第 2 章 の引用・参考文献
3.2 クリスタリン・コンセプトの定義および具体例
クリスタリン・コンセプトは,Tall (2011)において,「すべてのレベルの数学に対する 示唆も持ちながら,数学的思考の成長における最も洗練されたレベルの発達に対して単一 の統一的基礎を提供する」(p. 3)ために導入され,「その文脈の帰結として必然的である 性質を持たせる,制限された関係の内的構造を持つ概念」(p. 4) と定義されている.Tall
(2011)によれば,同値な性質や同値な命題は,同一のクリスタリン・コンセプトの様々な
側面である.数学のプラトニズムが生じる理由は,このクリスタリン・コンセプトにある とされ,この用語は,「数学は発見か,発明か?」という数学の系統発生に関する二分法 に対して,次のような説明を与えることを可能にする.
〔数学の〕いくつかの側面は,ある特定の問題を定式化して研究することがで きるようにするために 発明され,他の側面は,数学のその結晶体的〔crystalline〕 な本性のために 発見される.それゆえ,それ〔数学〕は,個人によって結晶体化
〔crystallized〕され,専門の数学者達であろうと若い子ども達であろうと,ある特
定のコミュニティの適切に洗練されたメンバー達によって,クリスタリン・コンセ プトとして共有される.
(p. 7,強調原文,〔 〕内は筆者による補足)
Tall (2011)の挙げるクリスタリン・コンセプトの具体例は,数学の三世界に対応する形
で,次の3つにまとめられる.
• プロセプトそれ自体
• 幾何学的命題の同値性に通底する概念
• 公理的命題の同値性に通底する概念
Tall (2011)は,必ずしもそれらがなぜクリスタリン・コンセプトの一例であるかという
形では説明を与えていない.しかし,次のように解釈することができる.例えば,6とい うオブジェクトを1+5, 2×3, 8−2等々として柔軟に取り扱って差し支えないのは,6に 関するクリスタリン・コンセプトがそのような必然的な性質をもたらしているからであ る.また,平行線の性質として「平行線の錯覚が等しい」ということと「平行線の同位角 が等しい」ということ,実数の性質として「空でない上に有界な集合が最小上界を持つ」
ということと「コーシー列が極限値を持つ」ということがそれぞれ同値であるのは,平行 線および実数に関するクリスタリン・コンセプトがそのような必然的な性質をもたらして いるからである.クリスタリン・コンセプトを共有する者達において,6と1+5が等し くない状況,平行線の錯角が等しいのに平行線の同位角が等しくない状況などは考えられ ない.
数学的対象を上記のように捉えるクリスタリン・コンセプトは,数学という営みのう ち,ある特定の問題を定式化して研究する部分—つまり,発明の部分—が人間的な営みに 依存していて,残りの部分—つまり,発見の部分—が必然性に関わる数学の本性に依存し ている点を明確にしている.國本(2009a)が「数学的対象は,緒言的には発明され,創造 される.しかし,一旦それが発明されると,〔中略〕以後,数学は発見されることになる」
(p. 30)と述べるように,Tallのクリスタリン・コンセプトに基づく捉え方は,一般的な可
謬主義的数学観と整合的な見方である.
しかしながら,Tallのアイディアは,その用法が循環論に陥っているという点で,必ず しもTallの意図した「単一の統一的基礎」としての役割や本研究の関心の対象である数学 の固有性を説明する役割を十分に果たせていない.なぜなら,Tall (2011)では,クリスタ リン・コンセプトが,「数学的思考の成長における最も洗練されたレベルの発達に対して 単一の統一的基礎を提供する」(p. 3)ことを目指して導入される一方で,数学は「適切に 洗練されたメンバー達によって,クリスタリン・コンセプトとして共有される」(p. 7)と されているからである.これは,「洗練されたレベル」を「クリスタリン・コンセプトの 所有」として説明するものの,「クリスタリン・コンセプトの共有条件」に「適切な洗練」
を取り上げていることを意味し,循環論である.この点を解消するためには,「クリスタ
リン・コンセプトの所有」と「適切な洗練」がそれぞれ如何なる状態であるかということ を説明するための,根源的な要素を明らかにすることが必要である.
そこで本研究は,クリスタリン・コンセプトの定義文を吟味することで,この問題を解 消することを試みる.Tallの議論を踏まえれば,数学的な考察の対象の背後に,クリスタ リン・コンセプトが存在し,かつ,クリスタリン・コンセプトが存在することによって,
それらの対象が数学に独特の考察対象となっていると考えられる.数学的活動が,数学に 独特の考察対象を取り扱う活動であるがゆえに数学に固有の様相を呈する活動になってい ると考えるならば,先にも引用したクリスタリン・コンセプトの定義文「その文脈の帰結 として必然的である性質を持たせる,制限された関係の内的構造を持つ概念」(Tall, 2011,
p. 4) の中から,数学的活動の固有性を明確化するためのアイディアを抽出することがで
きるはずである.次節では,この定義文に含まれる語の中で,特に,最も数学に固有の考 え方を表出させていると思われる「必然的」および「構造」という語に着目し,これらの 語が一般にどのような意味で用いられているかを検討することで,数学に固有な営みの在 り方を追究しよう.
