第 6 章 日系ペルー人児童が表出するアイデンティティの多様性
6.3.2. 社会的アイデンティティの捉え方への示唆
このエピソードでは、亜美が難しい教科科目に触れ、算数ができないということが、彼 女の日本語能力の評価に使われていることを述べる。亜美が算数問題を解けない原因は、
不十分な日本語能力にあると教員が考えていることが窺える。しかし、絵を書くことが大 好きな亜美、つまり理系より芸術系のことに興味を持っている亜美は、その理由は別であ るという考えを持っている。亜美は日本語があまり上手ではないという周りの人の思い込 みを肯定しないように、亜美は取り出し日本語授業を受けないことにした。その授業の内 容が本当に「簡単で退屈」だったのかは不明であるが、亜美の考えでは、その授業を受け ること自体、彼女の日本語能力の低い評価につながるということだった。
第5章でも述べたように、筆者が観察できた亜美の日本語能力は特に低いものではなか ったため、亜美の考え方に同感する。筆者が見た亜美は、様々なことば、音楽や絵を書く ことに興味があり、つまり人文系のことにより興味を持つ女の子であった。たとえ、スペ イン語でも数学は難しかった可能性は高いと考えられる。興味深いのは、亜美が自分を評 価する大人の考えを分析する傾向であり、それに対抗する姿が徐々に現れるということで ある。そして、自分の日本語能力が、周りの人が考えているより高いということを示した いという亜美の気持ちは、その方法の模索・追求につながる。そしてエピソード4で述べ たように、亜美が自分の様々な能力を見せる方法として、漫画の国内コンクールの参加(優 勝までは亜美は想像していない)を考えた亜美の姿は筆者にとって感動的だった。
このように亜美が持っている言語的アイデンティティの主な要素は、スペイン語をはじ め、他のヨーロッパ言語に対する親近感や流暢性の希望であると考えられる。亜美は、ス ペイン語を継続的に学びたいという気持ち、そして他のヨーロッパ言語が上手になりたい という気持ちは、自分の「ヨーロッパ言語話者」というアイデンティティの継承の希望に 関係するといえる。さらに亜美は、日本語の学習も続けたいという気持ちを明らかにし、
自分の日本語能力の高い評価を望むことがわかる。今までの苦労と勉強を台無しにしたく ない気持ちと日本語は将来の仕事に日本語が役立つという気づきは、現時点で亜美が持っ ている言語的アイデンティティに影響を与えるといえる。
1) 第一回の指導のブレインストーミング
エピソード6 <家族と住みたい。家族と、いとこの家族が近いところに住みたい>
支援者は将来の家庭像について聞くと、亜美は「ずっと家族の近くに住みたいの。家族 と、いとこの家族が近いところに住みたい。いとこはドイツに住んでいるけど」と答えた。
「ドイツに引っ越しても平気?」と私は聞くと、「平気よ」と亜美は頷いた。「私は色んな 国に旅行して、住んでみたいと思うから。そして日本の家族は母と兄弟しかいないからね。
いとこが近くにいると、楽しい」と亜美は説明した。
2011年6月11日のフィールドノーツより
このエピソードから、亜美にとって一番大切なコミュニティは家族であることがわかる。
そして亜美は自分の核家族だけでなく、いとこを含む大きい家族が近くにいることが重要 であり、今遠く住んでいる家族と将来近くに住みたいと強く思っている。日本の家族は母 と兄弟二人しかいないため、皆でドイツへ行っても大丈夫な亜美は、「家族と一緒なら楽し い」という考え方を持っている。このエピソードの続きを見てみよう。
「でも、お母さんは引っ越ししても大丈夫かなあ。日本は仕事があるし、家もあるでしょ。
そして君たちも学校とか慣れているじゃない?」と支援者が聞くと、亜美は「いや、お母 さんもドイツへ行きたいと言っている。ドイツでも仕事が見つかるし、支えてくれる家族 もいるし、あと、お母さんのお祖父ちゃんがドイツ人だったみたいで、いとこ以外にもた くさんの家族がいるらしいよ」と答えた。「なるほど」と支援者が言うと、「そう、だから ドイツ(の生活)に慣れるのはそんなに難しくないかも。」と亜美は言った。
