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第 8 章 ディルタイの自己形成論の地平Ⅲ̶̶̶自然・歴史・生 147

第 3 節 卵割される自己と社会

うなものではないということと,理性ではなく諸衝動と諸欲求から社会との関 係が構想されるということである。とはいえ,このことは,デカルト的な自己概 念を排除しているとはいえても,テンニースの図式でいうところのゲゼルシャ フトからゲマインシャフトへの回帰とも受け取られかねないものである。ディ ルタイが生の哲学の生成プロセスとしてみていた1770年から 1800年までの文 学的・哲学的運動は,ドイツ精神の昂揚を表現したとみることができる。実際,

ノール[1970=1997: 212ff.]は,その時代を「ドイツ運動」と名づけ,生の哲学

が後退しているとディルタイがみていた1800年以降も描いている。そこで示さ れるドイツ運動の第 4段階(1860 年代)では,詳細は示されていないものの,

ディルタイらをあげて,彼らが歴史的生と国民的生を結び付けようとしていた と指摘している。すでに述べたように

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,ディルタイは,ラザルスらが打ち立てた 民族心理学と非常に近い位置にいた。そのことをもってすると,ノールの指摘 には妥当性があると考えられ,それゆえに,ディルタイもまた,ゲマインシャフ ト的な社会観を抜け出ていなかったと断じられてしまう可能性はある。

しかし,ディルタイが生をどのように社会や国家と結び付けていたのかを確 認しなければ,このことに対して答えることはできないだろう。それゆえ,この 点について次節で検討していくこととする。

にしたがって,・ 価・

値を産出し・ 目・

的を実現する」[VII 153]ものであるから,こ れが動因となって精神的世界が表出されれば,その都度の個別性があるにせよ,

何らかの価値が産出され,何らかの目的が志向されているかぎり,そこには何ら かの一貫性があると理解されるからである。

ただ,この場合,生の統一体や精神的世界は実在しているのではなく,「体験 と生の客観化を通じての了解によって,精神的世界がわれわれに現れてくる」

[VII 152]と述べるように,体験・表現・了解の連関を通じて・

現・ れ・

て・ く・

ることに 注意が必要である。確かに客観的精神はわれわれの眼前に現われ,実在してい るものであるが,そのことはただちに,その前提となる生の統一体や精神的世界 の実在の確証を意味するのではなく,客観的精神を通じて生の統一体や精神的 世界へと接続する道筋が確保されたことを意味しているにすぎない。すなわち,

自己はこうした精神的世界のなかにあって,その現われとしての客観的精神に 囲まれているものの,そのことに気づきうるのは,了解というプロセスを経たと きにのみであるということである。

これは,ディルタイの生の哲学の立場でもあったといえる。ディルタイは,

ヘーゲルの生の概念を論じる文脈において「多様なものは現存するが,しかしそ の多様なものは,ある全体のなかで諸部分の総体としてこうした結合のなかに のみ存在し,なお了解されうるという点に生の性格が存している」[IV 138]と 述べている。ディルタイがヘーゲルの客観的精神を斥けたと先に述べたが,こ こでディルタイはこの時期までのヘーゲル̶̶̶1800年までのヘーゲル,すなわ ち,フランクフルト期までのヘーゲル̶̶̶を評価している。ディルタイからす ると,1800年以前のヘーゲルにおいて生の全体性が示されていたにもかかわら ず,それ以降のヘーゲルはそこから離脱していたからである。ディルタイはこ うした 1800年までのヘーゲルの生の哲学,とりわけ生の全体性を引き受けて,

生は確かに多様に現れるものでありながらも,それは現われにすぎないがゆえ に,全体のなかで了解される以外にないと考えていたのである。

ディルタイは,こうした生の全体性について2つの視点で言及していた。1 は,レッシングに見出した「不断の発展(stetige Entwicklung」である。ディル タイは「われわれは未来に対して滅ぶのではないという予感,われわれの前に生 存していた人々は確かにこの地上の現実性からは離れたが,あらゆる現実性か

