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第 8 章 ディルタイの自己形成論の地平Ⅲ̶̶̶自然・歴史・生 147

第 4 節 自己形成の論理

ディルタイは,「自己と客観は意識の内部で区分され,いわば卵割(Furchung されるが,ほからならぬこの同じ営みによって,自己が限界づけられると同時 に,像が外部のものとして客観化される。実際,われわれにとって自己が存在す るのは,自己が外界から区別される場合だけである」[V 124]と述べていた。

つまり,彼にとって自己と客観が生み出される地点は,体験を通じた意識の事実 においてであった。それゆえ,自己は社会に前提されるものではない。しかし,

逆に社会があり,それを構成する自己が析出されるものでもない。客観的精神 のうちにわれわれが要素として組み込まれているのではなく,客観的精神を了 解する営みを通じて精神そのものへと遡及できると同時に,われわれ自身が立 ち現れるのである。このことは,自己と客観が弁証法的止揚によって精神的世 界へと結びつけられるということではない。シェークスピアのような主観的想 像力でもなければ,ルソーのような客観的想像力でもない,ゲーテの詩的想像力 において示されていた自己のありよう,すなわち,「彼(ゲーテ)は異質なもの を自分自身の生と関係させることで了解し,そうして了解されたことは,彼自身 の発展の一契機となった」[XXVI 154]とディルタイが述べるように,主観的 なものと客観的なものとの均衡のうえに自己自身を発展させてきたゲーテのあ りように重ね合わせて理解することができるだろう。

ここまで考えてくると,生の全体性にみられる不断の発展と円環性という特 性が,客観的精神の了解を通じた精神的な世界と自己の開示と接続してること が明らかとなる。生は運動であり,そのうちから自己が見出されてくるが,しか しながら,次の瞬間にはまた,生の運動のなかに引き戻されていく。とはいえ,

その生は自己を離れず,自己とともにあり・ 続・

け・

るものである。だからこそ,われ われは自己と客観がその都度の意識において卵割されるにすぎないといえるの である。

う絶えざる運動であるといえる。すなわち,自己形成とはこうした運動そのも のであると考えてよい。しかしながら,こうした運動は,経験が生じるたびに繰 り返されていく。とすると,それは運動とはいうものの,その都度の繰り返しで しかあり得ない。その都度性は実存的な自己の在り方を開示するものである一 方で,しかしそれを支える何らかの基盤がなければ,自己の一貫性を保つことは できない。前近代社会においてはその一貫性は社会そのものに与えられており,

近代社会において理性に与えられていたが,人間の諸衝動と諸欲求を基点に考 えたディルタイにとって社会や理性は無批判に前提することができないもので あった。

それゆえ,生の現実に照らした際に見出される諸衝動や諸欲求にしたがって 自己と他者が卵割されるとディルタイは考えるが,その枠組みは,確かに生の現 実に即しているものの,その都度の営みの繰り返しでしかなく,われわれは新 たな経験を得ても,自己を形成していくことはないだろう。そこで必要となる のは「構造連関(Strukturzusammenhang」と「作用連関」である。構造連関は 表象・感情・意志といった組成を有するもので,その「特性はわれわれにとって 目的的であると同時に,因果的(Kausal)」[V 176]であった。人間の内的生 において与えられ,諸衝動と諸欲求を生み出す構造連関は,それ自体が自らの 生にとって「合目的的」であるがゆえに,「発展(Entwicklung)」するのである

[V 176]。まずこの点において自己は自己の生にとって目的的であり,なおか

つ,発展するものであるといえるだろう。ただ,ここで留意が必要なのは,構造 連関は自己の固有性を否定しないが,同形性を有するものであるという点であ る。それゆえ,自己の生にとって目的的であるという場合の「自己の生」は,先 に問題として指摘してきた〈主体〉としての自己ではなく,人間としての共通 性のうえに生の保存を目指すという目的的なものにとどまるということである。

ただ,そうして構造連関によって獲得された連関(erworbener Zusammenhang によって,われわれは個性を獲得していくが,同時にそのことが心的生を制約す ることにもなる。これが個性化のプロセスであった。

しかし,こうした個性化のプロセスにとどまれば,結局〈主体〉としての自己 を形成していくことにつながってしまうであろう。そこで検討されなければな らないのが「作用連関」である。作用連関は,「心的生の構造にしたがって,・ 価