2011年6月11日のフィールドノーツより
このエピソードでは、亜美が持っているドイツへの親近感が明らかとなる。自分はドイ ツへ行ったことがないが、いとこと家族、そしてドイツ人のお祖父さんの家族がたくさん おり、その家族が支えてくれると亜美は考えていることがわかる。そして、ドイツに慣れ るのは難しくないやという亜美の指摘から、亜美は自分が家族を通してドイツの社会にあ る程度所属し、適応や統合に困らないだろうという考え方をしていることが窺える。興味 深いのは、亜美はことばの問題に触れないことである。前述したように、亜美は「ヨーロ
ッパ言語話者」というアイデンティティを持っており、ヨーロッパ言語であるドイツ語の 学びは順調に進むだろうという自信があるのかもしれない。
このように、亜美は、異なる地域と国に住んでいる自分の家族への強い帰属感を持ち、
その帰属感を通して、行ったことがない国とその社会への消極的(有名無実)所属を感じ、
将来それを現実的所属に変容することを望んでいることがわかる。
では、自分が所属しているコミュニティとはなにかという亜美の考え方について述べて みよう。それは第二回の指導の時ある程度明らかとなった。
2)第二回の指導の文章作成
エピソード7 <お母さんしかいないから、早くお金を稼がないと>
将来の仕事の話になると、亜美はまじめになる。「私は絵に関する仕事をしたいから、専 門学校に入る。専門学校は大学より安いし、時間が短いでしょ。でもそれがだめだったら、
幼稚園の先生になる。資格が獲得しやすいと聞いたからね」と自分の文章を見せながら、
亜美は言った。「仕事は勉強より大事なの?早く働きたいの?」と聞くと、「そう、お母さ んしかいないから、早くお金を稼がないと」と亜美は答えた。
2011年6月18日のフィールドノーツより
このエピソードでは、亜美が自分の家族が経済的に弱いことを意識していることがわか る。自分の選択肢には、「大学入学」というものがなく、好きな仕事が出来るように専門学 校へ行くことが一番良いと考えている亜美の姿が明らかである。しかし、それができない 可能性があるため、もう一つの計画は、「資格が獲得しやすい」幼稚園の先生になるための 勉強であると言う。亜美の目的は、自己実現や夢の仕事を見つけるという抽象的なもので はなく、「早くお金を稼ぐ」ことである。そして一人しかいないお母さんの生活を少しでも 楽にしてあげたいという思いを持っている様子が窺える。
このように、亜美はまだ自分の感情を言語化できないかもしれないが、自分が少数派に 属していることをある程度意識していることが窺える。「母しかいない」という自分の母子 家庭(おそらく、亜美はこの言葉が分からない)の経済的な立ち位置の意識から、「早くお 金を稼ぎたい」という亜美の希望が生まれたといえる。
しかし、筆者はこの敏感で傷つきやすいテーマについて話し続けることなく、日本国内 の別のコミュニティについて聞いた。
エピソード8 <日系コミュニティ?聞いたことがない>
支援者が「日系社会のためにボランティア活動とかやりたくないの」と聞くと、「日系社 会?聞いたことがないよ」と亜美は答えた。「ここみたいなところで、ペルー人やアルゼン チン人、ブラジル人の子どもが来て勉強するところで何かを教える気持ちはある?お金は 稼げないけどね」と支援者は説明しようとした。すると、亜美は「教えたい、私みたいに 算数が困る人、日本語が難しい人を手伝いたい」と答えた。
2011年6月18日のフィールドノーツより
このエピソードから、亜美はテレサと同様に、日系ということばを知らないことがわか る。そして自分が日本における日系社会に属しているという意識もない。しかし、自分の ように困っている人たちを手伝いたいという気持ちが強く、ボランティア活動にも興味が あると亜美は言う。このように、亜美は自分が「日本で困る人たち」にある程度所属して いることを意識していることもわかる。
指導中、亜美はテレサと同様に自分が日本社会の価値観を共有することや、日本社会へ の所属を明らかにする発言はしなかった。次に、亜美は自分の民族的アイデンティティを 通して、日本社会への帰属感を持つのかを見てみよう。