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ラディカル構成主義

第 0 章 の引用・参考文献

3.2 ラディカル構成主義

(Smith, diSessa, & Roschelle, 1994, p. 153).そのため,学習者の既有コンセプションがそ の後の学習に及ぼす影響を,より一層,考慮した検討が必要となった.

以上より,ミスコンセプション研究は,数学教育研究に対して次のような根源的反省を もたらしたと言えよう.

• 数学的概念の学習は,その概念を獲得したか否かという全か無かの発想で捉えられ ない.

• たとえミスコンセプションであったとしても,教育上,価値のある誤解であること がある.

• ミスコンセプションが正しいコンセプションによって置換できるという発想はタブ ラ・ラサの発想であり,現実的に上手く機能しない発想である.

そして,次の方向性を打ち出したと言える.

• 数学教育研究は,学習者の既有コンセプションがその後の学習に及ぼす影響を検討 していく必要がある.

おける柱となる.

とりわけ,von Glasersfeld (1995b) が提唱するラディカル構成主義 (radical

construc-tivism)は,数学教育研究における構成主義の展開に大きな影響を与えた.ラディカル構成

主義とは,Piagetの発生的認識論の再解釈を通じて形成された,人間のあらゆる認識が主 観的であるとする,「知ること」に関する1つの哲学的アプローチである.Von Glasersfeld 自身の記述で,ラディカル構成主義の原理を最も端的に表したものは,以下のものであろ う*2

1. 知識とは,受動的に受け取られるものではなく,認識主体によって積極的に構築さ れるものである.

2. 認識の機能とは適応であり,経験的世界の組織を提供するものであって,存在論的 実在の発見を提供するものではない.

(von Glasersfeld, 1989, p. 162) 一般的には,上記の第一原理のみを受容する立場を,素朴な構成主義(trivial constructivism) と呼び,両方を受容する立場をラディカル構成主義と呼ぶ.

ラディカル構成主義においては,学習者の振る舞いが,すべて環境への適応であると 見なされる.そのため,ラディカル構成主義は,知識の客観的な真偽ではなく,知識の生

存可能性(viability)を重視する.ある認識主体にとってある知識が生存可能であるとは,

その知識が,その主体がその知識を用いる「目的的文脈や記述的文脈に当てはまる〔fit〕」

(von Glasersfeld, 1995b, p. 14,括弧内原語)場合のことである.簡潔に言えば,学習者が,

ある状況において,ある知識が役に立ちそうだと思うのであれば,その知識は,その学習 者にとってその状況において生存可能である,と評価される.その知識が,真であるか偽 であるかということは,問題にならない*3

生存可能性への着目は,ラディカル構成主義が,知識に関する「道具主義」(von Glasers-feld, 1995b, p. 22)であることを意味する.つまり,「認識を順応の道具〔instrument〕,す

*2同様の整理が,Kilpatrick (1987)や小山(1989)によってもなされている.

*3ラディカル構成主義に沿って考える限り,数学的知識の真偽に関する問題のような,認識論の標準的な問 いに対して,答えを与えることができないだけでなく,そもそもそうした問いを立てることさえできな い.こうした特徴は,Noddings (1990)によって,「ポスト認識論」(post-epistemology)であるとして指摘 されている.

なわち,我々の経験世界に我々自身を適応させるための道具〔tool〕」(p. 14,括弧内原語) として見なす立場である.

ラディカル構成主義がこのような極端な考えを採用する1つの理由は,効果的な指導法 の直接的な探究が必ずしも上手くいかず,まずは,「学習者の数学的な本物感〔reality〕と それらを変化させる内的メカニズムを理解することに集中する」(Thompson, 2014, p. 98, 括弧内原語)という思いがあるからである.学習者が何らかの意思決定をするにあたって 何らかの知識を使用する,という場合,必ずしも,その知識の客観的な妥当性が保証され ているとは限らないであろう.たとえ不確かであっても,学習者なりにその知識の使用が 効果的であると思えるようであれば,その知識が実際には妥当であろうとなかろうと,そ の知識は,使用される,と考えられる.新たな問題に直面したときで,しかも,意思決定 にかけられる時間があまりないような状況ならば,なおさら,その傾向は強まるであろう.

