第 0 章 の引用・参考文献
2.2 哲学 対 思想
哲学辞典(1971c)が,科学との対比の下で「哲学」の意味を論じるのに対して,哲学・
思想辞典(1998)は,思想との対比の下で「哲学」の意味を論じる.
哲学を広く〈人生観〉(Lebensanschauung)および〈世界観〉(Weltanschauung)の全 般にわたる諸思想の意と解すれば,それが古くから東洋でもインド・中国・日本に おいて仏教・儒教・道教その他の諸思潮となって展開されてきたことは言うまでも ない.けれども現代においては,とりわけ西洋哲学に由来する厳格な論理性におい
て追究される,統一的全体的な人生観・世界観の〈理論的基礎〉の知的探究が,哲 学の根本性格を成すものと世界各国で考えられていることは,間違いのないところ であろう.
したがって,いかに人生観・世界観が広く宗教・芸術・道徳等のうちで表明され るにはしても,やはり哲学は,たんなる宗教的〈信仰〉や,芸術的〈直観〉や,道 徳的〈行為〉と異なり,あくまで首尾一貫した〈論理〉的追究の態度によって,で きるだけ広く文化・学問・科学・歴史・社会の諸領域をも巻き込みつつ,人間と世 界のあり方をその根本から統一的全体的に省みる人生観・世界観の〈理論的基礎〉
の知的探究であると言わねばならない.哲学は事柄をその根本から本質的に考察す る知的探究をその特色とするのである.
(p. 1119) また,哲学辞典(1971a)の「思想」の頁には,次のような説明がある.
「思想」という用語は,日本において,とくに第2次世界大戦後の日本において,広 く一般に使われているものであるが,皮肉なことに,哲学,思想の用語中もっとも 曖昧なものの一つにさえなっている.それは簡単にいうなら,用語の厳密さを欠い たムード的使い方の結果であるとすることができよう
〔中略〕
日本語の「思想」に対応する英独仏語として,thought, Denken, pens´eeとidea, Idee,
id´eeとの2系列をあげたが,この2系列のそれぞれの内部においてさえ,各国語に
よってかなりのニュアンスの相違をもっている.しかし,それはさておいても,日 本語の「思想」がこの二つの系列の両方にまたがっていることに注意しておく必要 がある.すなわち,簡単にいって前者は個人的色彩がつよく,後者は客体化された ものとしての色彩がつよい.日本語の「思想」はこの二つの要素を共に,しかし曖 昧に含んでいるところに,便利さと曖昧さがある.
〔中略〕
「哲学」は事物(自然,人間,社会)についての,より論理化され概念化された原理
的な考察であるが,多分に形相的 (フォーマル)に,また抽象的にならざるをえな い.これに対して「思想」はもっと素材(マテリアル)に即し,そこにあるさまざま な問題を思いめぐらすもの(および思いめぐらされたもの)である
(哲学辞典, 1971a, pp. 588-589) 日本語において,「哲学」と「思想」という言葉の境界は曖昧であり,大雑把に言えば,相 対的に脱個人化されたものを「哲学」,相対的に個人化されたものを「思想」と呼ぶ傾向 にあることが伺える.
一方,英語においては,しばしば相対的に個人的なものに対しても“philosophy”の語を あてるようである.科学と対比される「哲学」が,広大な学問領域の総称として理解し得 る用語であるのに対して,この意味での「哲学」は,1つ1つの「哲学」を数えることが できるため,学問領域の名辞として扱われる無冠詞の“philosophy”ではなく,可算名詞の
“philosophy”である.
ある哲学は,あなたが特定の状況や人生においてどのように振る舞うべきかについ て持っている信念でもある
(Cambridge Dictionaries Online, n.d.-f) 日本語においても,「成功の哲学」や「人生の哲学」といった言い回しをする場合は,多 くの場合,学問領域としての哲学ではなく,この意味での「哲学」である.すなわち,そ れは,ある特定の個人が特定の状況でどのように振る舞うかについての,行動原理や行動 規範を示している.このように,「哲学」という用語は,「思想」と同じように,相対的に 個人的な行動原理や行動規範の総称としても用いられる.
このような個人の思想・哲学は,数学教育研究の文脈においても,しばしば注目される.
例えば,平林 (2000, 2007)は,日本の数学教育実践や数学教育学の思想性の希薄さに警 鐘を鳴らした.これは,背景に思想・哲学を踏まえていない実践発表・研究発表が,体系 的に未整理状態の単なる体験発表に陥る危険性を指摘したものである.また,Thompson
(1984)は,事例研究を通じて,数学教師の数学観や数学に関する信念や好みが,その教師
の指導実践に与える影響を指摘し,序論にて引用したWeiss, Herbst, & Chen (2009)の調 査研究も,各数学教師が持つ「真正な数学」に対する捉え方が実践に影響を与え得ること
を示している.もちろん,現実には,思想・哲学と呼べるほど体系的な数学観や数学に関 する信念を有している教師ばかりではないかもしれないけれど,Ernest (1994a)は,それ らも広く思想・哲学と捉えることで,教師の信念・教科書・カリキュラムなどに潜在する 哲学と数学教育の実践との間の繋がりを指摘し,研究領域として,数学教育の哲学が必要 であると述べる.
