第 0 章 の引用・参考文献
3.4 社会的構成主義 2 (Piaget-based social constructivism)
第二の社会的構成主義は,その主たる立場をラディカル構成主義に位置付けながらも,
社会・文化的な視座との相補性を主張する立場である (例えば,Cobb, 1994; Yackel &
Cobb, 1996).ラディカル構成主義でありながら「社会」に注目し,しかも,個人と社会
の相補性を主張するという点で,中原(1995b)の協定的構成主義と似ているようにも思わ れるが,Cobbらの社会的構成主義と中原の協定的構成主義では,「社会」の捉え方が微妙 に異なっている.Cobb (1994)のアプローチの独自性は,ラディカル構成主義を,社会・
文化的な視座として,状況論と呼ばれるアプローチと相補的に捉える点にある.この立場
は,Piagetの再解釈に基づくラディカル構成主義をその根底に有しているという意味で,
Piagetベースの社会的構成主義として,しばしば特徴付けられる(Ernest, 1994b).
数学教育研究において,特に影響力の大きな状況論的な考え方は,レイヴ&ウェンガー
(1993)の正統的周辺参加論であろう.正統的周辺参加論とは,「学習を分析的にみる一つ
の見方であり,学習というものを理解する一つの方法である」(p. 17).学習は,知識が個 人に内化される過程としてではなく,「実践的共同体への参加の度合の増加」(p. 25)とし て見なされる.正統的周辺参加とは,ある実践的共同体における新参者が徐々に古参者へ と変容していく過程である.正統的周辺参加論が「学習と意図的教授とを根本的に区別す
る」(p. 17)という点は,この理論を数学教育へ適用する際に最も強調されるべき点であ
ろう.教育のカリキュラムと学習のカリキュラムは異なるとも言われる (pp. 78-80).学 習者の置かれている状況が,学習者をどのような実践に対する古参者への変容を促してい るのかは,教師が意図的に教えようとしていることとは別の問題である.例えば,教師は 数学的概念を教えようとしているのかもしれないが,学習者の置かれている状況によって は,学習者は,教師に褒められる人やテストで良い点を取ることができる人になろうとし ているだけかもしれず,数学的概念を柔軟に扱える人になろうとしているわけではない かもしれない,と考えるのである.その意味で,レイヴ&ウェンガー(1993)の書名にも なっているように,学習は状況に埋め込まれている(situated learning)とされる.
この理論では,非正統的周辺参加という状態は存在し得ず(p. 10),実践的共同体内にお けるある個人のアイデンティティが,したがって,全人格がどのように変容するかが問題 とされる.この理論に基づけば,数学学習によって構成されるものは数学的対象だけでは
ない.何が構成されるかは,何を教えようとしたかに依存するとは限らないのである.あ る授業で教師が教えた数学的対象について,たとえそのときは学習者が構成できなかった としても,学習者はその授業において何らかのアイデンティティの変容を起こしているの である.このことは,たとえ1回で目標の対象を構成できなかったとしても,繰り返し同 様の指導を受ければ,いつかは対象が構成できるようになる,という考え方が楽観的であ ることを示唆する.
より具体的に,Yackel & Cobb (1996)は,数学の教室コミュニティを取り巻く文化的規 範として,社会的規範(social norm)と社会数学的規範(sociomathematical norm)の2種類 の区別を指摘する.社会的規範とは,授業中に大人しく座って話が聞けるとか,先生に質 問されたら積極的に手を挙げることができるとかといった,一般的な優れた学習者像の特 徴のことである.一方,社会数学的規範とは,計算を素早く正確にこなすことができると か,証明を書く際に仮定を明示的に書くことができるとかといった,数学に特有の優れた 学習者像の特徴のことである.社会的規範も社会数学的規範も,教師と学習者の相互構成 によって形成される数学の教室コミュニティにおける活動の規則性のことである(Cobb, Stephan, McClain, & Gravemeijer, 2001)*5.
社会数学的規範が,「数学的」といいながらも,あくまでも,そのコミュニティにおい て社会的に要請される作法のようなものであるということには注意が必要である.つま り,仮に,ある学習者がこの作法を逸脱しているからといって,そのことが,その学習者 が何らかの数学的対象に関してミスコンセプションを有していることを意味するわけでは ない.例えば,三角形の合同に関する証明を書く際に仮定を明示的に書けない学習者がい たとしても,そのことが,三角形の概念や合同の概念に関してミスコンセプションを有し ているというわけではないであろう*6.
