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初対面同士の自然会話における CN の「特別用法」の「ダロウ」使用

第 6 章 場面別に見た自然会話における CN の「ダロウ」の使用状況

6.1 初対面同士の自然会話における CN の「ダロウ」の使用状況

6.1.2 初対面同士の自然会話における CN と JP の「ダロウ」の具体的な使用について . 81

6.1.2.8 初対面同士の自然会話における CN の「特別用法」の「ダロウ」使用

表 43 から分かるように、初対面の調査者に対して、CN は JP には見られない下の (173)(174)ような「特別用法」の「ダロウ」を使用している。

(173) 調査者:じゃあいいですね、〈はい〉はい、えーっとCMさんは小さい頃は、どん

な子供でしたか?

CCM10:どんな子供って、んーそうですね、明るい子供だろ?

調査者:あく明るい子供

CCM10:んはい (『I-JAS』CCM10-I)

(174) 調査者:そうですか、うんと長春市とか吉林省で、じゃあ、有名な食べ物 CCM10:有名な食べ物?

調査者:は何(なん)ですか?

CCM10:んーそれ(連体詞)は日本語で、んー〈難しい?〉話せません 調査者:あーどんな食べ物ですか?麺ですか?ご飯ですか?お肉ですか?

CCM10:う、体に良い物

調査者:体に良い物、野菜ですか?

CCM10:ういえ、野菜、じゃないでしょ?

調査者:うーん〈え〉薬ですか?

CCM10:えうんうんうんうん、そうです、そうです (『I-JAS』CCM10-I)

CNに使用されている10例の「特別用法」の「ダロウ」を見ると、その命題内容はいずれ も(173)(174)のような話し手の領域に属するものである。(173)(174)のような文脈で、普通 JPだと、「ダロウ」を使わず、それぞれ直接「明るい子供でした」「野菜ではないです」と答 えるだろう。では、なぜCNは(173)(174)のような場面で、「ダロウ」を使用しているのだろ

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うか。(173)(174)の録音を確認すると、いずれも即時に結論を出したわけではなく、自信が

なさそうでいくらか迷ったような印象の話し方である。また、声もだんだん小さくなり、相 手向けではなく、自分自身に何か確認していて、断定するのを控えているように感じられる。

つまり、CN が「ダロウ」を「断定保留」の表現として使用している可能性があると思われ る。しかし、(173)(174)での「ダロウ」文からは「断定保留」というニュアンスが全く感じ られない。むしろ「知っているはずのことなのに、なぜわざわざ聞くの?」というようなニ ュアンスを持つ発話になってしまっているため、相手の感情を害する恐れが十分にあると 思われる。

では、CNはなぜ「断定保留」の表現ではない「ダロウ」を「断定保留」の表現として使用 しているのだろうか。それは、CNが「ダロウ」を中国語の「吧」に対応して使用しているか らではないかと考えられる。

中国語の「吧」が「ダロウ」と似通った用法を持つことは多くの先行研究で指摘されてい る。例えば、木村・森山卓郎(1992:30)は次のように述べている。

それぞれの意味は、聞き手情報依存か非依存かといった語用論的環境の差によって決 定される性格のものであって、ba(筆者注:「吧」)それ自身の文法的意味としては、真 偽判定の保留もしくは断定の回避、といったようなものと考えておくのが妥当かと思 われる。すなわち、聞き手の情報に依存しない性格の確定内容の場合は、それがbaに よって断定を避けたかたちで表現されることによって、話し手個人の「推量」の表現と 理解され、一方、聞き手の情報に依存する性格の確定内容の場合は、それがbaによっ て判定を半ば保留するかたちで聞き手にもち掛けることによって、聞き手をもコトの 認定に巻き込む効果が生じ、そのことが「同意の促し」もしくは「確認の要求」といっ た読みに繋がる、ということだろう(こうした機構は日本語のダロウと共通するところ ある)。

確かに、下の(175)(175’)(176)(176’)のように、中国語の「吧」には「ダロウ」と似 通った用法が見られる。

(175) 彼は たぶん来ない でしょう。 (筆者作例) (175’) ほか 或许不会来 吧。

(176) 君も 行く でしょ? (筆者作例) (176’) 你也 去 吧?

