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「体系」における倫理問題解決の 3 つの方法

第 6 章 ディルタイの自己形成論の地平Ⅰ̶̶̶倫理と自己形成 112

第 3 節 「体系」における倫理問題解決の 3 つの方法

先にもみたように,ディルタイの倫理学は「社会倫理学」として構想されて いる。その課題は,「個人の生き方を導くことができるだけでなく,社会生活 の主要問題の解決をも可能にする諸原理を展開すること」[X 13]にほかなら なかった。その場合,どのような方法が妥当するのかを考慮する必要が生じて くる。この点についてディルタイは,過去の倫理学を概観し,それらを 3つの 方法に分類している。それが倫理問題解決の3 つの方法であり,それぞれ,形

而上学的方法(metaphysische Methode,内的経験の方法(Methode der inneren Erfahrung,道徳的大衆現象研究の方法(Methode des Studiums der moralischen Massenerscheinungen),と呼んで,それらを概説している[vgl. X 18-26]。

まず,形而上学的方法について,ディルタイは「世界連関(Weltzusammenhang の概念から,恒常的で普遍妥当的な生活の評価と指導の原理を導きだす」[X 18]としている。形而上学的方法は,さらに4 つに分類されている。①道徳的 世界理性の形而上学と,神の国における倫理的行為の原理,②観想的理性の形而 上学と現世否定の原理,③形成力の形而上学と自己保存の原理,④唯物論の形而 上学と人間動物説の原理,である。これらは世界連関を何に求めるかというこ とによって区別できる。つまり①は神に善をみ,②では観想に見出す。③は,神 のかわりに自然の形成力に倫理的理性を見出すし,④では物質的なものに見出 される。このような形而上学的方法は,確かに世界連関を何に求めるかという 点で差異を有してはいても,結局世界連関が基礎となっていることは否めない。

それに対してディルタイは,この基礎となる世界連関が「証明できない仮説であ り,純粋に科学的には正当化できない」[X 20]ものであることを指摘し,この 方法の問題点を抽出している。さらに「形而上学の出発点になっている原理は,

自己経験からのみ把握されるのであり,だから他の方法に還元することができ る」とし,「出発点はやはり内的経験にある」[X 20]と,この方法が内的経験 の方法に帰着しうることを明らかにしている。

それでは,内的経験の方法はどのように位置づけられているのだろうか。ディ ルタイは「内的経験は,あらゆる形而上学的前提を免れているので,まさに世界 理解の象徴や形象の原理であり,いわば古代民族の老賢人が所有するもの」[X 20]としている。ここでは,倫理的な生の感情によって,悲しみ,卑賎,犠牲が 完全性と自己の高揚をもたらすことが示される。この原理をディルタイは良心

(conscientia)と呼んでいる[X 20]。さらに「形而上学の時代では,内的経験

という新たな原理を形而上学的前提から切り離すことはできなかった。内的経 験の原理は,アウグスティヌスによって学問的に頂点に達したが,この内的経 験によってキリスト教的意識が形而上学に変化されるにしたがって,腐敗させ られていった」[X 20f.]とも指摘する。ディルタイはアウグスティヌスについ て別の箇所で次のように述べている。「・

自・ 己・

省・

察(Selbstbesinnung)はそれゆえ

アウグスティヌスの最初の著作の中心であった‥‥‥自己省察は‥‥‥・ 内・

的・ 生

・活(inneres Leben)だけが完全に確実であることに気づく」[I 259]。このア ウグスティヌスによって示された自己省察は,「・

自・ 身・

の・ 内・

に・ 実・

在・ 性・

を・ 発・

見・ す・

る・ こ

・と」[I 259]でもあった。さらに,懐疑のうちに自己の確実性を見出す「この

覚知(Innewerden)は単に思惟だけではなく,人間の全体を含んでおり,彼は深

い,真の表現でもって,自己の確実性を・

生とよんだ」[I 260]と指摘している。

ここで明らかになるのは,内的経験の方法の原理として,アウグスティヌスの自 己省察をディルタイが見出していることである。自己省察についてディルタイ は『序説』で,認識論的自己省察と歴史的自己省察をあげ,「精神諸科学の基礎 づけ」が認識論的自己省察によってなされることを述べ,さらにそれを歴史的 自己省察によって補完していく必要性を述べているが[vgl. I XIXf.],ここで示 される自己省察はそのどちらにも解消し得ないものであるのは,アウグスティ ヌスに関するディルタイの記述から明白である。おそらく,認識論的自己省察,

