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行為シェムの定式化

第 1 章 の引用・参考文献

3.6 行為シェムの定式化

最後に,ここまで整理した用語を用いて,改めて行為シェムについて定式化してみよ う.ここまで,行為シェムを,状況の知覚・活動・予期された結果の3要素からなるもの として取り扱ってきたが,そのいずれの要素が働く場面であっても,概念的枠組に対する 同化・調節・撹乱の組合せの問題に還元して議論することができる.例えば,行為シェム を,式x2 =−1を解く場合で考えれば,図2.1のようにまとめられる.この具体例を参考 にしながら,行為シェムの3要素を定式化していこう.

まず,図2.1の(i)は,状況の知覚の段階である.この例において「状況の知覚」とは,

問題状況である現在の状況を解決するという目的の下,「現在の状況を,2次方程式を解く べき状況であると見なす」ということである.一般化して述べるならば,行為シェムにお ける「状況の知覚」とは,問題状況を解決するという目的の下,「現在の状況を,ある行為 をすべき状況であると見なす」ということである.これは,「AをBであると見なす」と いう型の認識であるから,状況の知覚とは,ある種の概念的枠組の使用でもある.このと き,もし主体が,現在の状況を,どの行為をすべき状況であると見なすべきか判断できな いと感じるならば,それは,(ii)へ移行する前に,新たな問題状況を生み出す.

次に,図2.1の(ii)は,活動の段階である.これは,選択された方法知が具体的に実行 される段階であるが,その方法知の実行が開始されてから終了するまでの間,主体は,何

も考えずに時が過ぎ去るのを待っているわけではない.主体は,その実行結果が期待すべ き方向へ向かっていっているかや,その方法知が正しく実行されているかを監視するとと もに,その実行状況に応じて実行を中断したり他の手を実行したりしなければならない可 能性を念頭に置きながら,方法知を実行していると考えられる.つまり,この例が示すよ うに,行為シェムにおける「活動」とは,問題状況を解決するという目的の下,具体的な 方法知を実行すると同時に,「自身の方法知の実行状況を,適切な状況であると見なす」

というように,ある種の概念的枠組を使用することである.このとき,もし主体が,自身 の方法知の実行状況を,適切な状況であると見なすことができないと感じるならば,それ

は,(iii)へ移行する前に,新たな問題状況を生み出す.

最後に,(iii)は,予期された結果を検証する段階である.すなわち,選択された方法知

の実行結果が,実際に期待した結果通りであったかどうかを検証する段階である.主体 は,(ii)の段階において,絶えず自身の方法知の実行を監視しているため,実行途中の段 階で,予期した結果が起こらないと判断することもあるであろう.しかし,その一方で,

実際にその方法知の実行を完遂してみるまで,その方法知の実行結果が期待通りであった かどうかを判定できない場合もあり得る.つまり,行為シェムにおける「予期された結 果」とは,問題状況を解決するという目的の下,「自身の実行した方法知の結果を,期待 通りの結果であると見なす」というように,ある種の概念的枠組を使用することである.

このとき,もし主体が,自身の方法知の実行状況を,適切な状況であると見なすことがで きないと感じるならば,それは,新たな問題状況を生み出す.

(i), (ii), (iii)の各過程において,再び問題状況が生じ得るという事態は,「行為シェム」

という用語が,一連の方法知や概念的枠組が階層的な構造をなして使用される状況を捉え るための用語であることを示唆する.例えば,図2.2は,そうした一連の方法知や概念的 枠組が階層的な構造をなして使用される状況についての,あり得る1つの例である.

上記のように具体的に考えてみればわかるように,von Glasersfeld (1995b) の「行為 シェム」の定式化は,それが哲学的議論の一部としてなされた定式化であったがゆえに,

現実に即して考えるといささか大雑把な定式化である.上記の例のような,「方程式を解 く」という認知的過程は,確かにある種の行為シェムを形成していると捉えられる.しか し,一方で,「方程式を解く」という認知的過程は極めて複雑な過程であり,単に方程式 を解くという過程1つとっても,解を得るまでに多数の小さな行為シェムが繰り返し使用

方程式を解く

2.2 一連の方法知や概念的枠組が階層的な構造をなして使用される状況の例

されていると考えられる.

一般的に述べるならば,ある学習者の振る舞いからどのような行為シェムが働いている かを推定するかは,その推定の目的にとって,どれくらい大きな行為シェムを想定するの が適切であるかに依存して決まる問題である.細かく推定しようと思えば,学習者の振る 舞いの変化に合わせて細かく推定することもできるし,粗く推定することがかえって有用 な局面であれば,ある程度,学習者の振る舞いを1つにまとめて捉えることで,粗く推定 することもできる.すなわち,行為シェムとは,そういった形で使用することのできる,

学習者の一連の振る舞いを記述するための理論的枠組である.

4 理論的枠組としてのラディカル構成主義の用途 の分析

第1章第4節にて指摘したように,ラディカル構成主義の学習観は,本研究にとって必 要ではあるが,それだけで十分であるわけではない.そこで本節では,前節で定式化した ラディカル構成主義が,どのような目的で使用し得る理論的枠組であるのかを分析する.

