第 6 章 日系ペルー人児童が表出するアイデンティティの多様性
6.4.1. 言語的アイデンティティの捉え方への示唆
1)第一回の指導のブレインストーミング
エピソード1 <スペイン語はできるから、勉強しなくてもいいかなあと思って>
ひかりは「教育」のところで、「私は、日本語と英語と韓国語とスペイン語を学びます。」
と書いた。その順番に何か意味があるのかと聞くと、「日本語は今一番大事なことばだよ。
いい成績のためだし、進学にも必要」と答えた。続いて、「英語も受験のために大事だけ ど、韓国語はね、K ポップが大好きだから、歌詞が理解できるように勉強したい、そして いつか韓国へ行きたいね」と答えた。「じゃあ、スペイン語はあまり大事じゃないの」と 聞いたら、ひかりは「いや、スペイン語はできるから、勉強しなくてもいいかなあと思っ
て、ただ今日はスペイン語で書くなら、私はあまり書けないから、ちょっと勉強しておい たほうがいいと気づいて、書いたわけ」と答えた。
2011年11月05日のフィールドノーツより
このように、ひかりは様々な言語に興味を持っていることわかる。そして、自分にとっ て言語の実用性を基に、学ぶ順番を決めている。現時点では、日本語と英語は受験と進学 に必要なため勉強すると言い、韓国語は趣味として学びたいという気持ちを表す。そして スペイン語に言及したのは最後だった理由について、「スペイン語はできるから、学ばな くてもいいかなあと思って」とひかりは述べる。ひかりが持っている「スペイン語ができ る」という自信は、スペイン語はひかりのアイデンティティの一部であることを示唆する。
そして、ひかりは、そのことを意識していることがわかる。
しかし、自分のスペイン語能力に自信を持っているひかりにとって、「私の将来」とい う文章を作成することは、自分がスペイン語であまり書けないという気づきのきっかけと なったことがわかる。「ただ今日はスペイン語で書くなら、私はあまり書けないから、ち ょっと勉強しておいたほうがいいと気づいて、書いたわけ」とひかりは説明し、学びたい 気持ちを表す。ただし、「ちょっと」という言葉は、ひかりはスペイン語で書くとはどの ようなことなのか、難しいか否かということについてあまり知らないことを示唆する。「自 分はスペイン語ができる」と考えているひかりは、おそらく、「スペイン語で書くことは 簡単ですぐできること」と考えているのだろう。
しかし、第5章で述べたように、ひかりにとってスペイン語で書くことはそれほど簡単 ではなかった。文字の書き方をはじめ、語彙の綴りなどに戸惑うことが多かったひかりは 次の気づきがあった。
エピソード2 <ペルー人であっても、スペイン語を学ばないといけない>
ひかりはスペイン語で「Educacion(教育)」、「Trabajo (仕事)」、「Familia(家 庭)、と「Vida Privada (私生活)」を書くのに、10分ほどかかった。その理由は、ひ
かりはFamilia以外のことばを知らなかったことと、書き方が分からなかったためである。
(中略)日本語で自分のアイディアをなんとなくまとめてから、スペイン語で書いてみた が、その文章をどのように訳せばいいかわからなかった(もしくは書こうとする努力をあ まりしなかった)ため、支援者がその文章を自分のノートで書いて、書き写してもいいと 提案した。すると、ひかりは恥ずかしそうに、赤くなって、「いや、私が書いた文章では ないので、書きたくない」と答え、英語で書きたいと言った。(中略)支援が終わった時、
ひかりは「先生、私は何でスペイン語で書けないの。ペルー人なのに」と聞いた。支援者 は、「だって、言語は生まれつきの能力ではなくて、学ぶ必要性があるの。だから、生ま れたばかりの赤ちゃんだって、話せないよ」と答えた。すると、ひかりは「そうか、ペル ー人であっても、スペイン語を学ばないといけないか」と疑うような表情で言った。「そ うよ。私もロシア人だけど、ロシア語を一所懸命に勉強したよ。そしてロシア語こそが一 番難しい科目だったよ」と答えた。
2011年11月05日のフィールドノーツより
このエピソードでは、ひかりはこれまでにスペイン語で書く経験が非常に少なかったこ とがわかる。四つのことばを書くのに10分ほどかかったことからも、ひかりはスペイン 語で書くことに慣れていないことがわかる。そして、第5章でも述べたように、ひかりの 文字は形や書き順が間違っているところが多かった。さらに、ひかりは自分の日本語文章 をスペイン語で訳すことができなかった。
このような経験をしたひかりは自分のスペイン語能力がそれほど高くないことに気づく。
そして自分のスペイン語能力が高くない理由が分からないひかりは、筆者に向かって「な んで」という問いを投げかける。ひかりは、自分がペルー人であるということでスペイン 語能力は高いはずという考えを持ち、そうでない現実に直面して戸惑いを覚える。支援者 は自分の母語でも学ぶ必要があるという自分の言語能力観に触れ、民族と言語能力の関係 性はそれほど明らかではないことを述べる。ひかりはまだそれを信じられない様子であっ