平林(2007)は,もし数学教育研究が思想・哲学を欠き,実践上の効果を短絡的に狙うよ
うであれば,単なる「応用心理学」に陥ってしまうことを指摘する.これは,数学教育研 究の領域固有性が失われることに対して鳴らされた警鐘である.つまり,何が数学教育研 究を数学教育研究たらしめるのかという問題である.この問題は,国際的にも長年に渡っ て議論されてきた問題である(例えば,Sierpinska & Kilpatrick, 1998やWittmann, 1995).
ここで重要なことは,数学の教育過程だからこそ,あるいは,数学の学習過程だからこ そ生じ得る現象の分析であったり,数学教育で実施するからこそ価値があると認められる 実践的提案であったりしなければ,そうした研究を数学教育研究と呼ぶ必要がないという ことである.そうした研究は,どのような過程が数学の教育の過程か,あるいは,数学の 学習の過程か,その本性をどのように捉えるかについて明確化しなければならない.つま り,数学教育研究が数学教育であるためには,数学という営みをどのように捉えるかにつ いての思想・哲学が必要なのである.
前小節で述べたように,科学と比較したときの哲学の役割は,数学教育の科学的探究に 対する根源的反省にある.同様に考えるならば,思想と比較した時の哲学の役割は,思想 の脱個人化にあると言えるであろう.
中島(2001)は,哲学が何であるか述べることが困難であるとした上で,少なくとも哲
学は思想ではないという.そして,次のように述べた.
哲学の大きな特徴は,足元にころがっている単純なこと—そのテーマはおのずから 決まってくるのですが—に対して,誰でもどの時代でも真剣に考え抜けば同じ疑 問に行き着くという信念のもとに,・
徹・
底・
的・
な・
懐・
疑を遂行することです.思想はこの 一つの信念を捨てて,むしろ時間・空間・物体などという膨大な信念を受け容れる ことである
(p. 44,強調原文)
つまり,この規定に従えば,哲学は,少なくとも膨大な信念を受け入れることではない.
中島(2001)のこの捉え方は,上で確認した思想と哲学の意味,すなわち,相対的に個人化
されたものと相対的に脱個人化されたもの,という捉え方と整合的であろう.思想が相対 的に個人化されたものである以上,その思想の妥当性の基準は,その思想の内部にしか持 ち得ない.他の思想と比較して「過激である」という言い回しは成立し得るが,他の思想 と比較して「間違っている」と言える性質のものではない.したがって,ある思想家の思 想を学ぶということは,その思想家の膨大な信念を無批判に受容することを意味する.対 して,哲学は相対的に脱個人化されたものであるから,その哲学の妥当性は,他の哲学と 比較しながら議論することができる.これは,ある哲学者の哲学を学ぶということが,他 の哲学者の哲学や他ならぬ自分自身の哲学,あるいは,自分自身の経験と比較しながら,
その哲学者の信念を批判的に吟味する過程を含み得ることを示唆している.そして,その 批判の矛先は,当然,そうした批判的考察を展開する自分自身にへも向けられ得る.
ここに,思想と哲学の決定的違いが見出される.すなわち,思想は原理的に論駁不可能 であり,哲学は原理的に論駁可能である.実際には,論駁されない哲学の構築を企図する わけであって,この原理的な論駁可能性とは,簡単に論駁可能であることを意味するわけ ではない.哲学が原理的に論駁可能であるとは,哲学が万人に対して開かれており,万人 がその哲学の論駁を試みる資格を有している,という意味である.そして,この「万人」
には,その哲学の提唱者その人自身も含まれている.つまり,哲学は,物事の見方・考え 方の決定に影響を持ちながらも,その見方・考え方によって捉えられた物事だけでなく,
その見方・考え方それ自身をも議論の対象とし得る自己言及的な性格を有するのである.
だからこそ,哲学は,思想と比較して,脱個人化を志向している,と言える.哲学的な 知見が,この世の真理であるのか,あるいは,客観的に共有され得る信念であるのかはわ からない.ある哲学は,考察した本人に限って受容される個人的信念に過ぎないかもしれ ない.しかし,結果的にその哲学が個人的信念に過ぎないものとして終わってしまうとし ても,なぜその哲学が個人的信念で終わるという未来を迎え得るのかと言えば,それは,
哲学が他者による原理的な論駁可能性に開かれているからである.論駁された結果,「そ の哲学は個人的信念に過ぎない」と決着するのである.実際に大勢の人間に共有されるか どうかはわからないけれど,それでも,大勢の人間が批判可能なように,自分自身の脱個 人化を志向する—それが哲学の役割である.