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第 1 章 の引用・参考文献

4.2 分析結果

以下,ラディカル構成主義,正統的周辺参加論,そして,本研究に最適な理論的枠組の

3つをRadford (2008)の理論観を用いて分析する.

(1) ラディカル構成主義の分析結果

ラディカル構成主義は,真偽で評価できる内容知ではなく,生存可能性によって評価 できる方法知に着目する理論であった.生存可能性とは,ある知識を使おうとする傾向 性のことであり,その知識の妥当性や知識使用の適時性を問題にした概念ではないので あった.

より具体的に考えてみよう.例えば,19× 21 を (20− 1)(20+ 1) と因数分解して,

400−1=399と計算した学習者が,次に46×53を見て,一瞬,因数分解しようと考える も,結局は普通に筆算で計算した,という場合を考えよう.このとき,この学習者にとっ て,因数分解という方法知は,自然数の積を求めたい文脈において生存可能である.今,

「46×53が(50−X)(50+X)の形に因数分解できる」という主張は妥当でないし,46×53 の計算に因数分解を応用することは適時的であるとは言い難いが,それでも,因数分解と いう方法知は,この学習者にとって,この文脈において生存可能なのである.

ラディカル構成主義は,「観察される者に共感する〔empathize〕」(Thompson, 2000, p.

298, 括弧内原語)ことを可能にする理論であった.例えば,熟達者ならば,46×53を因 数分解しようとする非合理性がすぐに見抜けるのかもしれないが,そういった先見性が 発達途上である初学者にとっては,「因数分解できたらラッキーだな」くらいの心づもり で,後先考えずに因数分解を試みることの方が,ある意味で合理的である.このように,

ラディカル構成主義は,初学者がある方法知を適時的に使用できなかったり,非適時的に 使用してしまったりするという事実の裏に潜む,学習者なりの合理性に注目する(例えば,

Confrey, 1991).前節でもレビューした第二次モデルの構築(Ulrich et al., 2014参照)は,

この学習者なりの合理性を理解するための1つの方法論である.

したがって,Radford (2008) の理論観に基づいて整理するならば,ラディカル構成主 義は,

(P) 学習者が学習者なりに最大限合理的に振る舞っていると仮定することで,

(M) 事例研究を通じて,

(Q) 「被観察者が,なぜそのように振る舞ったのか?(なぜ適時的な方法知を使用しな かったのか,なぜ非適時的な方法知を使用してしまったのか?)」を探究する 理論である.

(2) 正統的周辺参加論の分析結果

レイヴ&ウェンガー(1993)によって提案された正統的周辺参加論は,「学習を分析的に

みる一つの見方であり,学習というものを理解する一つの方法である」(p. 17).学習は,

知識が個人に内化される過程としてではなく,「実践的共同体への参加の度合の増加」(p.

25)として見なされる.正統的周辺参加とは,ある実践的共同体における新参者が徐々に 古参者へと変容していく過程である.

正統的周辺参加論が「学習と意図的教授とを根本的に区別する」(p. 17)という点は,こ の理論を数学教育へ適用する際に最も強調されるべき点であろう.教育のカリキュラムと 学習のカリキュラムは異なる,とも言われる(pp. 78-80).学習者の置かれている状況が,

学習者をどのような実践に対する古参者への変容を促しているのかは,教師が意図的に教 えようとしていることとは別の問題である.例えば,教師は数学的概念を教えようとして いるのかもしれないが,学習者の置かれている状況によっては,学習者は,教師に褒めら れる人やテストで良い点を取ることができる人になろうとしているだけかもしれず,数学 的概念を柔軟に扱える人になろうとしているわけではないかもしれない,と考えるのであ る.その意味で,レイヴ&ウェンガー(1993)の書名にもなっているように,学習は状況 に埋め込まれている(situated learning)とされる.

この理論では,非正統的周辺参加という状態は存在し得ず(p. 10),実践的共同体内にお けるある個人のアイデンティティが,したがって,全人格がどのように変容するかが問題 とされる.つまり,この理論に基づけば,数学学習によって構成されるものは数学的対象 だけではない.何が構成されるかは,何を教えようとしたかに依存するとは限らない,と いうことになる.ある授業で教師が教えた数学的対象について,たとえそのときは学習者 が構成できなかったとしても,学習者はその授業において何らかのアイデンティティの変 容を起こしているのである.このことは,たとえ1回で目標の対象を構成できなかったと

しても,繰り返し同様の指導を受ければ,いつかは対象が構成できるようになる,という 考え方が楽観的であることを示唆する.

