な見解によって補わなければならない」[X 32]と自らの倫理学の方向を示す ことになったのである。
( 3 ) ミル批判
ディルタイの精神科学という用語が,ミルの“moral science”に端を発してい る
(4)
が,ディルタイは,倫理学においてはそのミルに対しても批判の眼を向けて
いる。
ベンサムの倫理学が功利性の原理にもとづくものであったのに対して,ミル の倫理学はそれを踏まえつつも,幸福計算を量だけでなく,質をも導入したとこ ろに特徴がある。その文脈において「満足した豚であるより,不満足な人間で あるほうがよく,満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよ
い」[Mill 1861=1979: 470]という言葉が示されることとなる。快楽と苦痛に
ついて,量だけではなく,質をも考慮しようとするミルの姿勢に対して,ディル タイは「人間のあらゆる行為の究極目的,したがって古代哲学でいう最高善は,
個人にとっても種族にとっても,質,量ともに苦痛からできるだけ自由で,喜び ができるだけたくさんある生活である。‥‥‥あらゆる行為のこのような究極 目的は,同時に必然的に人倫の基準でもある」[X 34]と述べている。
ディルタイはさらに「快と不快,あるいは最も広い意味での幸福と不幸は,す べての行為の唯一の原動力である」[X 36]とも述べている。これは功利主義 一般の特徴と言っていいだろう。こうした立場と比較されるのが,倫理的な善 は「それ自体のために」追求されるという立場である。そもそも,倫理的な善が
「それ自体のために」追求されることが意味するのは,「倫理的なもの(Sittliche) とは,それを意識することがわれわれを喜ばせ,それを欠いていることがわれわ れを悲しませるために,われわれがそこに立ち止まり,われわれを安心させる ような目的のことである」ということにほかならない。だとすると,倫理的な ものと快楽と苦痛という感情は結びついていると考えてよい。そもそも倫理的 なものは,それ自体のため,つまり,直接それと結びつくような快楽のために 求められるのではなく,他の苦痛を避けて,他の快楽を得るという目的のため の手段として求められる。つまり,善をなすことそれ自体が快楽なのではなく,
善をなすことで得られる「何か」が快楽となるということである。これが功利主 義と「それ自体のために」追求される立場とが対照をなしている部分といってよ い。しかし,ディルタイは,人間の歴史の過程で,そうした副次的な目的のため になされてきた倫理的なものが自己目的化するようになるという[vgl. X 37]。
なぜそうなるのかの詳細は述べられていないが,少なくともディルタイがこの 点に関する功利主義に対する批判には同意していないことは確認できる。
では,ディルタイはミルのどの点を問題とみなしていたのか。それは,ミルの