たが、「ペルー人であっても、スペイン語を学ばないといけない」という気づきとスペイ ン語で書く経験は、ひかりの言語能力観を揺さぶる可能性があると考えられる。
上記の二つのエピソードから、ひかりはスペイン語が自分の一部であることを信じてい ることがわかる。スペイン語能力と自分の民族を結びつけ、「ペルー人=高いスペイン語 能力」という考え方を持っている。しかし、実際にスペイン語で書く課題に出会い、自分 のスペイン語能力はそれほど高くないことを実感し、ややショックを受けていることがわ かる。その気持ちは第二回の指導の時でも明らかであった。ひかりは完成した文章ではス ペイン語で書くことを拒否し、日本語と英語だけで書くことを主張した。以下がそのエピ ソードである。
2)第二回の文章作成
エピソード3 <書けるようになったら、書く。今は日本語と英語でいい>
ひかりが持ってきた文章では、日本語と英語の文章は載っていたが、スペイン語は全く なかった。前回何とか書けた部分のスペイン語訳も文章から消えていた。「スペイン語は どうなった」と聞くと、ひかりは「書きたくない」といった。支援者はスペイン語で書き たくない理由について聞くと、「できないから、書かない。書けるようになったら、書く。
今は日本語と英語でいい」と答えた。「でも、英語の文章って私も手伝ったから、スペイ ン語の文章も手伝うよ。書きましょうよ」と言っても、ひかりは断る。「英語で書けなく ても当たり前だから、先生と一緒に書いても構わない。でもスペイン語で一人で書けるよ うになったら書く。先生の手伝いは要らない」とひかりは言った。
2011年12月17日のフィールドノーツより
このエピソードでは、ひかりはスペイン語で書くことを嫌がることがわかる。第一回の 指導中に書けたスペイン語も文章から消えたことには筆者も驚いた様子が窺える。そして ひかりはスペイン語で書かないと断定的に述べ、「書けるようになったら書く」という漠然 とした理由づけをしている。筆者にとって分からないことは、ひかりが英語でも一人で書 けないのに英語で書くことを嫌がらないが、スペイン語で書くことを嫌がることである。
ひかりは、その理由を「英語で書けなくても当たり前だから、先生と一緒に書いても構わ
ない」と説明する。ここでひかりが言おうとしていることは、「スペイン語で一人で書けな いことは当たり前ではない、ペルー人の私は一人でスペイン語で書くことができるはず」
ということであると推測できる。
ここではひかりが持っている、スペイン語と英語に対する認識の差が明らかとなる。英 語は外国語であり、最近学び始めたものである。ひかりの今までの経験は英語とは全く関 係がなかった。ひかりは英語に対する何の親近感や所有権も持たず、英語を「英語ができ る支援者」のものとして捉えていると考えられる。そのため、ひかりは支援者と一緒に英 語で書くことに違和感がないといえる。
しかし、スペイン語はひかりが生まれてから接してきた言語であり、親とコミュニケー ションを取る言語、そして様々な感情や思いを表わす言語である。ひかりはスペイン語を
「ペルー人のもの」として捉え、自分がペルー人であるという理由で、スペイン語に対す る親近感と所有権を持っているといえる。そのため、「ペルー人ではない」筆者とその所有 権を分け合いたくなく、一緒にスペイン語で書くことに違和感を持つと考えられる。
上記のことを踏まえ、ひかりは自分の言語的アイデンティティではスペイン語が果たす 役割が大きいことをある程度意識していることがわかる。ひかりはスペイン語が流暢では ないが、スペイン語に対する感情は非常に強いことがわかる。今回の支援をきっかけに、
ひかりは戸惑い、混乱、違和感を覚え、それらをいかに扱えばいいかわからず、「スペイン 語で書かない」と、問題から離れるという対策を選ぶ。つまり、自分の感情に向き合うこ とを避ける方法を選んだといえる。しかし、それは解決方法にならないため、時間が経て ば、ひかりは自分が覚えた違和感について考えはじめる。そして自分とスペイン語の関係 性を捉えなおし、スペイン語に対するその強い感情をいかにスペイン語学習につながるの かを考えていくと筆者は考えている。
ひかりが日本語に対しても同様の混乱と戸惑いを感じていることを明らかにするエピソ ードが第一回の指導の時にあった。
エピソード4 <日本語が分からないと恥ずかしいし、なんでわからないのかと自分でも怒 るからね>
ひかりは自分の考えを日本語で書き始めると、とても小さくて、ほとんど見えない文字 で書いた。「どうして文字はそんなに小さいの。私はメガネをかけていても、読めないよ」
と聞くと、ひかりは「あ、小さい文字で書くのに慣れてるの。学校で日本語に自信がない