Creswell(2007)が述べているように、質的研究では五つの主なアプローチ、つまり自 己史(biography)、現象記(phenomenology)、グラウンデッドセオリー、エスノグラフ ィーとケース・スタディが多く使われている。研究目的は研究者による研究方法の選択を 示唆するという。自己史を選ぶ研究者は個人の人生に焦点を当てることを目的とする。現 象記を援用する研究者は、ある概念及び現象を理解し、説明することを目指す。グラウン デッドセオリーに基づく研究は理論構築を目指す。エスノグラフィーを選ぶ研究者は特異 の文化を持つある集団及びコミュニティに関する知識や理解を得ることを目的とする。そ してケース・スタディを行う研究はある限定されている文脈における一つのケース(及び 一人の個人のケース)に関する理解や知識を深めることを目指す。
本研究はエスノグラフィーとケース・スタディを融合した、エスノグラフィー論に基づ く質的ケース・スタディ(ethnographic case study)である。本研究がエスノグラフィー である理由は、本研究で取り上げる学習支援を社会文化的過程として捉え、その過程を通 して明らかとなる人間関係、価値観、ビリーフなどを明らかにすることを目指すためであ る。そしてそれらを明らかにするために、観察やエピソード記述を援用し、つまり数字で 表す統計的データではなく、ことばを使用する記述的データを使用する。この点も、エス ノグラフィー的アプローチを証明するといえる。さらに本研究がケース・スタディである 理由は、ある地域教室に通う四名の女の子に焦点を当て、その女子生徒が調査時点で持っ ている言語能力及びアイデンティティについて詳しく述べることを目指すためである。本 研究は、一般化や普遍性を目的とせず、今の時点(調査実施当時)でこの教育現場(地域 教室)に通うこの四名はどのような言語能力を持ち、どのようなアイデンティティを形成 しているのかを明らかにすることを目指す。この点もケース・スタディという研究方法の 大きな特徴であるといえる。
本章では、エスノグラフィー理論に基づくケース・スタディのあり方についてさらに詳 しく説明し、研究現場、研究者立ち位置及び協力者について述べる。次にデータ収集方法 やデータ分析について説明し、本研究の限界について論じる。
4.1.研究課題
本研究の出発点は、日系ペルー人児童はバイリンガルとしての基礎能力を持っているの
かという疑問である。先行研究をまとめた第4章で指摘したように、日系ペルー人が持っ ている言語能力をバイリンガルとしての言語能力と捉える研究は非常に稀であり、「母語能 力が衰退している」、「日本語の読み書き能力が不十分である」といったある程度固定化さ れた結論が繰り返されている。そこで、筆者はBHLEの理論的枠組みを援用し、日系ペル ー人児童が発達途上にあるバイリンガルであるという観点からその言語能力を研究するこ とを本研究の目的として定めた。そしてエスノグラフィー論に基づき、仮説を立てず、言 語能力の特徴に関する知識及び理解を得る、または深めることを目指した。
言語能力の特徴に関する知識や理解を得るために、日系ペルー人児童に寄り添って質的 研究が必要であると判断し、地域教室にボランティアとして入り、継続的に日系ペルー人 児童を対象者とする学習支援を行いはじめた。学習支援をはじめてから9ヶ月ほどが経っ た時点で、子どもによる言語能力の発達は子どもが形成しているアイデンティティと密接 な関わりがあるのではないかと気づいた。そこで、日系ペルー人児童はどのような民族的 アイデンティティと社会的アイデンティティを持っているのかという新たな疑問が生まれ た。このように学習支援を行いながら、筆者は日系ペルー人児童が持っている言語能力及 びアイデンティティを研究し続けていた。
本研究は質的研究であるため、言語能力やアイデンティティの特徴やその形成の過程を 説明するために、筆者による様々な記述を提示する。それらの記述を通して子どもによる 物事の捉え方や感じ方を把握することを試みながら、以下の研究課題への答えを探る。
1)日系ペルー人児童はバイリンガルの基礎能力を持っているのか。
2)日系ペルー人児童はどのようなアイデンティティを構築しているのか。自分の民族的 アイデンティティと社会的アイデンティティをどのように捉えているのか。自分がバイリ ンガルであることを意識しているのか、つまりバイリンガルとしてのアイデンティティを 持っているのか。
上記の研究課題に答えることは、日系ペルー人児童の教育に携わる学校教員、日本語教 師及び地域教室のボランティアにとって有意義であると筆者は考えている。日系ペルー人 児童を発達途上にあるバイリンガルと捉えることによって、その言語能力の今まで見てこ なかった側面や特徴を明らかにすることができる。そして、日系ペルー人児童は自分自身 が考えている民族的アイデンティティや社会的アイデンティティの捉え方を追究すること によって、そのアイデンティティの多様性に気づき、日系ペルー人児童は皆「日系南米人」
