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第 3 章 先行研究における日系ペルー人児童

3.1.2. 学校における教育

在日日系ペルー人コミュニティを描写している研究は、日系ペルー人児童の過半数が日 本の公立学校に通っていると言う(Moorehead, 2010 ; Takenaka, 2000, 2004)。親は子ど もが日本の学校を経て日本社会に統合し、親より高い日本語能力や日本文化能力を身につ け、いい仕事に就くことを望み、子どもを日本の公立学校に通わせる。日系ペルー人児童 は在籍学級にて国語や算数などを日本人の子どもと同じように学ぶ。日系ペルー人が集住 している地域では、一つのクラスでは二人以上の日系ペルー人がいることが珍しくないが、

非集住地域における学校では、日系ペルー人児童が唯一の外国籍児童であることもあり得 る。

Kanno(2008)や Moorehead(2010)が指摘しているように、担任教員の多くは、外

国籍児童生徒が日本人生徒と同様に日本社会の中で社会化していき、しつけや教育を受け るため、特別扱いは特に必要でないと考えていると言う。そのため、在籍学級で行われて いる授業では、外国籍児童生徒向けに作られた教材はあまり見られない。また担任教員が 課題の説明などを行う時、外国籍児童生徒が分かるように、外国籍児童生徒の母語を活用

することや様々な表現を使うというような工夫をしなければならないことが指摘されてい る(Kanno, 2008)。

しかし、日系ペルー人児童は日本語で口頭コミュニケーションが取れる子どもが圧倒的 に多いため、教科学習に必要な日本語が分からないことや学習内容の理解が難しい場合が あるということが見えなくなるとKanno(2008, p. 139)は授業観察の経験を振り返りな がら述べている。加えて、日系ブラジル人や日系ペルー人児童の場合、日本人の子どもと あまり変わらない外見(ethnicity)を持つ子どもが多いので、このような子どもが持つ特 別な教育ニーズが教員にとってさらに把握しにくくなると Kanno は指摘する。また、日 本の公立学校のクラス人数や教員の忙しさを考えると、担任教員は外国籍児童生徒が必要 な支援について考え、計画し、実施する時間的・精神的余裕を持っていないことも考えら れる。

Moorehead(2010)の研究では、このように時間や精神面で縛られている教師が行う授

業に関するエピソードがある。Mooreheadが述べている在籍学級の授業では、一人の日系 ペルー人児童は、担任教員の説明を明らかに理解できず、窓の外をずっと見ている。担任 教員が板書を行う時、子どもはおとなしく書かれたものを自分のノートに写していく。子 どもは担任教員の説明についていけないことは観察者である Moorehead にとっては明ら かである。授業の後、Mooreheadが行ったインタビューでは、担任教員もその子どもが今 日の説明や宿題の理解ができていないということは明らかであると認める。しかし、子ど もは何の問題も起こさずにおとなしく座っていたことと、二度同じ説明を行うと他の生徒 は学習機会が奪われ、一人の子どものために授業中学習できる内容が少なくなり、カリキ ュラムに定められた教育内容の学習が遅れていることに保護者が不満をいう可能性もある ので、特に対応しなかったと教員は説明している。また日系ペルー人児童向けのワークシ ートなどを作成したくても、特に訓練などを受けていないので、戸惑うという教員の嘆き も見られる。

このように教員の説明が全く分からないまま授業に出る外国籍児童生徒が少なくない

(齋藤、2011 ; 佐久間、2006 ; Kanno, 2008など)。何もわからないまま授業に出ても意 味がない、または学校へ行く意味がないと判断し、学校からドロップアウトする不登校・

不就学の子どもが増えているという現状も多くの研究では指摘される(佐久間、2006など)。 日系ペルー人児童の間では、何割がドロップアウトし、不登校・不就学になっているかと いう確実な数字が分かる統計資料はない。日系ペルー人や日系ブラジル人、いわゆる日系

南米人の子どもは、中学校が大きな壁となり、そのためドロップアウトしてしまう傾向が 見られると指摘する研究がある(オチャンテ、2008;関口、2005)。中学校を卒業しても 高校進学ができない理由として、教科学習に必要な日本語能力が育成されていないため成 績が不十分なこと、認知力の発達を支える母語能力が不十分な、いわゆるダブルリミテッ ドであること、保護者の受験知識が不足していること、保護者と学校の連携が不十分であ ることなどが挙げられる。