(175)(176)のような「ダロウ」文は常にそれぞれ(175’)(176’)のような「吧」文に 訳されている。しかし、(175’)から(175)のように一方的に決めつけるというニュアンスは 感じられず、逆に断定が控えられているように感じられる。(176’)からは(176)のような押 し付け的なニュアンスが感じられず、逆に相手のことを配慮して情報を求めているように

98 感じられる。このことは中国語の「吧」と日本語の「ダロウ」が完全に対応しているわけで はないことを示している。

また、仁田(2000:117)は(177)のような状況では「ダロウ」が使えないと指摘している。

(177) (心の中で「家を出るとき、鍵を締めてきただろうか」という疑念に対して) 「??締めてこなかっただろう」 仁田(2000:117)

その理由として考えられるのは、「推量」を表す「ダロウ」が事態の成立を確かさに欠け るものとして、想像・思考や推論の中で捉えたものであり、記憶を呼び起こせばいいだけの 事態、つまり、想像し思考し推論することではじめて捉えられる、といった類の事態ではな い事態に対しては、定かでなくとも、「ダロウ」を使うことができないということである。

しかし、(177)のような状況では次の(178)のように中国語の「吧」は問題なく使用するこ

とができる。

(178) 没锁门 吧 (締めてこなかった だろう)

徐(2011)によると、中国語の「吧」は「ダロウ」と異なり、基本的な意味が「確認要求」

であり、「推量」という用法はそこから拡張された用法である。本研究でも、徐(2011)と同 じ考えを持つ。中国語の「吧」の基本的な意味は「確認要求」であるため、文脈上「推量」

を表すとしても、自分自身に確認する意味を持っており、「ダロウ」のように一方的に決め つけるというニュアンスは持たない。また、中国語の「吧」の基本的な意味は「推量」では ないため、(177)のような状況でただ自分自身に確認する場合に、(178)のように問題なく使 用することができる。さらに、中国語の「吧」は、次の(179)のような命令文によく使用さ れている。「吧」を取り除くと、命令の語気が非常に強く感じられる。それは、中国語の「吧」

が「確認要求」を表すため、相手に相談するようなニュアンスを加え、命令の語気を軽減す る機能を果たしているからであると考えられる。

(179) 大家 坐下 吧。

(皆さん おかけください) (筆者作例)

このように、「ダロウ」と中国語の「吧」には似通った用法があるが、基本的な意味が異 なるため、完全に対応することができない。しかし、CNは「ダロウ」を中国語の「吧」に対 応させて理解してしまい、(173)(174)のような「特別用法」の「ダロウ」を使用するように なるのではないかと思われる。すなわち、CNの「特別用法」の「ダロウ」の使用は中国語の

「吧」からの影響を受けている可能性がある。

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以上、場面、内容、時間が統一されている初対面同士の自然会話におけるCNとJPの「ダ

ロウ」の使用状況を比較しながら見てきた。その結果、CNとJPの発話数はだいたい同じで あるが、「ダロウ」の使用頻度の差は大きかった。CNでは全部で44例の「ダロウ」しか使 用されていないが、JPでは全部で485例、CNの10倍以上の「ダロウ」が使用されている。

このように、JPの使用状況を基準にして考えると、CNは「ダロウ」を「過少使用」する傾 向がある。

また、用法別にCNとJPの「ダロウ」の使用状況を比較した結果、CNとJPでは異なる使 用傾向が見られた。CNでは、「丁寧さの加わった質問」の「ダロウ」以外の用法の「ダロウ」

の使用がいずれも見られる。そのうち、「知識確認の要求」の「ダロウ」が最も多く使用さ れており、JP では見られない「特別用法」の「ダロウ」も比較的多く使用されている。JP では、「不定推量」の「ダロウ」が圧倒的に多く使用されており、「推量」の「ダロウ」も比 較的多く使用されているが、ほかの「ダロウ」はあまり使用されていない。

さらに、CNとJPの「ダロウ」の具体的な使用例を比較した結果、CNでは相手を不愉快に させる恐れがある「ダロウ」の使用例が多く見られた。

このように、使用頻度や使用傾向、具体的な使用例から見ると、CNとJPとの間に大きな 差が見られる。つまり、初級段階で導入されている「ダロウ」は、中級以上になったCNは その用法をいくらか知っているが、まだ適切に運用できていないと言えよう。

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