そのように考えることで,ラディカル構成主義は,「観察される者[=学習者]に共感する

〔empathize〕」(Thompson (2000), p. 298, [ ]内筆者・〔 〕内原語)ことを目指すのである.

ただし,ラディカル構成主義は,絶対的な数学的概念の存在を仮定しないしない一方 で,概念構成の過程には,ある種のパターンが存在するということもまた仮定する立場で ある.例えば,Ulrich, Tillema, Hackenberg, & Norton (2014)では,その具体例として,「1 つのみの複合ユニットのモデル」(only one composite unit model)と「2つの複合ユニット のモデル」(two composite unit model)について議論している.これは,A〜Nの14文字 で作ることのできるパスワードの総数 (ただし,同じ文字を二度使用してよい)を問う問 題に取り組む学習者の思考パターンのモデルとして提案されるものである.前者は,頭の 中で14文字の集合を1つしかイメージしていないがゆえに,適切に総数を求めることが できない者の思考パターンを表しており,後者は,頭の中で14文字の集合を2つイメー ジしているがゆえに,適切に14×14によって総数を求めることができる者の思考パター ンを表している.

その上で,ラディカル構成主義から数学教育へ提出される示唆として,von Glasersfeld (1989)は,次のように指導(teaching)と訓練(training)を区別する.

理解の生成を目指す教育的手続き(「指導」)と,単に行為の反復を目指す教育的手 続き(「訓練」)の間には,根本的な区別があるであろう

(p. 163).

また,von Glasersfeld (1983)は,数学を「指導」するために,教師が,学習者の現在位

置と,そこからどのような道筋で概念構成をしていくかを把握することが必要である点を 指摘する*4.したがって,学習者のあり得る思考パターンを精査し,それを実践に還元し ていくことが,ラディカル構成主義に基づいた数学教育研究であると言えるであろう.

以上より,ラディカル構成主義は,次のような根源的反省をもたらしてきたと言える.

ラカトシュ(1980)の可謬主義的数学観を背景に据えれば,数学といえど絶対的な 正しさを保証することができない.つまり,数学教育は,学習者の形成するコンセ プションの正否を評価する絶対的な基準を持ち得ない.

• 絶対的な基準を持ち得ないならば,学習者の視点から見れば,学習者が産み出した ものは,すべて正統な活動の所産として認められ得る.

そして,次の方向性を打ち出したと言えよう.

• 学習者の数学的思考にはある種のパターンが存在し,そのパターンを考慮すること で,学習者のよりよい学びの実現を研究していく必要がある.

しかしながら,どんな学習者の振る舞いも正統なものとして認めていくラディカル構成 の考え方は,これまでの数学教育研究において,数々の批判にさらされてきた.主たる批 判としては,例えば,次のようなものを挙げることができよう.

1. ラディカル構成主義の支持は,客観的真理の探究を放棄せざるを得なくなり (Kilpatrick, 1987),教育の原理としては無責任である(Wheeler, 1987).

2. von Glasersfeldの数学的概念の構成に関する議論においては,個々人の活動が文化

的に状況に埋め込まれているということが,暗黙的に仮定されている(Cobb, 1994, p. 16).

3. ラディカル構成主義の見方は,価値観に関する社会的基礎の確立を困難にしてし

*4もちろん,これは,1983年の段階での示唆である.ややもすれば,このことは,現代においては常識的 な数学教育観であるかもしれないが,それは,30年の時を経てもなお構成主義の影響が強いことを示し ていると言えよう.

まっている(Ernest, 2010, p. 42).

そこで,数学教育研究においては,上記のようなラディカル構成主義の限界を克服しよ うとする動きが現れた.特に,上記の3点の批判に対応して,大きく分けて次の3つの立 場が現れた.

1. ラディカル構成主義の考え方を踏襲しながら,数学的知識の客観性を確立しようと する考え方

2. 社会・文化的視座との相補性を主張する考え方

3. 社会が個人に先立つという新しい形を提示することで,根本的にラディカル構成主 義を放棄する考え方

一般的に,これらは広い意味で社会的構成主義(social constructivism,あるいは,

socio-constructivism)と呼ばれている.次小節では,これらの社会的構成主義を3つに分けて見

ていこう.