日系ペルー人を含む外国籍児童が抱える問題が認識されるにしたがい、多くの学校が子 どもの日本語能力や母語能力を伸ばすために様々な取組を始めている。その中では、JSL の子ども向けの教材開発、母語を活用した学習支援の試み、または日本語の取り出し授業 が挙げられる。

取り出し授業とは、在籍学級と離れ、別室で日本語の教員とマンツーマンで行われてい る日本語の授業のことである。日本語取り出し授業を行う意図は、在籍学級で分からなか った語彙や表現を習得し、授業についていけるために日本語能力を身につけていくという ことであると一般的に考えられている。外国籍児童生徒が漢字、文型などを練習し、在籍 学級でできなかった課題に取り組み、クラスメートの学習を追いかけ、同様のレベルに達 するという流れを想定する担任教員が少なくないだろう。つまり、日本語の取り出し授業 は補習授業のような役割を果たすといえる。しかし、実際に日系ペルー人児童が受けてい る日本語の取り出し授業はこのような想定された補習授業になっているのか。

外国籍児童に寄り添って研究を行った齋藤(2011)は、「グエンさん」というベトナム にルーツを持つ外国籍児童生徒のエピソードを挙げ、外国籍児童生徒が日本語の取り出し 授業で学びたくない場合があると指摘する。齋藤(2011:63)が記述するエピソードでは、

社会科の先生はグエンさんを日本語教室に行かせるが、グエンさんは日本語教室では全く 勉強しようとせず、結局1時間クラスでの出来事や友達のことについておしゃべりをする。

40人以上の日系ペルー人児童が通う白山小学校で研究を行ったMoorehead(2010)は取 り出し授業が行われているアミゴス学級 の様子を次のように述べる。

前田先生(アミゴス学級を担当する教員―筆者による追加説明)は主に基本読み書 き能力に集中し、子どもが必要とする学習言語能力を無視している。子どもは簡単 な文章作成のルール以外に文法指導を全く受けず、漢字ワークシートを完成させて いる。そのワークシートは、漢字の書き方や暗記に焦点を当てたものである。子ど

もがそのワークシートを完成させている間、前田先生は他のクラスで行う授業(国 語や算数)の準備をしている。(Moorehead, 2010, p. 84、筆者による翻訳)

また、Kanno(2008)がみどり小学校で日本語の取り出し授業を観察したところ、子ど もは主にカタカナとひらがなの練習という「つまらなくて自動的な活動(Kanno, 2008,

p.128)」を行っていたという。Mooreheadが観察した授業と同様に、子どもはワークシー

トに記入し、漢字カードなどを整理することが多い。Kannoが観察した取り出し授業では、

日本語指導に加え、算数指導も行われた。「篠原先生(日本語教室の担当先生、筆者の追加 説明)が説明するように、子どもは小学校三年生までに足し算、引き算ができず、九九を 暗記しないと大変困るので、取り出し授業でも九九などを教えることになっている」と Kanno(2008, p. 130)は述べる。

KannoやMooreheadが観察した授業は日系ペルー人児童が持つ学習言語能力の育成に

あまり貢献できないと考えられる。なぜなら、ワークシートの記入やカタカナの練習を通 して日本語による学ぶ力や考える力を育てることができないからである。取り出し授業は、

子どもと日本語教師が日本語でやり取りを行い、子どもが学びたいことについて考えてい くという過程こそが必要である。この過程を通して、日本語教師は子どもが何に興味を持 っているのか、どのようなことを学ぼうとするのか、どのようなことを学べばいいのかな どを徐々に理解することができる。そして子ども自身が、自分が学びたいことを確認しな がら、日本語の中で存在している意味や自分を表現する手段を発見することができる。こ のような意味のあるやり取りこそが、日本語による学ぶ力や考える力の育成につながると いえる。

さらに、Kanno(2008)も指摘しているように、自動的に記入できるワークシートやひ らがな練習は子どもが在籍学級で取り組む課題とは無関係である。在籍学級で学ばれてい る漢字や語彙をはじめ、概念やスキル、話題やプロジェクトは取り出し授業では全く言及 されず、学習の対象となっていないことが多い。したがって子どもが取り出し授業に出て も教科学習に付いていける日本語能力を獲得することができると考えにくい。おしゃべり やワークシート記入にとどまる取り出し授業は、補習授業どころか、暇つぶし、時間の無 駄遣いになってしまうといっても過言ではない。

外国籍児童生徒が取り出し授業で教科学習に関係ないことをやっている間、在籍学級で 学ぶ子どもは教科学習を続ける。このように、外国籍児童は、クラスメートを追いかけ、