第 2 章 ディルタイの自己形成論の基礎Ⅱ
第 3 節 ディルタイが捉えるカントの企図
ディルタイは自らの「精神諸科学の基礎づけ」というテーマを「歴史的理性批 判」という言葉で表現する[I IX]。そして,この「歴史的理性批判」の試みが カントの純粋理性批判をモティーフとしていることはよく知られたところであ る。1859年の日記を読むと,カントの企図を引き継ぐというディルタイの自負
を読みとることができる(5)が,そこではカントの純粋理性批判の実り豊かな中心 がカテゴリーであることを指摘したうえで,その試みを継承しつつ展開される
「新しい理性批判」の出発点を3点示している
(6)
。
しかし,そもそも「歴史的」という言葉が意味するところに厳密であれば,
ディルタイの方向性自体がカントの試みと齟齬をきたすものであるといえる。
というのも,「歴史的認識の基礎づけの試みは,カントの純粋理性の批判の営み が超歴史的な認識の普遍妥当性を要求するかぎり,カントの理性批判の営みと は,簡単に結びつくことは困難だからである」[西村ほか2001: 16]。この「歴 史的理性批判」の試みは彼が若い頃より構想していた「生と理想との統一,永遠 の同一性,歴史の生における世界理性の実現」[jD 4]といったテーマと結びつ いているのだが,しかしこの問題は彼が生涯にわたって苦闘したテーマといっ ても過言ではない。だからこそ,彼がカントをどのように受容したのかという 問題になると,その解釈は,カントとの齟齬を・
補・ 完・
す・
ることで乗り越えようとし たと捉えるのか,それともカントの試みを結局・
解・ 体・
し・
たと捉えるのか,という2 つに分かれることとなる。
マックリール[1975=1993: 374]は自らのディルタイ解釈の立場を「われわ れは,ディルタイの生涯にわたる企てを,カントの『純粋理性批判』を・
補・ 完・
し・ よ
・うとする努力であると解釈した」と鮮明に打ち出している。そして,「『純粋理 性批判』における超越論的哲学ではなく,多元主義的な解釈学的性格をもつ反 省的判断力の批判としての『判断力批判』に注目する」点にカント哲学の特徴 を見出し,「どのようにして歴史的理解は可能であるかという問いに対する解決 は,純粋理性の批判をモデルにすべきではなく,判断力の批判をモデルにして 回答すべき」であるとディルタイが考えていたと捉えようとしている[西村ほ
か2001: 194]。例えば,そのことが顕著に現われているのは,カントの規定的
判断力(bestimmende Urteilskraft)と反省的判断力(reflektierende Urteilskraft) の区別に立脚しつつ,カントの思想を特徴づけ,ディルタイとの関係を明確化し ている点である。
カントは,『判断力批判』のなかで規定的判断力と反省的判断力の区別を次の ように示している。
判断力一般は,特殊的なものを普遍的なもののもとに含まれているもの として考える能力である。普遍的なもの(規則・原理・法則)が与えら れているとすれば,特殊的なものを普遍的なもののもとに包摂する判断 力は(判断力は超越論的判断力として,それらにしたがってのみあの普 遍的なもののもとに包摂可能な諸条件をアプリオリに示す場合でも),・ 規
・定・
的である。しかし,特殊的なものだけが与えられており,判断力は特 殊的なものを見出すべきであるとすれば,判断力はたんに・
反・ 省・
的である。
[Kant 1790=1999: 26]
カントは,規定的判断力によって,普遍的なものが与えられて,その下にあ る特殊的なものを捉えていくと考えていた。これは『純粋理性批判』[Kant 1781/17872=2001: 237ff.]で触れられているところから考えても,悟性によっ て普遍的なものが与えられているといってよいだろう。それに対して,反省的 判断力は特殊的なものから普遍的なものを導く働きといってよい(7)。マックリー
ル[1975=1993: 17]はこの規定的判断力と反省的判断力をもとにカントの思想
を特徴づけているが,それぞれの判断に,『純粋理性批判』と『判断力批判』を 対応させている。そしてディルタイの「歴史的理性批判」の試みは,『純粋理性 批判』の企図を受け継ぐのではなく,『判断力批判』において示された反省的判 断力に結節するとみる。歴史研究において考えれば,法則や原理を探し求める のが規定的判断力であり,個々の歴史的現象に内在する類型的構造を記述する のが反省的判断力であって,その意味では歴史の説明法則をうち立てることに 腐心するのではなく,歴史の意味づけや解釈といった解釈学的な意義が歴史研 究において追求されなければならないということになる。いずれにせよ,カン ト哲学において『判断力批判』を高く評価している点では現在のカント研究の動 向とも一致しているところである[vgl.牧野1999: 316ff.]