この考え方に基づけば,学習者が,自身の所属する共同体における活動に加わっていく 過程において,徐々にその共同体内部での正統性を増していくならば,それはすべて学習 である.これは,初学者が共同体に受容される過程である.

例えば,それまで19×21を筆算で解いてきた学習者が,因数分解を教わった後,数学 の授業において,19×21を工夫して計算するように求められるようになったとしよう.

そして,この後,

1. 内心,「筆算で解けるのだから筆算でいいじゃないか」と感じながらも,求めに応 じて因数分解で解くようになり,

2. 次第に,求められなくても因数分解で解くようになり,

3. いつしか,初めは首を傾げていた「因数分解で解く方が楽だ」という主張に同意し たり,自ら他者に楽であることを伝えるようになったりした

としよう.このとき,これは,この文脈における,あり得る「学習」の一例である.

正統的周辺参加論では,学習の動機が,「共同体の一部に なる」(レイヴ&ウェンガー,

1993, p. 97,強調原文)こととして捉えられる.上記の例で言えば,教師や他の学習者か

ら,より正統的な参加者として承認されることが,学習の動機である.そして,このこと は,学習者が授業中に学んでいることが,単に数学ばかりではない,というだけでなく,

望ましくないことでさえ学んでいるかもしれないということを意味する.例えば,ある学 習者が失敗を恐れ,授業中での活動をどんどん消極的に変化させているとしても,共同体 がそれを黙認する限り,その行動の変容は,正統的周辺参加論における学習なのである.

したがって,Radford (2008)の理論観に基づいて整理するならば,正統的周辺参加論は,

(P) あらゆる学習の動機が共同体の一部になることであると仮定することで,

(M) 事例研究を通じて,

(Q) 「学習者が共同体内でアイデンティティをどのように変容させているか?」を明 らかにしようとする

理論である.

(3) 本研究に最適な理論的枠組の分析結果

Radford (2008)の理論観に基づけば,ラディカル構成主義は,学習者なりの合理性を仮

定することで,既に観察された学習者の振る舞いがどんな動機に基づいていたかを検討可 能にする一方,正統的周辺参加論は,学習者の動機を共同体の一部になることであると仮 定することで,既に観察された学習者の振る舞いがどんなアイデンティティと結びついて いるかを検討可能にする.より対比的に述べるならば,ラディカル構成主義と正統的周辺 参加論の差異は,人間の知性の取り扱いにある.ラディカル構成主義が学習者なりの合理 性を仮定するということは,学習者は,学習者なりに知的に振る舞っていると仮定すると いうことである一方で,正統的周辺参加論が共同体への参加の度合いを問題にするという ことは,個々の学習者が知的に振る舞っているかどうかを問題にしないということであ る.正統的周辺参加論においては,共同体への参加の仕方が変容していれば,それが学習 者の知性によってもたらされた変容であるか否かにかかわらず,すべて学習なのである.

この2つを念頭において,本研究にとって相応しい理論的枠組を考えよう.真正な数学 的活動を考えるにあたって,AMS の観点を考慮するならば,ラディカル構成主義の基本 原理の援用を試みることが自然であった.しかし,その一方で,ラディカル構成主義の知 見を活用することによって,本研究の目的である授業設計ヒューリスティックスの開発を 行おうとするならば,ラディカル構成主義という哲学だけでは,授業設計時に有用な情報 を得ることができない.

具体的には,ラディカル構成主義単体では,学習者がどのように思考し得るかについ て,授業設計段階において予測する手段を具体的に提供できない.本章第3節でも取り上 げた第二次モデル(Ulrich et al., 2014)という用語を用いるならば,妥当性の高い第二次モ デルを構築する手段が提供できないのである.もちろん,ラディカル構成主義に基づく科 学的研究として,妥当性の高い第二次モデルが予め知られているならば,それは授業設計 時に有用な情報源として機能し得ると考えられる.しかし,実際問題として,ラディカル 構成主義に基づく科学的研究においては,個々別々の事例において個々別々のモデルが,

一般性の保証されない方法によって提案されるに留まっており,どうすれば妥当性の高 い第二次モデルを構築し得るのかについては,具体的な提案が行われていない (S´anchez

G´omez, 2014).言い換えれば,ラディカル構成主義は,すべての認識が主観的であると仮