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第 1 章 の引用・参考文献

3.3 同化の定式化

Von Glasersfeld (1995b)によると,同化とは,「新しい素材を,既に知られているもの

の具体例〔instance〕として扱うこと」(p. 62, 強調原文, 括弧内原語) である.ハンソン

(1986)は,我々が行うありとあらゆる観察が,網膜に映った視覚情報をありのままに見

る行為ではなく,その視覚情報を別の何かとして見なす (seeing· · · as· · ·)行為であるこ とを指摘した.同様に,ラディカル構成主義において,あらゆる認識は,「AをB とし て見なす」という形で表現することができる(Steffe, von Glasersfeld, Richards, & Cobb, 1983, pp. xvi-xvii).このとき,AやBに相当するものは,しばしば概念的枠組(conceptual framework)や認識構造(cognitive structure)と呼ばれる.

先に引用したvon Glasersfeld (1995c)の「石をハンマーとして見なす」は,同化の一例 である.釘を打ちたい状況下で,手近にハンマーがなかったとしたら,手近にある石を拾 い,その石をハンマーとして使用するということがあり得る.この場合,その人は,その 石を,その人自身の持つ「ハンマー」の概念的枠組に同化している,と言える.ただし,そ の人が決して「石」それ自身を直接的に認識しているわけではないという意味では,「石」

も概念的枠組の一種である.つまり,「石を『ハンマー』の概念的枠組に同化する」という ことは,正確に言うならば,「灰色がかった硬くて小さな物体を『石』の概念的枠組に同 化していた状態から,それを『ハンマー』の概念的枠組に同化している状態へ移行する」

と言う方が正確である.

先に「3が素数である」ことの例を挙げたが,数学的対象についても同様に同化の議論 を行うことができる.例えば,3は素数であるけれど,y=3xという数式において,普通,

「3」を「素数」の概念的枠組に同化するということはしないであろう.この場合の「3」 は,むしろ,「傾き」の概念的枠組に同化されるであろう.人間の認識にとっては,3それ 自身がいったい何であるかということではなくて,どのような目的で3を何であるとして 認識することが合理的であるか,ということが問題なのである.

このように考えると,我々は,今まで「同化」という言葉を 2通りの意味で用いてし

まっていたことが明らかとなる.以下,それらを無意図的同化と意図的同化と区別して定 式化しよう.「AをBに無意図的に同化する」とは,ある対象Aを,意図せずBとして 取り扱っている状況を指す.例えば,灰色がかった硬くて小さな物体を見て,一瞥の後に それを「石」であると判断するような場合である.これは,何かの問題を解決するために

「石」として同化されたわけではないので,無意図的である.同化先の概念的枠組が目的 的に選択されたわけではない,とも言える.

一方,「AをBに意図的に同化する」とは,ある対象Aを,意図的にBとして取り扱っ ている状況を指す.例えば,無意図的に石として同化していたモノを,釘を打つという目 的のためにハンマーとして同化する場合である.これは,ある特定の問題を解決するため に「ハンマー」として同化されたわけであるから,意図的である.同化先の概念的枠組が,

目的的に選択された,とも言える.内容知として,「石はハンマーである」という言明に 対して真偽を問うことは,ほとんどどんな状況においても不毛であるが,方法知として,

石をハンマーとして取り扱うことが意味を持つような状況は,確かに存在する.

Von Glasersfeld (1995c)の「石をハンマーとして見なす」の例は,意図的同化の例であ

る.我々は,それと対を為す,より根本的な同化の形態として,無意図的同化の存在もま た考慮しなければならない.そうでなければ,我々は何事も認識できないことになってし まうからである.

生存可能性の定義より,方法知の生存可能性は,現在の状況がどのような目的的文脈や 記述的文脈の上に成り立っているかに依存している.このとき,意図的同化は目的的文脈 に,無意図的同化は記述的文脈に,それぞれ次のように対応している.例えば,ある人が,

釘を打つために石を「ハンマー」の概念的枠組に同化するならば,その人にとって「ハン マー」の概念的枠組を使用するという方法知は,釘を打つという目的の下で生存可能で ある.また,ある人が,歩行中,足元に落ちている「灰色がかった硬くて小さな物体」を

「石」の概念的枠組に同化するならば,「石」の概念的枠組を使用するという方法知は,歩 行風景を記述する上で生存可能である.

目的的文脈と記述的文脈は表裏一体である.歩行中,目に留まった物体を石として記述 することは,それ自体,目的的になされることではないけれど,そのような記述は,その 物体が,歩行を妨げるものではないと判断するために重要である.つまり,ある目的を達 成するために鍵となる対象は,意図的に同化され,その目的を達成するために注意を払う

必要のない対象は,無意図的に同化される.その意味で,記述的文脈において生存可能な 概念的枠組も,人間の活動の目的と不可分な存在である.

なお,先に,ライル(1987)による意志作用の否定に関する考察が,ラディカル構成主義 と親和的であることを論じたが,ここで,意図と意志作用が異なるものであることを明確 にしておきたい.ライル(1987)の否定した意志作用とは,何らかの行為を実行するため の原因となる,心の中のつぶやきである.人は,何らかの行為を実行しようと念じなくと も,その行為を実行し得る.一方,ここで議論している「意図的同化」の「意図」とは,

その文脈において果たそうとしている「目的」と同義である.認識主体は,自身がどのよ うな目的で行動しているのかを常に自覚しているとは限らないし,仮に自覚していたとし ても,それを言語的に報告できる状態にあるとは限らない.しかし,それでも,認識主体 は,自身の置かれた状況に対してランダムに振る舞っているわけではない.専門家から見 れば非合理的に見えるような行為であったとしても,認識主体は,自身の過去の経験に基 づいて,何らかの行為を選択的に採用し,振る舞っている.このとき,あり得る行為の中 からある特定の行為が選択されるのは,そこには,たとえ明瞭でなかったとしても,意図 が存在するからである.

意図と意志作用の決定的な違いは,前者が,「どんな状況Gを目指しているか」に関す る概念であるのに対して,後者は,「どんな行為Aを行おうとしているか」に関する概念 であるということである.つまり,意図も意志作用も,どちらも,認識主体の次の行為 A を選択的に決定する機能を有すると考えられるけれど,前者が,Aを選択したことによっ てG への到達を保証しないのに対して,後者は,Aを選択することそれ自体が重要であ り,その結果としてどんな状況に到達するのかに関心を持たない.人は,意図を持ってい るからこそ,自身の選択した行為の妥当性を評価し,次の行為を修正しようとするフィー ドバック機構を実現することができるのである.この区別に基づけば,意図という概念 は,「機械の中の幽霊のドグマ」という批判には抵触しない.意図は,人の行為選択を制 約するものではあるけれど,人の行為選択を一意的に決定するものではないからである.

そのため,たとえ意図の概念を想定する場合であっても,我々は,物的世界と心的世界の 繋がりについて議論する必要がない.ライル (1987)が,心身二元論を回避するために身 体一元論を採用し,「心」を「傾向性」によって掌握しようとしたのに対して,ラディカル 構成主義は,認識主体の心のみの存在を仮定し,その外部の物的世界は,認識主体によっ

て直接知られ得ないとする心一元論を採用する立場である.

以上より,ラディカル構成主義における同化の概念は,次のように定式化することがで きる.

AをBに無意図的に同化する」とは,ある対象Aを,意図せずBとして取り扱 うことであり,記述的文脈において機能する.

AをBに意図的に同化する」とは,ある対象Aを,意図的にBとして取り扱う ことであり,目的的文脈において機能する.