・値を産出し・ 目・

的を実現する」[VII 153]ものであった。個々の人間が心的生の 構造連関にもとづきつつ,個性化されるのに対して,作用連関は精神的世界に 貫かれているものである。われわれが文化として認めるものは,生の客観態と して,すなわち,客観的精神として現れるものである。そのような客観的精神 として現れる作用そのものが作用連関にほかならないが,それによって何らか の価値が産出され,目的が志向されていると考えられる7。こうした作用連関は,

価値を算出し,目的を実現するものであるから,その積み重ねが歴史となってい く

8

。このことは一方ではわわわれが歴史的に制約されることを意味するが,他 方では心的生の構造にはしたがうものの,・

歴・ 史・

的・ な・

制・ 約・

を・ 越・

え・

た実存的な決断 をもなしうることを意味している。このことをディルタイは「創造する力の永 続性」と名づけ,「相対性に対して創造する力の永続性が歴史の核心をなす事実 として現れる」[VII 291]と述べていた。すなわち,生の全体性において自己 が卵割され,同定され,形成されていくことが生の円環性として捉えられてい たが,これは生の全体性のうちにとどめられるということではなく,生の全体 性に結び付けられながらも,その生を・

不・ 断・

に・ 発・

展・ さ・

せ・

ることができるというこ とであった。ディルタイは生の領域を2つに分け,人間のまわりの領域で自分 の行為によって規則にしたがった変化を生じさせることができる領域と,この 領域の背後に了解できないものの領域があることを指摘していたが[vgl. VIII

142f.],自己が卵割され,同定され,形成されていくことが規則にしたがった変

化であるとすれば,その背後にどこまでも「到達不可能な深み(unzug¨angliche

Tiefe)」[VII 220]が控えていることになる。生の全体のなかで自己が卵割さ

れるが,しかしそれは生全体から分離されたということを意味しない。むしろ,

「到達不可能な深み」から自己が・ 見・

出・ さ・

れ・

たといえるだろうが,しかし,その自 己は生の深みを局限したにすぎないため生全体の一部にとどまっているだけで なく,とどまっているからこそ生の全体を形づくってもいるのである̶̶̶とは いえその全体をみることも知ることもできないが。それゆえ,生全体のなかか ら自己が析出され,それが生へと引き戻される不断の運動とが生じているので あり,われわれの自己形成はそうした運動そのものであり,そしてまたそれは生

そのものの運動でもあったのである。 生と実存,生と存在,実存 と存在の関係はどのよう に理解すればよい? 試問

【註】

(1)本論文「序章 本研究の課題」の「第1節 本研究の課題と位置̶̶̶先行研 究の検討」[1ff.]参照。

(2)近代社会がデカルト的な自己を基点として構想されたのに対して,現代 社会は社会それ自身が個人を疎外している状態といえるだろう[vgl. Beck 1986=1998; Giddens 1991=2005; Young 1999=2007]。すなわち,独立した 個人を前提にする社会構想そのものが生み出した問題に現在われわれは直 面しているといってよい。

(3)この場合の個性はディルタイが述べる意味での個性とは異質であることは これ以降の議論からも明らかである。

(4)本論文「第4章 ディルタイの自己形成論の展開Ⅱ̶̶̶他者と自己形成」の

「第4節 シェークスピアとルソーの詩的想像力」[81ff.]参照。

(5)例えば,J. ハーバマスが指摘する市民的公共性もその延長線上で理解する ことが可能である。ハーバマス[1962=19942: 46]は「市民的公共性は,さ し当り,公衆として集合した私人たちの生活圏として捉えられる。これら の私人(民間人)たちは,当局によって規制されてきた公共性を,まもなく 公権力そのものに対抗して自己のものとして主張する」と述べているよう に,市民的公共性は公権力に対して「自己のもの」として主張することに よって確保されるものであり,その点において社会的合意の形成は自己を 基点としてることをうかがうことができる。

(6)本論文「第 4章 ディルタイの自己形成論の展開Ⅱ̶̶̶他者と自己形成」

[74ff.]参照。

(7)ここで気づかされるのが,ディルタイのみていた世界が多分に進化論的 な世界であるという点である。ディルタイは自己形成と文化の形成をパラ レルな関係でみようとしていたが,このことは,例えば,R. ドーキンス

[19892=2006]が,生物が「自己複製子」の保存に資するものであり,文化

にも生物と同様の自己複製子としての「ミーム」が存在しうると指摘するこ ととの親和性を指摘することで明らかになるだろう。

(8)シュプランガー[1922=1973: 22ff.]は,ディルタイの示す心的生の構造に