ら離れたわけではないという予感,そしてどんな神秘的な方法においてでも歴 史の歩みはやはり彼らにとっても生じてくるという予感,すなわちこの信仰に よってはじめてわれわれが現にそうしているように人類について語ることが許 される」[XXVI 107]とロッツェの言葉を引用しているが,個々人は確かに生 まれ死ぬという生理的な限界を越えることはできないものの,その限界を「心

(Seele)」は越え,そして引き継がれていくという点において「不断の発展」を

なすものとして受け取られていたことを看取できる。

そして,もう 1つはこうした「不断の発展」の前提になっているレッシング の「輪廻説(Seelenwanderungslehre」であり,ヘーゲルの思想に見出した生の 円環性である。ディルタイはヘーゲルの言葉を引用しつつ以下のように述べる。

未発展の統一から形成(Bildung)を通じて分離されたものの統一までの 個体の道筋を示すために,ヘーゲルはこの断片(引用者註:「キリスト教 の精神とその運命」)において発展の概念を使用している。「信仰の完成,

神性̶̶̶そこから人間が生まれてきた̶̶̶への回帰が人間の発展の円環 を閉じるのである。」さらにヘーゲルは発展が生の特徴であると示してい る。[IV 147f.

1つ目の視点としての発展と表裏一体になっていることがヘーゲルの言葉か らも裏付けられているが,それだけではなく,発展によって統一・分離を繰り 返しつつ,生の運動が円環をなしていることが示されている。ヘーゲルはこう した円環をなす生の運動が信仰によって閉じること̶̶̶運動そのものとして受 け取ることを拒否していることと同義である̶̶̶を指摘しているが,ディルタ イの立場からすれば,生の運動が何ものかに回収されることは否定されるため,

むしろ,ここで注目すべきは,生の発展が円環性を有していること,すなわち,

生は不断に,そして円環的に発展している全体であるということにほかならな いことである。

さて,ここまで客観的精神とそれを生み出す精神的世界との関係をみてきた が,このことは,先に指摘した,ディルタイが近代的な自己の在り方を批判した 文脈で現れていた,諸衝動と諸欲求から自らの思想を組み立てようとしている ことにも通じている。

ディルタイは,「自己と客観は意識の内部で区分され,いわば卵割(Furchung されるが,ほからならぬこの同じ営みによって,自己が限界づけられると同時 に,像が外部のものとして客観化される。実際,われわれにとって自己が存在す るのは,自己が外界から区別される場合だけである」[V 124]と述べていた。

つまり,彼にとって自己と客観が生み出される地点は,体験を通じた意識の事実 においてであった。それゆえ,自己は社会に前提されるものではない。しかし,

逆に社会があり,それを構成する自己が析出されるものでもない。客観的精神 のうちにわれわれが要素として組み込まれているのではなく,客観的精神を了 解する営みを通じて精神そのものへと遡及できると同時に,われわれ自身が立 ち現れるのである。このことは,自己と客観が弁証法的止揚によって精神的世 界へと結びつけられるということではない。シェークスピアのような主観的想 像力でもなければ,ルソーのような客観的想像力でもない,ゲーテの詩的想像力 において示されていた自己のありよう,すなわち,「彼(ゲーテ)は異質なもの を自分自身の生と関係させることで了解し,そうして了解されたことは,彼自身 の発展の一契機となった」[XXVI 154]とディルタイが述べるように,主観的 なものと客観的なものとの均衡のうえに自己自身を発展させてきたゲーテのあ りように重ね合わせて理解することができるだろう。

ここまで考えてくると,生の全体性にみられる不断の発展と円環性という特 性が,客観的精神の了解を通じた精神的な世界と自己の開示と接続してること が明らかとなる。生は運動であり,そのうちから自己が見出されてくるが,しか しながら,次の瞬間にはまた,生の運動のなかに引き戻されていく。とはいえ,

その生は自己を離れず,自己とともにあり・ 続・

け・

るものである。だからこそ,われ われは自己と客観がその都度の意識において卵割されるにすぎないといえるの である。