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第 5 章 ディルタイの自己形成論の展開Ⅲ̶̶̶生の構造と自己形成 94

第 3 節 生の構造と地平

さて,ディルタイは原始人の生活を描きつつ,生の根本構造を光と暗闇との対 比において次のように示している。

この狭い,隠された領域のまわりには,知られざるもの,制御し得ないも のがある。暗闇(Dunkel)がこの照らされた地点(beleuchter Punkt)の まわりに聳え立っている。そして制御し得ず知られ得ない自然の威力が この暗闇から猛獣の目のようにみている。[VIII 44

原始人の生活領域は「照らされた地点」と表現されているように,「光」によっ て照らされている場である。それゆえ,彼らはその領域内のことであれば,認識 することが可能となる。しかし,その生活領域は「暗闇」という制御できず知る こともできないものによって取り囲まれている。そして,その「暗闇」は彼らの 生活領域を脅かそうとしている。当然,彼らにとって「暗闇」は認識し得ないも のであると同時に,恐怖にも似た感情を抱かせるものであるといえるだろう。

この記述は原始人の生活領域についての問題だけを意味しているのではない。

むしろわれわれの生の本質に深く関わる問題として記述されているとみること ができよう。次の記述をみると,そのことがより鮮明になる。

‥‥‥ 2つの領域は分離される。人間のまわりの領域のなかで,彼は自 分の行為によって規則にしたがった変化を生じさせる。この領域はます ます深く捉えられる。この領域の背後に了解できないものの領域,つまり

行為によっては直接規定され得ないものの領域がある。これは恐ろしい 迷信に取り囲まれており,そして実験や操作とは違った方法でこの暗闇 を手探りで前進していく。しかし,どんな場合でも規則にしたがって変 化されうるものの背後には,現実の暗い核があるのである。[VIII 142f.

ここでは「光」と「暗闇」という比喩ではなく,より明確に「了解できるもの の領域/できないものの領域」あるいは「規則にしたがった領域/規則にしたが わない領域」といった対比で捉えられている。そしてわれわれはこうした秩序 のなかに生きつつ,つねにその秩序によって捉えられないものを捉えようと進 んでいくことになるが,その背後にどこまでも秩序のもとにおかれない領域が 存在することが示されている。

ただ,この2 つの領域はこのように対立しているだけなのだろうか。われわ れの知り得ない領域はどこまでも知り得ない領域としてわれわれを脅かそうと しており,それに恐れつつ生活しているのがわれわれだというのだろうか。も ちろん,その疑問に対して,知り得ない領域を知ろうとしていく営みをわれわれ は絶えず行っており,それは確実に成果をあげているという主張も一方では成 り立つかもしれない。知り得ない領域は確実に狭くなっていっている,と。例 えば,自然科学の営みがそうであろう。しかし,自然科学の営みが一定の効果を あげても,その背後につねに知り得ない領域が存在し続ける,あるいは知ろう とする営みを続けていけばいくほど知り得ない領域はその姿を変えつつわれわ れの前に立ちふさがるといっても過言ではないだろう。だから,われわれの領 域とその外にあってわれわれを脅かす領域とを対比的と捉えることは妥当性を もっている,という主張は成り立つ。しかし,この 2つの領域は対立している わけではない。むしろ,重層構造になっていると考えるべきであろう。

デ ィ ル タ イ の い う よ う な わ れ わ れ の ま わ り に あ る 領 域 を ボ ル ノ ー

[1963=1978]は「体験されている空間(erlebter Raum)」と呼んでいる

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。そし て,その「体験されている空間」が数学的な空間概念とは異質の特殊な概念で あることに着目して様々な角度から分析を行っているが,ディルタイのあげた2 つの領域の問題を考えていく際には,地平線(Horizont)への視角がわれわれに 示唆を与えている。

