• 検索結果がありません。

第 0 章 の引用・参考文献

3.6 無主義 (No-ism)

無主義(No-ism)とは,Goldin (2014)によって示された,数学教育研究において多様な

「主義」が存在することに対する批判である.Goldinは,これまでにも再三に渡って,種々 の構成主義がイデオロギー的に偏向している旨を指摘してきた (例えば,Goldin, 1990, 2001, 2003, 2014).Goldin (2014)の主張は,端的に言えば,経験的事実を分析するにあ たって,ラディカル構成主義や社会的構成主義といった「主義」は不要であるどころか,

その分析の可能性を制限してしまいかねないというものである.

ここまで概観してきたように,数学教育研究における多様な「主義」は,素朴な意味で の「客観的真理」の追究可能性を放棄し,しばしば,社会的協定によって「客観性」を再 定義する.Goldin (2003)は,そのような立場は,超相対主義(ultrarelativism)であるとし て意義を唱える.特に,超相対主義が反証不可能である点に批判的である.

〔超相対主義〕は,(科学的主張と異なり)ア・プリオリな断言であって,証拠や推 論によって反証不可能である.それらは,自然の過程の予測や制御を達成する際の 科学の力に対して 説明的ではない.それらは,生徒達や研究者達に対して,「真理」

や「妥当性」の意味について,科学者達が理解しているのと同じようには示さない.

そのような「超相対主義者」の哲学的立場の反証不可能性は,究極的には,それら に対する「合理的」異論を棄却することに依存している.それは,合理性それ自身 を,単に,ある任意な社会的に構成されたディスコースの体系と見なすことによっ てなされている.

(p. 182,〔 〕内筆者・強調原文) つまり,超相対主義は,その支持者達によって正しいと信じ込まれている哲学的前提を 有しており,かつ,社会的に協定された判断であれば,それは妥当性を有する,と見なす

ことで,自分達の前提を妥当なものと見なしてしまっている,というのである*8

Goldin (2003)が,ラディカル構成主義や社会的構成主義を単に「相対主義」(relativism)

と呼ばず,「・  

超相対主義」と呼ぶのは,ある意味で,Goldin (2003)自身が「相対主義」だ からであると考えられる.実際,Goldin (2003)は,科学的真理の相対性をある意味で認 識している.少し長いが,重要な部分なので,以下に引用しよう.

〔科学的方法〕は,「絶対的真理」と「確実な知識」の主張を導か ない—実際,あ る重要な意味において,科学的真理は,本質的に暫定的で,常に近似的である.何 より,科学的理論と科学的理論から導かれる諸仮説は,原理的かつ実践的に,反証 可能である.しかし,科学的方法は,客観性・予測の妥当性・検証可能性・応用可 能性の領域・経験的真理について,保証された主張と,まさに関係している.科学 の実践は,ある「現実世界」について,(証拠・実験・合理的推論に基づいて)保証 された結論に到達することに関係している.その「現実世界」とは,人間の存在に 先行し,部分的に理解されたり不完全に理解されたりしている物理的構造・化学的 構造・生物学的構造から構成され,部分的に理解されたり不完全に理解されたりし ている物理的法則に沿って機能しているものである.

それゆえ,我々は,例えば,古典的ニュートン力学のような,より初期の理論が,

低速で移動する巨視的物体の観察結果に対する定量的に良い説明を,どのようにし て与えるのかを理解することができる—古典的ニュートン力学は,(客観的に)相対 的で,量子力学的な我々の宇宙において「偽」であるということが,20世紀初頭以 降,知られている力学である.その理論は,ある特定の観察領域において,妥当な 精密近似のままである.

(p. 180,〔 〕内筆者・強調原文) 上の引用が示すように,Goldin (2003)は,人間の存在に先行する何らかの「世界」の存

*8近年の数学教育研究においては,各々の研究が多かれ少なかれイデオロギーに依存しているということ

は,Goldin (2003)によって超相対主義と呼ばれる立場の研究者の間でも,しばしば議論になるところで

ある(例えば,Cobb, 2007; JRME Equity Special Issue Editorial Panel, 2013; Martin, Gholson, & Leonard,

2010).そのため,これは極めて的を射た批判であると言えよう.ただし,超相対主義と呼ばれる研究者

達の間では,必ずしもこの批判が問題とはなっていない.おそらく,その理由は至極単純で,超相対主義 者達にとっては,Goldin (2003)の立場さえ,唯一絶対の立場ではなく,数あるイデオロギーの1つに過 ぎないからであろう.超相対主義者達は,異なるイデオロギーの下で異なる理論が成立することを問題視 しないため,Goldin (2003)が自分達と異なる立場であることも問題視しないものと考えられる.

在を明確に仮定し,科学理論を,適用範囲が明確に制限された近似的に真な知の体系,と して捉えている.そして,その上で,科学的方法・科学的実践によって,そのような知の 体系の産出が可能であると考えている.

Goldin (2003) のこの科学観は,その数学観とも極めて類比的である.Goldin (2003)

は,ある命題が真であることと証明可能であることの区別を強調しながら,次のように述 べる.

数学的知識は,公理系に相対的な定理の客観的真理を基本的に一部として含んでい る.ここで私は,「客観的」という語を,一度用語と記号が定義され,公理と推論規 則が同意されたならば,よく述べられた予想の正しさは,(それらが事実として定 理であるかどうか,あるいは,偽であるかどうか,はたまた,決定し得ないかどう かにかかわらず)論理的な意味で 確立されているというアイディアを表現するため に用いている.それはもはや,個人的好みや個人の解釈,社会的規約,交渉,ある いは,主観的コンセプションの問題ではない.