*5明文化されている規範もあれば,不文律としての規範もあるであろうけれど,Piagetベースの社会的構 成主義においては,活動の規則性として経験的に観察されるものを規範と呼ぶようである(Cobb et al.,
2001).つまり,教師が言葉で学習者達に明示的に要請していたとしても,実際に学習者達の行動に反映
されていなければ,それは社会的規範や社会数学的規範ではない.
*6ただし,「証明」概念に関してミスコンセプションを有している,とは言えるかもしれない.「三角形」
や「合同」といった概念が,数学という学問が取り扱う対象に関する概念であるとすれば,「証明」とい う概念は,数学という学問の方法に関する概念である.近年では,「証明」という方法に関する概念は,
それが明瞭に定義可能な概念ではないことから,何が証明らしさ(proof-like)で,何が証明らしくなさ
(non-proof-like)であるかを文化化(enculturation)に基づいて学ぶことが最善であろうという指摘がある
(Weber, 2014, pp. 12-13).このことは,数学学習が状況に埋め込まれていなければ,数学の方法に関する
学びが成立しないということを示唆しており,数学教育研究において状況論を考慮することの必要性がう
Yackel & Cobb (1996)が指摘するところによれば,このような社会数学的規範は,初め から固定されたものとして教室に存在しているのではない.社会数学的規範とは,学習 者達が,教室における教師と相互作用しながら,あるいは,学習者同士で相互作用しな がら発展させるものであり,ともすれば,間接的な形で発展させるものである.例えば,
Yackel & Cobb (1996)では,ある学習者が正しい答えを述べたにもかかわらず,教師が他
の学習者にそれが正しいかどうかと問いかけたがゆえに,答えを述べた学習者が,自分 の述べた答えが間違っていたのだと認識してしまった,という事例が紹介されている(p.
468).これは,教師が直接「間違っている」と指摘したわけではないにもかかわらず,他 の生徒に妥当性を問うという教師の振る舞いの意味を,学習者が主体的に解釈し,意味付 けた結果として生じた学習である.その学習者の解答の妥当性の基準は,「数学的推論と いうよりはむしろ,社会的状況に対する彼女の解釈」(p. 468)にある.そして,この事例 においては,その後,その学習者は,教師から,何が正しいかに基づいて答えの正しさを 判断するよう指導される(pp. 468-469).授業においては,こうして新しい社会数学的規 範が構成されていく.教室環境における数学の質の確立は,教師の振る舞いにかかってい るのである(p. 475).
このような事例が示唆することは,学習者の認識が,状況に埋め込まれているというこ とである.学習者は,常に数学的対象とのみ向き合って学習を進めているとは限らない.
その意味で,von Glasersfeldのラディカル構成主義は,数学的対象と理想的に向き合って いる状況を暗黙的に仮定していしまっている.ただし,Cobb (1994)によれば,逆もまた 然りであり,状況論的な見方は,個人が主体的に環境に適応しようとしていることを仮定 してしまっており,そのため,ラディカル構成主義と社会・文化的視座を明確に有する状 況論との相補的な見方が必要なのである.特に,Cobb (2007)によれば,ラディカル構成 主義も状況論も,どちらも授業や教授実験をデザインするための道具に過ぎず,役に立つ ときに役に立つ理論を使用することが重要であるという.
以上より,Piagetベースの社会的構成主義は,次のような根源的反省をもたらしたと言 えよう.
• 個々人が自律的につくりあげたもののみが正統な知識となるわけではない.正統な
かがえる.
数学的知識とは,学習者と教師,あるいは,学習者同士の相互作用を経て発展させ られる,その教室コミュニティの社会数学的規範に依存している.
• ラディカル構成主義は,学習者の数学的思考のパターンを調査するにあたって,
学習者が数学的対象と理想的に向き合っている状況を暗黙的に仮定してしまって いる.
• 純粋な状況論は,個人が主体的に環境に適応しようとしていることを暗黙的に仮定 してしまっている.
そして,次のような方向性を打ち出したと言えよう.
• ラディカル構成主義も状況論も,それぞれ現実を過度に理想化した暗黙的な仮定を 有しているので,授業や教授実験をデザインするための道具として,それらを相補 的に併用した研究が必要である.