(8)
。
それに対して,ボルノーはディルタイの立場をカントをはじめとした哲学的 伝統の継承と根本的な転換という二重性において捉えている。その根拠は,何 よりもディルタイが「生を生そのものから了解する」[V 4]と述べた点にある。
この言葉は生の自己了解ということの表明であるが,その生の自己了解という ことに厳密に徹していくならば,それは生を捉えるための超越的な措定を一切 排除することに結節する。その意味でディルタイはカントに対して次のように
述べている。
こうした事実(意識の事実)の分析が精神科学の中心であり,それゆえ 精神的世界の諸原理の認識は歴史学派の精神に応じてその世界のうちに とどまり,精神諸科学は自らで自立した体系をなすのである。/たとえ,
そうした点において,ロック,ヒューム,そしてカントの認識論学派とい くつもの点で一致していたことがわかったとしても,私はまさに意識の 事実という連関̶̶̶その連関においてわれわれは哲学の全基底をひとし く認識するのだが̶̶̶を認識論学派とは異なって把握しなければならな かった。[I XVIII]
ここではディルタイがカントの企図には同意しつつも,意識の事実から精神諸科 学を構築するということに忠実であったために,そこから離れざるを得なかった ことが示されている。ディルタイにとって,カントの認識論的基礎づけは,「思 惟活動としての理性」によって行われたものであり,けっして「意欲し,感じつ つ表象する存在」としての「全体的人間」から基礎づけられたものではなかっ たのである。その結果,カントの試みそのものの・
解・
体を余儀なくされたという のが,ボルノーの解釈である。「彼は哲学の合理主義的形式から,彼がその他の 点では非常な親近感をもっていたカントからさえ‥‥‥袂を分かつ」[Bollnow
1936=1977: 37]とボルノーが述べていることがその端的な表現であろう。
マックリールにせよ,ボルノーにせよ,ディルタイがカントの試みを継承しよ うとしていたという点,そしてその試みが自らの生の哲学の立場から,あるいは 生の哲学から派生しうる歴史的立場から挫折せざるを得ないと認識していた点,
この 2点については同意されているといってよい。ただ,その挫折を超克する 方途をカント自身の思想から見出し,展開・補完したとみているのがマックリー ルであり,超克の方途がカント自身ではなく,生の哲学の立場から必然的に導か れるものであり,その結果カントの試みを解体したとみるのがボルノーであっ た。実はこのことはこれからの考察にあたって,重要な視点を示している。と いうのも,カントとの関係をどのように捉えるかは,ディルタイの思想をどの ように解釈するかという問題はもちろん,カントの哲学をどう捉えるかという 問題とも深くかかわっているが,もしカントの試みを補完したと捉えるならば,
ディルタイの「歴史的理性批判」の試みの萌芽をカントのなかに見出す必要がで てくるし,逆に,カントの試みを生の哲学の立場から解体したとする立場に立つ ならば,カント以外のところからカントを乗り越える方途を見出すことが求め られるからである。すなわち,カントの示した企図はカント自身の思想にもと づいて貫徹されるのか,それともカント以降の「哲学的・文学的運動」において はじめてカントの企図が展開・補完されるのかという問いへと展開していくの である。
そうすると,われわれはカントとディルタイの関係についての上述の解釈に 目配りしつつ,やや限定的にディルタイとカントの関係を考える必要が生じて くる。そこで,「就任講義」にあらわれたカント像を素描することで,「哲学的・
文学的運動」という視座からカントを捉えることとしたい。というのも,「哲学 的・文学的運動」のなかでカントを位置づける場合,ここまでみてきたカントの 思想全体とディルタイとの関係ではなく,カントの企図がその後どのように継 承されてきたかが焦点となるからである。その点からすれば,カントの企図は どのように示されているのかをみていくことは,実はカントそのものとの関係 ばかりではなく,「哲学的・文学的運動」をディルタイがいかに受容していたか という問題と密接に関係するのである。
さて,ディルタイは「就任講義」の冒頭で哲学の根本問題がカントの立てた問 いに収斂することを示し,その問いとして次の3点をあげている[vgl. V 12]。
1. われわれにとって単にわれわれの直観と表象においてしか現存して いない世界がどのようにしてわれわれに与えられているのか。
2. 外界̶̶̶そこでわれわれが生きている̶̶̶の形象は拡散しつつ至る ところで入り込んでくる刺激によってどのような経過を通じて形成 されるのか。
3. 精神的世界の形象は内的直観によってどのような経過を通じて形成 されるのか。
そして,この 3点に答えることができたとしても,最終的に「‥‥‥強固に設 定されたある限界のなかで,内的経験や外的経験において与えられるこうした 諸現象の連関にどのようにしてわれわれの認識が近づくのか」[vgl. V 12]と