4 「必然性」の意味
本研究では,Tallの用いる“necessary”という英単語を「必然的な」と訳出している.こ のとき,「ある対象のある性質が必然的である」とは,より数学的な装いで述べれば,「『そ の対象がその性質を持っている』という命題が必然的に真である」ということであろう.
この「必然的な真」(necessary truth)は,古くから哲学で議論の対象となる概念であり,
それは,しばしば,「偶然的な真」(contingent truth)と対比される.
必然的な真とは,他の状態ではあり得なかったもののことである.それは,すべて の状況下において真であったであろう.偶然的な真とは,真ではあるが,偽であり 得たもののことである.必然的な真は,真でなければならないものである.偶然的 な真は,それが起こるときや事物がそうであるときに真であるが,真でなくともよ
かったものである.
(Blackburn, 1996, p. 257) この規定に沿うならば,クリスタリン・コンセプトの定義に含まれる「その文脈の帰結 として必然的な性質」という部分は,その文脈の帰結を述べるにあたっては,その性質の 存在が必要不可欠である,その性質が必ずある,必ずなくてはならない—そういった意 味の表現として受け取ることができる.これに対して,偶然的な真とは,「必ずしもその ような性質がなくてよい」という部分否定である.「必ずない」という全否定ではなく,
「あってもなくてもどちらでもよい」という意味である.したがって,「その文脈の帰結と しての性質」が必然的でない場合というのは,「その文脈の帰結として,あってもなくて もどちらでもよかった性質」,あるいは,「その文脈の帰結としてたまたま現れた性質」と いうことになる.
ここで,必然的な真については,しばしば哲学や論理学で取り上げられる,次のような 古典的な例を挙げることができる.
大前提 すべての人間は死ぬ.
小前提 ソクラテスは人間である.
帰結 したがって,ソクラテスは死ぬ.
上記の帰結は,すべての人間がいずれ死ぬという条件が成立する世界における「ソクラテ ス」がある人間を指示する語であるという文脈の帰結として,必然的に真である.ここで は,最もシンプルな例として三段論法を挙げたけれど,もっと複雑な文脈であっても,そ れまでの文脈で成立している事実に基づいて,その帰結が,他のものではあり得ないよう な唯一の帰結になるのであれば,その帰結は必然的に真である.
これに対して,歴史上,ソクラテスが紀元前399年に毒杯を仰いで獄中で死んだ(哲学
辞典, 1971b)ということは,(今となってはそれが本当にこの現実世界で起こったことであ
るのかを直接目撃することは叶わないけれど,それが確かに実際に起ったことであったな らば,)偶然的に真である.ソクラテスが死ぬときは,紀元前399年ではなく紀元前400 年であるということもあり得たはずだし,その死に方は,服毒ではなく首吊りや自傷とい うこともあり得たはずである.そもそも,自らの意志で死ぬということが必然的な状況で あったのかどうかも疑問である.したがって,この史実は,偶然的に真である,というこ
とが言える.
この例からわかるように,「ソクラテスは死ぬ(あるいは,死んだ)」という命題が必然 的に真であるか偶然的に真であるかは,予め絶対的に決まっているのではなくて,その命 題が,どんな文脈の帰結として扱われるかによって変化し得る.したがって,ある真なる 命題が必然的に真であるか偶然的に真であるかは,・
当・
該・
の・
文・
脈・
に・
関・
す・
る・
人・
間・
の・
認・
識・
に・
全・
・ 面 的・
に・
依・
存・
し・
て・
い・
る.つまり,「ソクラテスが紀元前 399年に毒杯を仰いで獄中で死んだ」
という命題も,それが偶然的に真であるということが人間の認識と独立に決まっているわ けではなくて,ソクラテスがどういう思想の人物で,当時の社会が個々人の思想に対して どういう対応を取っていたか,等々,この命題を帰結とするような文脈を,どういう文脈 として我々が認識しているかによっては,必然的に真なる命題となり得るのである.つま り,ほとんど文脈に関する情報がない状態であれば偶然的に真であるように感じられる
「ソクラテスが紀元前399年に毒杯を仰いで獄中で死んだ」という命題も,哲学の歴史に 詳しい者にとっては,必然的に真な命題であり得る.このことは,必然性と偶然性の区別 に関する議論であるため,その真理観として,Ernest (1998a)のような相対的真偽観を採 用するか,Goldin (2003)のような絶対的真理観を採用するかとは無関係に成り立つ.
数学的な考察の帰結が,偶然的に真なのではなく必然的に真であるというのは,素朴な 数学観や Tallらの数学観と親和的であり,数学的知識がただの社会的協定の帰結ではな く,数学に限定された意味での社会的協定の帰結であると考えようとする本研究の課題意 識に対しても自然な捉え方である.ただし,数学的な考察の帰結が必然的に真であるとい うことは自明なことではない.なぜそれが必然的に真であるかについては,説明を要す る.本研究では,この理由を追究するために,「構造」という語に着目しよう.
5 「構造」の意味
クリスタリン・コンセプトの定義に含まれるもう1つのキーワードは,「構造」である.
本考察は,数学の固有性を追究する一環であるため,数学においてこの語がどのように用 いられているかを示すことが重要である.しかし,後で示すように,数学的な意味での