その分析結果を利用することで,本研究にとって必要な理論的枠組を設定するにあたっ て,ラディカル構成主義に何か補うべき事項があるか,また,あるとすればどのような事 項を補うべきであるかを検討する.

4.1 分析方法

本節では,ラディカル構成主義という理論的枠組の使用目的を明確にするために,

Radford (2008)の理論観を援用する.特に本節では,数学教育研究においてしばしば注目

される状況論 (特に,正統的周辺参加論)の使用目的と対比した分析を行う.以下,本小 節では,次の3つの手順で分析方法を論じる.まず,分析時の理論的枠組となるRadford

(2008)の理論観とその役割について述べる.次に,その理論観が,ラディカル構成主義そ

れ自身と整合的である点を述べ,本研究は,ラディカル構成主義それ自身を分析するとい

うメタ的な試みにおいても,一貫してラディカル構成主義の立場に立ち続けることができ ることを論じる.最後に,ラディカル構成主義を分析するにあたって,ラディカル構成主 義と正統的周辺参加論を比較することの必要性を指摘する.

(1) Radfordの理論観

公正な対比を実現するために,本研究では,Radford (2008)の理論観を(メタ)理論的枠 組*5として援用する*6.Radford (2008)によれば,「理論」とは,

(P) 基本原理

(M) データ収集・解釈の方法論

(Q) パラダイム的リサーチ・クェッション

の3つによって規定され得る.この理論観に基づけば,数学教育における理論とは,(P) に含まれる原理と,(M)を通じて得た情報を合わせることで,(Q)に対する答えを導出す る,一連の流れの総体である,と言える.そして,「(Q)に対する答えの追究」が,当該理 論の使用目的ということになるであろう.

ある理論T と関連付けられるリサーチ・クェッション(Q)とは,「パラダイム的」であ ると形容されるように,あるT の(Q)に対して答えを出すことに価値があると感じられ る人達というのは,そもそもT の支持者に限られるのかもしれないし,逆に言えば,その (Q)に価値を感じるからこそT の支持者になるのかもしれない.しかしながら,その一方 で,(Q)に価値があると仮定したときに,その追究にあたって,(P)および(M)の組み合 わせが合理的であるかどうかということは,理知的に議論し得る問題であろう.そういう

意味で,Radford (2008)の理論観は,素朴なままでは曖昧模糊としたラディカル構成主義

や正統的周辺参加論といった「理論」を,同一の枠組で型取り,議論の俎上に載せる共通 項を抽出する役割を果たすと言え,ラディカル構成主義や正統的周辺参加論がどのような 目的で使用される理論であるのかを分析するにあたって,公正な視座の1つとなり得る.

*5この理論的枠組は,理論的枠組を分析するための理論的枠組であるから,言うなればメタ理論的枠組であ る.

*6Radford (2008)自身は,この理論観を,数学教育研究における異なる理論同士の接続の可能性を議論する

際に用いている.

(2) ラディカル構成主義とRadfordの理論観の整合性

このような分析を行うことは,ラディカル構成主義の考え方と整合的である.ラディカ ル構成主義の知識観に基づけば,理論的枠組と言えど,数学教育を研究する際の方法知の 一種であり,概念的な道具である.しかしながら,ラディカル構成主義の内部には,「理 論的枠組」がどのような道具であるかを描き出すために十分な語彙が存在しない.一方,

Radford (2008)の理論観は,単に理論的枠組がどういったものであるかを規定しただけの

ものであり,ラディカル構成主義に含まれる既有概念と何らかの形で論理的に衝突するよ うな性質のものではない.ラディカル構成主義と Radford (2008)の理論観の関係は,例 えば,ラディカル構成主義と社会的構成主義のように,同じ「知識」という語を異なる意 味で用いる2つの立場という関係ではないので,論理的な衝突は生じ得ないのである.そ

のため,Radford (2008)の理論観に基づけば,ラディカル構成主義それ自身がどんな目的

で使用され得る道具であるのか,ラディカル構成主義の範囲内で語ることができるように なる.

このように,自分自身について,自分自身の範囲内で語ることができるということは,

哲学として重要な要素である.第1章第2節で示した,哲学の第二の役割を踏まえれば,

一般的に言って,哲学が原理的に主張し得ないことは,自分自身が,無制限に何にでも役 に立つ可能性を秘めた哲学である,ということである.この主張は,その哲学の限界を示 そうとするあらゆる批判に対して自己保身的である.つまり,このような主張をする哲学 は,万人に対して開かれておらず,哲学として十分に機能しない.したがって,ラディカ ル構成主義と整合的なRadford (2008)の理論観の併用は,ラディカル構成主義の哲学とし ての価値を損ねずに実現可能である.

(3) 理論間比較の必要性

ラディカル構成主義という理論的枠組の使用目的を明確にするにあたって,単にラディ カル構成主義のみを分析の対象とするのではなく,比較対象として,正統的周辺参加論を も分析の対象とする理由は,数学教育研究における具体的なニーズを,ラディカル構成主 義以外にも例示するためである.ラディカル構成主義の限界を例示するにあたっては,例 えば,社会的構成主義からラディカル構成主義へ向けられる批判のようなやり方は,適切