第 1 章 の引用・参考文献
2.1 真理と客観
ラディカル構成主義とは,あらゆる認識は主観的であるとする,知ることについての哲 学である.第1章でも示したように,ラディカル構成主義は,知識の客観性を否定する思 想であるとして,しばしば批判の対象となってきた.確かに,von Glasersfeld (1995b)が,
しばしば知識の客観性を否定するかのような表現を用いてきた点も事実ではあるし,ラ ディカル構成主義は,その基本概念が明確に定式化された哲学ではないということもまた 事実である.しかしながら,ラディカル構成主義が知識の客観性を否定すると捉えること は,ラディカル構成主義の,数学教育的現象の分析ツールとしての本来の有用性を損ね得 る解釈である.
まず,重要な点として,ラディカル構成主義に肯定的ではないErnest (1993)も評して いるように,「ラディカル構成主義は存在論的に中立的 〔neutral〕 である」(p.90,括弧内 原語).つまり,von Glasersfeld (1995a)も,「私は決して絶対的実在を否定しない,私は,
表2.1 実在の有無とそれを知り得るか否かの組み合わせ 知り得るか否か
得 否
実在の有無 有 E EE
EE EE
EE
(有/得E) (有/否) 無 (——) E
EE EE
EE EE (無/否E)
懐疑論者がするように,ただ我々がそれを知る術を持たないということを主張するだけ
だ」(p. 7)と述べているように,ラディカル構成主義は,素朴な意味での客観的実在や客
観的真理の存在について,否定も肯定もしない.Dykstra (2010)が的確に指摘しているよ うに,ラディカル構成主義は,「我々の精神と独立した実在を知り得ないということ」と
「我々の精神と独立した実在が存在しないということ」が混同された状態で批判されてい る節がある.Dykstra (2010)曰く,唯物論者・実在論者・客観主義者には,「精神と独立し た絶対的実在が存在して我々はそれを知り得る,という選択肢か,それは存在せず我々は それを知り得ない,という選択肢か」(p. 121)という2つの選択肢しかないように思われ るという.つまり,論理的には表2.1の3通りが考えられるにもかかわらず,ラディカル 構成主義は,表2.1において網掛けした2通りの場合しか考慮されずに批判される傾向に あるのである.
ラディカル構成主義がそのような誤解を受ける最大の理由は,筆者の見立てでは,von
Glasersfeld (1995b)が次のように考えていた点にあるように思われる.
行為,概念,概念操作は,それらが,我々がそれらを用いる目的的文脈や記述的文 脈に当てはまる〔fit〕なら,生存可能である.それゆえ,構成主義者の思考方法に おいて,経験の領域における生存可能性の概念は,伝統的な哲学者の真理の概念を 置き換える.その真理の概念とは,現実の「正しい」表象を指示するはずだったも のである.この置き換えは,もちろん,日常の真理の概念*2に影響しない.その真
*2[筆者注]原文では,「伝統的な哲学者の真理の概念」は,“the traditional philosopher’s concept of Truth”で あり,「日常の真理の概念」は,“the everyday concept of truth”である.前者は,“Truth”という固有名詞 であるのに対して,後者は,“truth”という一般名詞である.固有名詞としての真理は,人間精神に依存し ない唯一絶対の「真理」であるという印象を与えるのに対して,一般名詞としての真理は,個別の認識主 体の経験に依存した「真理」であるという印象を与える.ラディカル構成主義は,前者の「真理」に対す るアクセス不可能性を主張している.
