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自然会話における「ダロウ」の各用法の表現機能

第4章で『名大』を利用し、自然会話における「ダロウ」の使用分布を考察した。その結 果、「ダロウ」の各用法の使用頻度にばらつきが見られた。それは、当然「ダロウ」の各用 法が自然会話では異なる表現機能を担っているからであろう。日本語教育では、日本語学習 者に「ダロウ」を習得させるために、「ダロウ」の表現機能を提示する必要があると思われ る。それは「ダロウ」の表現機能を提示することによって、日本語学習者にとって「ダロウ」

への理解と運用の助けになるからであると思われる。白川(2018:69)でも、「文法形式は、そ の用法を抽象的に説明しただけでは、学習者には十分に理解できない場合が多い。母語話者 であれば何となく納得してしまう説明であっても、学習者にとっては不十分であり、もっと 踏み込んだ使い方の説明がなければ具体的な場面に応じて適切に運用することができない」

と指摘している。しかし、自然会話における「ダロウ」の表現機能については、張(2010、

2012)が分析しているが、まだ十分ではないと言えよう。

そこで、本章では、先行研究を踏まえながら、第4章と同様のデータを用い、各用法の

「ダロウ」文の命題内容及びその具体的な使用文脈を詳しく分析し、それぞれどのような 機能を果たしているのかを分かりやすく記述することを試みる。5.1から、順次「推量」、

「命題確認の要求」、「知識確認の要求」、「念押し確認用法」、「不定推量」、「弱い質問」、

「丁寧さの加わった質問」の「ダロウ」の表現機能を分析していく。

なお、「ダロウね」「ダロウけど」などの「複合ダロウ」の機能は「ダロウ」だけではな く、「ね」「けど」などの形式の機能も果たしているため、ここでは基本的に「単純ダロ ウ」の機能について用法ごとに考察していくことにする。

また、第4章で明らかになったように、「丁寧さの加わった質問」の「ダロウ」の使用 例が非常に少なく、また、日本語学習者にとってその習得は難しくないと予想できるた め、本研究では、その表現機能についての分析を割愛することにする。

5.1 「推量」の「ダロウ」の表現機能

4章で分析したように、初対面JP同士の会話でも親しいJP同士の会話でも推量の「ダ ロウ」は比較的多く使用されているが、しかし、いずれも「単純ダロウ」より「ダロウ ね」などの「複合ダロウ」の方が多く使用されている。それはなぜだろうか。第2章でも あげたが、「推量」の「ダロウ」について、安達(1997:85)で、次のようなことを述べて いる。

「だろう」によって文を言い切ってしまうと、聞き手の考えを無視してまで強く断定 しているというニュアンスを持ちやすく、そのままでは不自然になることが多い。こ れを回避するためには、終助詞「ね」を付加したり、思考動詞「思う」の補文に埋め 込むといった手段を講じる必要がある。

本研究の第4章の考察結果は、安達(1997)の主張の正しさを検証したと言えよう。では

64 なぜ「推量」の「ダロウ」は一方的な断定を行っているというニュアンスを持っているのだ ろうか。安達(1997:93)では、それについて次のように論じている。

伝達的な観点から言えば、一般的な判断文が話し手の判断を聞き手に伝えるというこ とを意図するのに対して、「だろう」はむしろ聞き手に伝えるという意図を本来的には 持っていないのではないかということをうかがわせる。「だろう」が伝える判断は、本 来的には聞き手に向けて発信されたものではないために、独断的で一方的な主張とい うニュアンスが生じるのではないか。

安達(1997)の以上の論述は説得力があると思われるが、ただなぜ「ダロウ」は聞き手に伝 えるという意図を本来的には持っていないのかについて言及していない。しかし、第2章で あげている三宅(2010a)の「推量」の規定によって、解釈できる。三宅(2010a)では「推量」

を「話し手の想像の中で命題を真であると認識する」と規定している。「推量」の「ダロウ」

は「想像の中の認識」を表すため、本来聞き手に伝えるという意図を持っていないと問題な く解釈できる。つまり、「推量」の「ダロウ」は現実世界の事実かどうか分からないが、現在話 し手の想像の中で命題が真であるという認識状態を表す。そのような認識状態を「推量」の「単 純ダロウ」によって聞き手に明示すると、聞き手の考えを無視して、一方的に断定的な意見を述 べているというニュアンスを持つようになると考えられる。

ところで、第4章で見たように、自然会話では「推量」の「単純ダロウ」の使用も見られ、

全く使用されていないわけではない。安達(1997:92)でも、次の二つの場合では「推量」の

「単純ダロウ」の使用が可能であると指摘している(番号は筆者による)。

①聞き手の考えに配慮する方向で、前述のニュアンス(筆者注:独断的なニュアンス)

を回避するためには、それが確かであるかどうかは分からないが、自分の述べる意見 や情報が聞き手にとっても受け入れやすいと考えられるというケースが考えられる。

②もう一つは、これと逆方向の理由によって「だろう」による言い切りが行われる場合 である。これは、相手に対する配慮を犠牲にしてでも、強く主張するということを意 図する場合で、しばしば一方的に決めつけるようなニュアンスを持つ。

安達(1997)で下の(99)を①の場合の例、下の(100)(101)を②の場合の例としてあげてい る。

(99) K:変にカラヤンがインターナショナル化してしまいましたからね。

A:もう立ち直らないでしょう。ひとりひとりは名のあるプレーヤーがいるんです が……。 (安達 1997:92)

(100) 巻子「お父さんでもつきあいがあるのかな」

綱子「そりゃあるでしょ。男は、つきあいしなくなったらおしまいよ。学校の友

65 達だって、まだピンピンしてるだろうしさ」 (同上)