(p. 187,強調原文) この見解は,まったくもってして健全な数学観であると考えられるし,完全に正しい.

数学を厳密に展開するための道具立てがすべて揃ったあとであるならば,ある言明の真偽 (あるいは,その決定不可能性)が個人や社会の好みや慣習によって左右されるということ はあり得ない.

しかし,その一方で,Goldin (2003)は,次のようにも述べている.

数学教育において,代替的コンセプションと ミスコンセプションを区別することは 本質的である.前者の用語は,その生徒が非標準的な規約を暗黙的に採用したり,

教師によって期待される前提とは異なる前提に結論を(妥当に)位置付けたり,教 師によって期待されるパターンとは異なる数学的なパターンを記述したり,ある数 学的結論に到達するための非標準的な方法を(妥当に)使用したり,あるいは,教師 によって期待されたり教科書によって記述されたりする直観(概念的またはイメー ジ的な表象)とは異なる直観をその状況に位置付けたりする状況を,適切に指示し 得る.そのコンセプションは,数学的に妥当であり得るが,いくつかの点で期待さ

れるコンセプションではない—それは,たとえそれが交渉された数学的な前提や 規約の文脈において「生存可能」でないとしても,誠実な代替物である.後者の用 語は,生徒が論理的誤りを犯したり,内的に不整合な規約を採用したり,(それが 真であり得なくなるように)あるパターンのある性質を誤って知覚したり,数学的 関係を非妥当に表象したり,あるいは,数学的結論に到達するための正しくなかっ たり,論理的に不適切であったり,応用不可能な方法を用いたりする状況を指示す る—それは,そのコンセプションがその個人にとって心理的に「生存可能」である 場合でさえ,そうである.

(pp. 187-188) ここで注目したいことは,Goldin (2003)による「生存可能」という用語の使用である.

Goldin (2003)の主張は,数学的な真偽と個人的な生存可能性の有無は,独立の問題であ

る,という点にある.これまでの数学教育研究の中には,ともすれば,言明の真偽と生 存可能性を混同して議論を進めてきた研究もあるのかもしれない.そうであるからこそ,

Goldin (2003)のような批判論文が存在する.しかしながら,奇しくもGoldin (2003)が正

しく指摘するように,言明の真偽とその生存可能性は,まったく無関係の問題である.

したがって,Goldin (2003, 2014)の無主義は,(筆者以外にGoldinの研究をこのように 評価する見解は,寡聞にして知らないが)数学教育研究に対して次のような根源的反省を もたらしたと考えることができる.

数学的な言明の真偽(あるいは,その決定不可能性)と個人的な生存可能性は独立 の問題である.すなわち,数学的に真である知識が生存不可能であったり,数学的 に偽である知識が生存可能であったり,様々な可能性があり得る.

しかしながら,そうであるからこそ,Goldin (2003)によるラディカル構成主義に対す る批判は,これまた逆説的ではあるが,意味をなさない.数学的な真偽と生存可能性は 別の問題であるから,数学的な真偽が客観的に決まっていると考えることと,個人の知 識の生存可能性を数学教育の研究対象として取り扱うことは,一切矛盾しない.我々は,

Goldin (2003)の提唱する健全な数学観を維持したまま,構成主義の哲学を採用すること

ができる.構成主義を名乗る一部の研究が,仮にGoldin (2003)の数学観と対立するよう

な主張をしていたとしても,それは,構成主義の本来の問題ではない.なぜなら,構成主 義の採用する仮定には,Goldin (2003)の数学観を否定する力も肯定する力もないからで ある.数学の用語を用いて比喩的に述べるとすれば,構成主義の公理系において,Goldin

(2003)の数学観は真偽決定不能である.

4 先行する哲学的研究の援用可能性

ここまで真正な数学的活動を実現するための哲学を模索し,先行する哲学的研究として AMS の観点の基礎となる構成主義研究を概観してきた.本節では,前節で取り上げた各 哲学が本研究の目的に沿うものであるかどうか吟味していこう.

まず,ミスコンセプション研究は,「タブラ・ラサ」モデルを否定し,数学教育の研究者 が「学習者なりの考え方」の存在を明確に認識する契機となった研究であったと言える.

この意味で,AMS の観点での真正性を考えるにあたっては,ミスコンセプション研究が 示す哲学というのは,最低限考慮されなければならない.

次に,ラディカル構成主義研究は,ミスコンセプション研究よりも一層AMS の観点を 明確に打ち出す哲学である.ミスコンセプション研究が,「ミス」の基準を標準的な数学 の体系に求めたことは,その状況における標準的な数学の体系の優位性を暗黙的に仮定し ており,一貫してAMS の観点を貫く哲学とは言い難い.一方,ラディカル構成主義が,

標準的な数学の体系の優位性さえ積極的に疑いの対象と見なすことで,学習者の生み出し た数学をすべて正統な数学であると見なしたことは,学習者のあらゆる活動の所産を,徹 底してAMS の観点から解釈するような姿勢であると捉えることができる.

本研究の目的にとって,この徹底した姿勢は必要不可欠である.数学教育を通じて学習 者に学んで欲しい数学的知識には,数学的定理・数学的方法・数学的な考え方・数学的価 値など,数学に関連した多様な内容が含まれる.こうした目標に対して,これらの内容 を,形式的にでも良いから,できる限り多くのことを学習者に指導すべきだと考える見方 (例えば,AMD の観点)もあれば,そういった形式的な学習に時間を費やすくらいであれ ば,有意味な形で,できる限り多くのことを学習者に指導するために時間を費やすべきだ