理の概念は,先行する 経験の忠実な繰り返しや記述を必然的に伴うものである (p. 14,強調原文,括弧内原語) 決定的な問題は,「生存可能性の概念が,真理の概念を・
置・
き・
換・
え・
る」というときの,その 置き換わり方にある.確かに,この言い方では,真理の概念を放棄しているようにも読み 取れる.しかしながら,それは,ラディカル構成主義の本来の考え方ではない.ラディカ ル構成主義の考え方をより正確に述べるならば,ラディカル構成主義は,ある知識が(万 人にとって)真であるか否かには関心を持たず,ある学習者にとってどんな知識が生存可 能であるのかに関心を持つ哲学である.つまり,これは,絶対的に真なる知識や絶対的に 偽なる知識が存在するにせよしないにせよ,絶対的に真である知識がある学習者にとって 生存可能であるような場合も,絶対的に偽である知識がある学習者にとって生存可能であ るような場合も,どちらも考察の対象にする,ということである.それゆえに,ラディカ ル構成主義者の考察においては,その知識が実際に,伝統的な哲学的な意味において絶対 的に真であるか絶対的に偽であるかに関心を払わない.学習者を理解するという目的に特 化するならば,絶対的真理の概念は必要ない.その目的の下では,絶対的真理の概念の代 わりに,生存可能性の概念を使用すべきである.その意味で,絶対的真理の概念が生存可 能性の概念に置き換えられるということなのである.
第1章でも取り上げた無主義を貫くGoldin (2003)は,超相対主義に対する批判として,
「知識」という語が,しばしば,「信念」,「生存可能な信念」,「正当化された信念」,あるい は,「社会的共有された信念」の同義語と見なされており,そのことが,科学的知識の十全 性を損ねているという点を指摘する.Goldin (2003)のように,客観的実在の存在を積極 的に仮定する立場においては,「科学的知識」あるいは「数学的知識」というのは,ある制 限された考察範囲において,ある精度で成立する客観的実在の近似的なモデルである.そ れは,ある特定の個人がどのような信念を抱いているかや,ある特定の社会の構成員がど のような信念を共通に抱いているかとは無関係に,どんな制限された考察範囲において,
どんな精度でその近似的モデルが成立するのかが,予め決まっている.それは,人間精神 とは独立に,それでいて,客観的実在がどういう存在であるかにのみ依存して,決まって いるはずである.こういう知識観の下では,確かに,「知識」と「信念」は,区別されなけ ればならないであろう.
しかしながら,ラディカル構成主義の関心は,それが誤解であろうと正しい理解であろ うと,学習者が実際に何を知るようになったか,何を知っているのか,あるいは,どのよ うに知るようになる傾向があるのかということである.研究背景でも述べたように,構 成主義が台頭した歴史的経緯として,例えば,小数の大小に関するミスコンセプション
(0.4 < 0.234という誤解)がなぜ生じるのか,そのメカニズムを解き明かしたいという数
学教育研究のモチベーションが存在した.確かに,教育として,0.4 < 0.234は誤りであ るのかもしれないが,学習者とて,意図して誤った理解をしようとしたわけではないであ ろうから,数学教育研究は,学習者の認識の本性に接近する努力をしなければならない,
と考えられるようになったのである.
実際問題として,ラディカル構成主義は,その哲学的議論として,認識の主観性と客観 的知識の到達不可能性を主張したに留まったが,筆者の理解によれば,ラディカル構成主 義が実際に問題としてきたことは,学習者がどんな知識を使用する傾向にあるか,とい う問題である.一般的に言って構成主義は,学習者独特の合理性を仮定する立場である
(Confrey, 1991).つまり,観察された学習者の振る舞いが,その文脈で生存可能な知識の
現れであると仮定することで,その文脈がその学習者にとってどのような目的的文脈で あったのかを明らかにしようとする立場である.このような形で学習者の思考をモデル化 することは,「観察される者に共感する〔empathize〕」(Thompson, 2000, p. 298,括弧内原 語)ことを可能にする.
例えば,文字列として長い小数の方が大きい小数であるというミスコンセプションの場 合,非構成主義的な捉え方をするならば,このような事例は,単に,その学習者が誤って いたというだけのことである.しかし,構成主義は,自然数の範囲内においては,数の大 小と文字列の長短が一致していたということに着目する.すなわち,この小数のミスコン セプションの保持者にとって,数の大小比較を行う目的的文脈において生存可能な方法 知が,文字列の長短を比較することであったかもしれない,と考えるのである.このよう に考えれば,このミスコンセプションの保持者は,既習事項をただ活用しようとしている だけであり,我々観察者は,その振る舞いの合理性に一定程度理解を示すことができるよ うになる.その学習者の主観的な認識に共感しようとする目的の下では,その学習者が真 理を認識できているかや,客観的な知識を構成できているかということは,直接的な問題 ではないのである.