(101) A 「借金の返済、もうしばらく待ってもらえないでしょうか」

B 「いいでしょう。月末までなら待ちます。」 (同上)

収集した自然会話における「推量」の「単純ダロウ」の使用例を見ると、いずれも安達

(1997)に指摘された上記の2つの場合で使用されたものである。下の(102)(103)は上記の

①の場合に当たるもので、(104)(105)は上記の②の場合に当たるものであると思われる。

(102) F098:ヨーロッパっていうのはもっとしたたかなのよね、ああいうときにね。

F132:そう。

F098:ね。絶対裏の方、次の次を考えてるわけでしょう。それで動くわけでし ょう。アメリカはまだ単純なのよ。

F132:うん。そうね。 (『名大』036) (103) F004:だって下手したらさー、あれだよ、フランスにいるフランス人の方が日本

映画、(ああ、そうでしょう。うんうんうん)今話題の日本映画を見るチャ ンスが多いかもしれないよ。(うーん)うん。だってね、私がフランスで見 たね、日本映画で、なん、(フランスにいた日本人が?)な、うん、なんて いう人、なんていう監督だったかよく覚えてないけどー、「M/OTHER」

っていう、(あっ、知ってるそれ)映画があったんだけど。

M034:いとうせいこうじゃないの?

F004:違う。 (『名大』092) (104) F026:うーん、でも、まあ、場所もいいしねー。

F162:うん。そうそう。それであと着物脱いだあとどうしようと思ってさ。

F026:そうだねー。

F162:預かってくれるかなー。

F026:預かってくれるでしょう。クロークみたいな。

F162:それで終わってから取りに行けばいい?

F026:うん。まあ、なくても駅だから。(まあ、そうだね)コインロッカーの中、

入れて。 (『名大』120) (105) M036:え、これ成功したことあんの。

M035:あるでしょ。そりゃだっていろんな人に頼んでると思うよ。(『名大』119)

(102)は話し手(F098)が自分の「ヨーロッパ」に対する認識を提示した後,相手(F132)が

「そう」と共感を示した上で,「推量」の「単純ダロウ」によって話し手(F098)が自分の「ヨ ーロッパ」に対する認識を提示し続けているという場面である。(103)は話し手が「ああ」

と相手(F004)の意見を受け入れた後,さらに,「推量」の「単純ダロウ」によって自分も同 様の認識を持っていることを示すものである。(102)(103)から分かるように,相手にも受け

66 入れられやすいと見込まれている文脈では,「推量」の「単純ダロウ」によって自分の断定 的な意見を表明しても,文脈的に一方的に決めつけるというニュアンスが生じにくく,容認 できるようになる。一方,(104)(105)はいずれも話し手が聞き手に求められている情報や意 見を「推量」の「単純ダロウ」によって自分の断定的な意見を表明するものであり,一方的 に決めつけるというニュアンスを持つ。このように,(102)(103)(104)(105)では,「推量」

の「単純ダロウ」は同じく話し手の断定的な意見を表明しているという機能を果たしている。

しかし,(102)(103)のような話し手の断定的な意見が聞き手にも受け入れやすいという文 脈の助けによって,一方的に決めつけるというニュアンスが感じられない。そうではない (104)(105)のような文脈では,聞き手の考えを無視して一方的に決めつけるというニュア ンスが感じられる。つまり,(104)(105)のような文脈での「推量」の「単純ダロウ」の使用 は,聞き手を不愉快にさせ,コミュニケーションに支障をもたらす恐れがあると思われる。

これは,自然会話では,「推量」の「単純ダロウ」があまり使用されていない理由であろう。

以上の分析により,本稿では,「推量」の「単純ダロウ」の表現機能を「断定的な意見表 明」とする。このような機能を持つことで,一方的に決めつけるというニュアンスを持ちや すい。そのため,自然会話では,「推量」の「単純ダロウ」ではなく,「ダロウね」などの「複 合ダロウ」の方が比較的多く使用されている。これは,「ね」などの助けによって,一方的 に決めつけるというニュアンスがある程度軽減されているからであると考えられる。

「推量」の「ダロウ」のこのような表現機能を日本語学習者に提示することによって、第 1章であげている次の(106)のような日本語学習者の誤用例を防ぐ効果があると思われる。

(106) 教 師:それ(筆者注:大学院入学試験)、筆記試験?

留学生:うん、あの、あん、口頭試験もあります。

教 師:うん。

留学生:あの~、まだ、あの、外国語の試験。日本語の試験でしょう(↓)。 フォード丹羽(2005:119)

フォード丹羽(2005)によると、(106)の中の「留学生」は日本語上級学習者であり、「推量」

の意味で「ダロウ」を使用している。この誤用例から分かるように、日本語学習者が「ダロ ウ」の意味を正しく理解していたとしても、適切に使用できるとは限らないと言えよう。も し、この日本語学習者が「推量」の「ダロウ」に「断定的な意見表明」という表現機能があ り、聞き手の考えを無視して一方的に決めつけるというニュアンスを持ちやすいというこ とを分かっていれば、目上の「教師」に対して、(106)のような「推量」の「ダロウ」を使 わないだろうと想像できる。

このように、日本語教育で「推量」の「ダロウ」を導入する場合、「推量」の意味のみを 導入するのでは不十分であり、「断定的な意見表明」という表現機能を同時に提示する必要 があると思われる。「断定的な意見表明」という表現機能を提示することにより、日本語学 習者の「ダロウ」の実際の運用につながるだけでなく、日本語教師にとって、なぜ「推量」

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