ボルノーによれば,地平線とは人間の視野を境界づけているものである。そ

の意味ではわれわれのまわりにある領域を地平線の内側にある「体験されてい る空間」ということが許されるであろう。ただ,その地平線は不変の境界線を意 味するのではない。地平線を越え出ようと進んでも,地平線はわれわれの視界 に即しつつ,その領域を移動していく。つまり,地平線とは「到達不可能な境界 でもあり,前進するための空間でもある」[Bollnow 1963=1978: 72]。こうし た地平線の基本的な性格を,ボルノーは地理学者ヴァン=ペールセンの見解に したがいつつ「地平線の二重相」として示している。「暗闇」を前進してもつね に「暗闇」が残されるというディルタイの記述は,この地平線の性格を言い表し ているといえよう。

ただ,この「体験されている空間」というのは,地平線とその外側という対比 を示しているわけではない。とすれば,ディルタイのいう 2つの領域もまた対 立しているわけではないことが示されよう。地平線はつねにこの大地(Boden に接している「想定線(gedachte Linie)」である。しかし,それは平面的構造を なすのではなく,「体験されている空間」,地平線,大地の関係は,重層構造を なすものとして了解されるべきであろう。もちろん,厳密にいえば,「体験され ている空間」と大地との間にはそうした関係は成立せず,ただ大地だけがあり,

われわれの視界が「体験されている空間」を現出させているのだが,「体験され ている空間」,地平線,大地という三者の関係をより明瞭に示すためには,重層 構造を想定することが許されるはずである。そして,その大地は無限に広がっ ており,地平線によって有限化されることによってわれわれはそこで「生きる

(leben)」ことができるのである[vgl. Bollnow 1963=1978: 73f.]。

実のところ,この点についてはすでにディルタイが示しているところでもあ る。すなわち,「到達不可能な深み(unzug¨angliche Tiefe)から意識的な生の小 さな領域が立ち上がっている(erheben」[VII 220]という記述は,「生の領域」

と「深み」が対比的に描かれているのではなく,「生の領域」が「深み」から立 ち上がる,すなわち「生の領域」が「深み」によって基礎づけられるという関係 において捉えることができる。すなわち,先に示唆していたように,重層構造を なしているのである。そして,この「生の領域」と「深み」との関係は,これは ここまで述べてきた「光」と「暗闇」との関係,そして「体験されている空間」

と大地との関係と一致するといってよい。この場合,「深み」が尽くされないと

いうことは,大地の無限性,そして「暗闇」の無限性とのアナロジーとして考え て問題はないだろう。つまり,われわれの「体験されている空間」の背後にそれ を根拠づける無限の大地がつねに存在しているのである。

さて,ここでようやくわれわれは生の構造と地平の問題へとようやく歩を進 めることができる。すなわち,ディルタイとボルノーに即しつつ,ここまで生の 構造を,「生の領域」と「深み」との重層構造として捉えられることを明らかに した。同時に,ガダマーが示すように,「地平とは,ある点から見ることのでき るすべてを包括し,包囲するような視圏(Gesichtskreis)である」[Gadammer

19754=1986: 286]から,ここまで示したように,その「生の領域」はわれわれ

の視界が現出させる地平によって「深み」から局限されるものであるということ ができる。

こうしたガダマーの地平論を生の構造からどのように理解すればよいのか。

ボルノーが示していたように,地平線の基本的性格から考えれば,それは「想 定線」であって,われわれの視界が地平を現出させていたのである。それゆえ,

ガダマーのいう地平もまた,想定線であると捉えておくべきであろう。さらに,

地平は視界だけではなく,それを支える〈何か〉がなければ現われてはこない。

ボルノーはその〈何か〉を大地(Boden)と捉えていたが,ここまでの記述を振 り返れば,ディルタイにおいては「深み」がまさにそれに該当するといえる。つ まり,「深み」とわれわれの視界が地平を現出させ,「生の領域」を確保するので ある。

ここでガダマーの地平論と生の構造との関係が示された。しかしながら,地 平,生の構造,他者了解の相関関係はいまだに明らかになっていない。さらにい えば,シュライエルマッハーとディルタイのいう了解という営みが心理主義的 であるか否かについてもいまだにその解決をみていない。それゆえ,次節で生 の構造と他者了解との関係を解明していくことで,これらの問題への道筋を探 ることとする。