及び「ペルー人」というアイデンティティを持つという子どもを集団として括ってしまう
考え方を揺さぶることができる。
無論、子どもの教育に携わるすべての教育者は子どもの言語能力やアイデンティティに 関する新たな気づきは、教育のあり方に様々な疑問を投げかけ、日系ペルー人児童が必要 としている言語教育や学習支援に関する議論を活発化でき、新たな実践研究にもつながる と考えられる。さらに、バイリンガルとしての基礎能力は母語教育や日本語教育に同様に 重要であるため、母語教育に携わる教師やボランティア及び保護者と日本語教育に携わる 日本語教師及び国語教師(担任教員)の共通意識の形成につながり、連携を可能とすると 期待できることを指摘すべきである。
4.2.調査フィールド
本研究で研究現場として取り上げる A 地域教室は日系人の子どもの多くが通っており
(以下、A教室と略す)、特定非営利活動法人によって運営されている。A教室による活動 理念は以下のようにまとめられている。
わたしたちは広く一般市民を対象として我国に滞在するペルー及びラテンアメリカ 出身者又はその子どもが日常生活を営むうえで彼らのアイデンティティを守りつつ 我国の秩序、ルールに従って日本人と平穏に共存することができるようにし、国籍 を問わない真に友好的で豊かな共生社会の実現に寄与することを目的として活動を
行っています。 (A教室のホームページより)
A教室の主な活動は、学進学に関する情報の母語による提供や相談、学業成績に関する 相談、エスニックフェスティバルの企画や開催、継承語教育に関する相談及び支援、区役 所情報の母語による説明、言語能力テストの実施、分析結果に基づくアドバイスの実施な ど多岐にわたる。
A教室が運営している教室の一つは中学生を対象者とする英語数学教室である。この教 室の大きな特徴は学習支援が日本人とペルー人のボランティアによって行われていること である。M市民フォーラムの教室を借り、日系ペルー人児童を対象者とした英語と算数の 学習支援を行っている。この教室の運営者は日系ペルー人児童が日常生活で日本語に困ら ないことを前提にしているため、教室では日本語の学習支援を行わないという。ただし、
学習に必要な日本語、つまり算数やそれ以外の教科科目(たとえば、社会)などに必要な
語彙を教えることがあり、さらに算数問題に頻繁に使われている文型や設問の仕方などを 教えることになっている。英語支援の場合、文法用語や受験テストの指示に使われる語彙 や文型を説明してもいいという傾向がある。
英語数学教室は学習支援 のガイドライン、支援言語や教材などは特に決めていない。子 どもは、学校で分からなかったことや一人でできない宿題を持ち込み、それをボランティ アと一緒に整理して学ぶという学習支援の流れが期待される。
学習支援は週1回3時間行われており、前半の90分は英語学習であり、後半は算数や 社会などの時間である。本研究で取り上げる中学生を対象とする英語支援は、学ぶ言語が 英語であるものの、学校で英語の授業についていくために必要な日本語の向上も大切にさ れる。中学生は、受験で英語が必要であるため、普段の授業で行われる日本語による英文 法の説明やテストの指示が理解できるようになりたいと願っている。保護者と子どもは、
学校の成績やテストの点数が上がることを期待している。多くの保護者はA教室の教室を 安い塾だと考えているとA教室の運営者は述べる。また子どもは週1回しか会えない友達 とおしゃべりをするところとともに、分からないことを教えてもらうところとして捉えて いる。子どもは、学校で理解できなかったことや学校以外で分からなかったことを持ち込 むことが多い。子どもたちが考える充実した学校生活とは、学校で分からないことをよく 理解し、教師の説明についていき、テストに合格することである。日系ペルー人生徒は、
日本人の子どもと同様に、受験に合格し、夜間高校ではなく、普通の高校への進学を目指 している。高校進学ができれば、大学への進学も可能になり、将来日本人と同様に十全に 社会参加ができるようになると考える日系ペルー人児童が多い。このように、A教室に通 っている子ども達にとって、今やっていることや歩んでいる道は正しいという自信を持つ ことが強い動機づけであることが窺われる。
このように筆者はA教室が運営している地域教室を研究現場として選んだ理由は以下の ようにまとめられる。
1)日系ペルー人児童のために開かれた教室であるため、日系ペルー人児童を集め彼らの 教育的ニーズを意識・把握しながら、支援を行う教室であること、
2)運営者は日本人だけでなく、日系ペルー人もいるため、寛容的で、入りやすい教室で あること、
3)運営者は筆者の研究の意味をある程度理解し、協力的であったこと、
4)教室が行う支援は日本語学習だけに集中せず、英語、算数や社会などの内容重視の学