第 4 章 まど・みちおの表現対象 ――動物・植物
第2節 まど・みちおにとっての植物
2. 自然としての植物
まどの作品での動物は個々の存在として表され、生物学的な生態系の連鎖という概念は時に入る
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が、群れ社会としてではない。一方、植物の場合は静止し、集合体としてまどを包み込む場の一要 素となる。植物は時間の長さと時の流れ、静けさも表す。植物は我々人間の心を和ませる自然の象 徴である。前章 3 節「まど・みちおの感覚と認識世界」で、まどの空間意識の原風景としてレンゲ の田に一人いるまどの体験を示した。レンゲの田に一人おり、空でヒバリが鳴いていた。その時の レンゲは一本一本のレンゲではなく、まどを包む風景としてのレンゲである。「田の外に種が飛んで、
一本ひょろりと生えていたりする。そんな一本は群れのレンゲより背が高くて、美しいんです。」12 というように、視線が一本のレンゲに移れば、焦点は絞られ一旦空間意識から離れる。
〈レンゲソウ〉
見わたすかぎり 一めんの レンゲソウ の
この一まいの 田んぼの レンゲソウ の
この一ぽんの 茎にならぶ レンゲソウ の
このちんまりと 一つの花 レンゲソウ を
見ている 私のなかの 豆つぶのヒバリ
の 前半部
『まど・みちお詩集① 植物のうた』
まどがレンゲの田にいる時に、景色としてのレンゲをただ感じて時を過ごしたわけではない。意 識と視線は移る。一本のレンゲに目を向ければ、田んぼの一面のレンゲソウは意識から遠のく。し かし、意識の背後にそれは保持され、自分の存在意識を支える。そのような自己存在を支える意識 は、広く捉えれば時間的流れと空間的体験の広がりの中で幾層にも重なり、まどの自己存在を形成 する。それらの層は、幼少時の徳山であり、ある日のレンゲの田であり、ある日の「地球分の 一 台湾の、一台湾分の、一水郷」〈鳥愁〉などである。「いるべき両親がいない、そのころは寂しかった」
というまどの回想を第 1 章で引用した。同じ時に同じレンゲを見ても、いるべき両親がいるかいな いかで見え方は違ってくる。まどの心の原風景として、レンゲの田はしばしば語られる。それは森 の木々に包まれた自然ではなく、広い空間である。広いがゆえに空のヒバリは豆粒のように小さく 見え寂しさは深い。この〈レンゲソウ〉の後半は「チルチルミチル チルチルミチルは?/それは ひみつの まじない!/どうわの中の 友だちたちが/みんなみんな 遊びにきますように/小人 になって/ハチや チョウチョウに またがって…」と展開する。まどの視線は一面のレンゲソウ
12 まど・みちお/柏原怜子『すべての時間を花束にして まどさんが語るまどさん』、P.23。
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から一本のレンゲソウ、そして花に移り、ヒバリの声から孤独な我に一瞬戻って、最後は夢の世界 へ入る。このように、まどの視線は意識と表裏の関係であることが分かる。
以下、まどの植物に対する視線と意識を遠景から近景へと作品を通して考察していきたい。
〈いいけしき〉
水が よこたわっている 水平に
木が 立っている 垂直に
山が 坐っている じつに水平に じつに垂直に
この平安をふるさとにしているのだ ぼくたち
ありとあらゆる生き物が…
『まど・みちお少年詩集いいけしき』
まどは〈動物を愛する心〉で次のように述べている。「一体に無生物への愛情は、静的な、透明な、
頭の下るやうな、此体を投げかけてしみじみとその大きい抱擁の中にありたいやうな、そんな風な 気持を含んでゐる。」13 これは動物へは「愛したい心」があるのに対して、無生物へは「愛された い心」があることの説明として述べた文である。まどを大きく抱擁するいい景色....
は無生物である水 と大地を基盤とする。そこに山があり、川や湖、また海がある。そして、まどの心にある景色は緑 で覆われ、植物と混然一体となった自然である。まどにとっては、それら全てはそこに在るべくし て存在しているものである。まどはそれらにある種の意志さえ感じている。水が自分の意志で水平 によこたわり、木が自分の意志で立ち、山が自分の意志で水平・垂直に座っている。その背後にま どの地球の引力に対する考えが潜んでいる。それは力学的な意味以上に、大いなる自然の法則に従 う生き物と物質の真理・美しさに対する感嘆である。〈いいけしき〉のいい..
は眺めの良さだけではな い。「じつに水平に/じつに垂直に」のじつに...
に人間の及ばない自然の摂理に対する畏敬の念がある。
これで分かることは、自然の一部となっている植物は、まどの意識の上で動物よりも無生物に近付 いている点である。同じ生物でありながら、動物と植物でまどの意識が違う。特に景色として自分
13 まど・みちお〈動物を愛する心〉『動物文学』第 8 輯、p.9。
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を包む植物は、まどを包む場となっている。その中で立つ木は、たとえまどの視線が向いたとして も景色から分離したものではない。
ぼくたちは「この平安をふるさと....
にしているのだ」とまどは感じている。この詩にはことばとし ての永遠..
はない。しかし、「ふるさと」にこの詩に流れる永遠性...
を感じ取ることができる。それは水 平・垂直に坐っている山だけではなく、立っている一本の木にもまどは永遠性に近いものを感じる。