歴史的自己省察の両者を結節するものが,このアウグスティヌスによって示さ れた自己省察なのであり,内的経験の方法はそうした自己省察に委ねられるこ とになろう。

さらに内的経験そのものについてみてみると,別の箇所でディルタイは「内的 経験は,内的知覚以上のものをそれ自身に含んでいる。なぜならば,それは私が 知覚したり思惟したりする作用の覚知と,思惟のなかの外的知覚,すなわち意識 のなかで存在する対象とを結びつけてひとつの全体にする。そしてその全体の なかで私の意識の事実が思惟によって結びつけられた,認識全体を形成するか らである」[XIX 91]と述べ,内的経験が外的知覚をも含んだ大きな全体を構 成することを明らかにしている。この場合の外的知覚とは,世界の事実に対す る知覚であり,内的知覚とは意識の事実に対する知覚である5。このような内的 経験の在り方が,内的経験の方法においては前提されている。

しかし,この内的経験の方法には限界がある。経験されるものはすべて是認 するというのがこの方法の立場であるから,「万人の万人に対する闘争」[X 23]が生じることになる。さらに,この方法を特徴づけているのは,「個々の倫 理的原理は,生の内容をそれぞれ表現したものであり,この表現は歴史的に制約 されている。したがって相対的である」[X 22]ということであろう。すなわ

ち,内的経験においては,歴史的相対性が現前してくるがゆえに,社会もまた相 対性を免れ得ない。その結果,内的経験とは異質であるはずの社会の存在が明 確になりにくくなり,内的経験がすべてを包含するという立場でこの問題を昇 華させてしまう。それにディルタイは問題を見出していたからこそ,第 3の方 法をあげたのであろう。それゆえ,第3の方法には,当然,内的経験が把握しき れないはずの社会の問題に焦点があてられるはずである。ここに,道徳的大衆 現象研究の方法が現われるのである。

道徳的大衆現象研究の方法,つまり「社会団体と社会組織,および歴史的連関 の研究方法は,倫理規則の起源を人間の社会的歴史的な共同生活のなかに見出 し,それゆえ社会の歴史における人間性の発展の研究から出発する」[X 23]。

この人間性発展の仕方として,ディルタイは,「人類の進化は理性の連関が展開 する歴史から構成される」とするドイツの進化論と,「進化は生物学から構成さ れる」とするフランス・イギリスの進化論をあげている[vgl. X 24]。そして,

これらに対して,「倫理的な推移は,単独の個人においてではなく,社会的で歴 史的な共同世活において実現する。だから,この推移の経過は個人のうちに求 められるべきではない」[X 24]と指摘するにとどまっている。この方法につ いては,ディルタイ自身,十分な考察を加えておらず,共同生活における倫理性 の形成が述べられるにすぎない。

さて,ここまで3つの方法をみてきたが,これらに対してディルタイは「以上 3つの方法のどれもが,倫理的世界の事実を説明し,行為の普遍妥当的原理を導 きだすことができなかった」[X 26]と述べている。この理由として,われわ れの表象が,感情や衝動に結びつき,その感情や衝動が行為に結びつくからであ るという。結局ディルタイは,3つの方法のどれもが普遍妥当的でないとしつつ も,この表象−感情・衝動−行為の連関を解き明かす方法として,自己省察に もとづく内的経験の方法を考えていたのではなかろうか。例えば「人間性の低 次の衝動と高次の衝動との,つまり歴史のなかで感覚的に理解される世界観と 省略されていない内的経験との闘いが生じる。この闘いは,人類における形而 上学体系の未解決の論争の究極の原因である。それは自己省察によってしか調 停できない。倫理学は自己省察を基礎としてのみ可能である」[X 27]とする。

ということは,ディルタイにとって,倫理学の可能性は,自己省察という基礎

のうえにしか見出されないことになる。ただ,自己省察は,上でもみたように,

内的経験の方法に通じるものであった。とすれば,結局,ディルタイが倫理学の 可能性を見出していたのは,自己省察に立脚した内的経験の方法ということに なるであろう。