第 1 章 まど・みちおの歩みと詩作 ――台湾時代
第 3 節 まど・みちおにとっての台湾
2. 地球人
25 をだしたまど・みちおはエハガキを送り続けた。
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せた上で、更に台湾の文芸家を糾合した「協会」及び機関紙『文芸台湾』をも認知させようとした のである。」57 と自己顕示とも映る西川の行動の意味を解明している。58 西川の志しは『文芸台湾』
第 6 号(1940(昭 15)年 12 月)で、「三大誓願 ・われら台湾文化の柱とならむ ・われら台湾文化の 眼目とならむ ・われら台湾文化の大船とならむ」と文芸台湾社同人の名で表明されている。その 一方、その 2 カ月後の『文芸台湾』第 7 号では西川がそれまでに内地の著名文学者に贈った『文芸 台湾』や西川個人への賛辞に満ちた多くの反響を載せ、第 11 号59(1941(昭 16)年 8 月)では、西川の名 前が入った日本詩人協会編『現代詩』の広告を載せたりもしている。その広告には「日本詩壇の中 堅をなす各派詩人の・・・詩壇未曾有の詩華集!」とある。これらを見ると中島の言う通り、西川 には志し達成のための戦略があり、認知..
させる...
という行動は台湾向けにも強く働いていたと感じら れる。
西川は台湾に思いを寄せた。そのことばには台湾・華麗島が溢れている。多くの点で西川の対極 にいたとも思えるまどは、それでも『文芸台湾』の前身となった『華麗島』創刊号(1939(昭 14)年 12 月)から作品を載せている。『華麗島』から『文芸台湾』に至る前後には西川の台湾の文芸家を糾 合した「協会」の設立と機関紙の発行という計画があった。西川が最初に着手したのは「台湾詩人 協会」の結成 1939(昭 14)年 9 月である。中島が示しているその名簿60には 33 名の名があり、まども 石田道雄の名で含まれている。そして『華麗島』創刊時には「台湾詩人協会」は「台湾文芸家協会」
と改組され、『華麗島』第 2 号とも言える『文芸台湾』創刊号にまどの〈鳥愁〉が載った。西川の 高揚が香るような創刊号で、まどの〈鳥愁〉には独り別世界の印象がある。西川とまどの志しの違 いである。西川は台湾を華麗島と呼び心を向けた。『文芸台湾』6 号(1940(昭 15)年 12 月)の「『文芸 台湾』同人」の名簿にまどは委員として名を連ねているが、それ以後 6 編の作品掲載とわずかな同人 消息に名を見るだけで、1942(昭 17)年 8 月の第 4 巻第 5 号(通巻 23 号)の 2 編を最後に石田道雄の名は 消えた。その号は「現代台湾詩集」のタイトルがつき、まども既作を転載しており、お付き合いの 感じは否めない。その前に〈佇苑歌〉を載せた第 2 巻第 3 号(通巻 9 号) とは 14 ヶ月もの間がある。
まどがこのように『文芸台湾』から身を引いて行った理由は色々想像できるが、一つには時局下 の報国的色彩の強まりが考えられる。第 2 巻第1号(通巻 7 号 1940(昭 15)年 3 月)の同人消息欄には「石 田道雄氏 府情報部より児童劇脚本の執筆を依嘱さる。」とあり、2 カ月後の第 2 巻 2 号にはまど の〈兎吉と亀吉〉が所収された『青少年劇脚本集』の広告が載っている。その広告文には「皇民錬 成運動」とあり、「台湾の生活を醇化し、その中から立派な日本人的性格を助長する様な演劇脚本 を集録したものである。」と結んでいる。まどの〈兎吉と亀吉〉については陳秀鳳が内容にまで触 れて、「アイデンティティの喪失したところに、皇民の資格が与えられるのである。まど・みちお
57 中島利郎「日本統治台湾文学研究 「台湾文芸家協会」の成立と『文芸台湾』―西川満「南方の烽火」から」(『岐 阜聖徳学園大学紀要〈外国語学部編〉』第 45 集(通巻第 51 号)岐阜聖徳学園大学 外国語学部紀要委員会、2006 年 2 月、 p.96)。
58 中島利郎「日本統治期台湾文学研究 西川満論」(『岐阜聖徳学園大学紀要』第 46 集(通巻第号)外国語学部編、
岐阜聖徳学園大学 外国語学部紀要委員会、2007 年 2 月、 p.59-64)。
59 第 2 巻 第 5 号で、奥付では通巻番号が間違って「第 10 号」となっている。『現代詩』の広告は表紙の裏頁にある。
60 中島利郎「日本統治台湾文学研究―日本人作家の台頭―西川満と「台湾詩人協会」の成立―」(『岐阜聖徳学園大 学紀要〈外国語学部編〉』第 44 集(通巻第 51 号)岐阜聖徳学園大学 外国語学部紀要委員会、2005 年、p.45)。
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が、このような目的の脚本集に、自分が自分であることこそ幸せなのだと訴える作品を寄せたこと は、必死に台湾人を日本人に同化させたい総督府の政策に対する大反発に見える。」61 と述べ、ま どの当局に対する姿勢を指摘している。
3.2-2 応召までのまど・みちお
『文芸台湾』はまどの最後の投稿となった第 4 巻第 5 号(通巻 23 号)以降も 1944(昭 19)年 1 月の終 刊号(通巻 38 号)まで発刊を続けた。この最後の号には「台湾決戦文学会議号」とサブタイトルがつ いている。そして編集後記に当たる「端月消息」の最後は「大東亜万歳!」で締めくくられている。
まどの応召は 1943(昭 18)年 1 月で、前年の 1 年間の創作は『文芸台湾』と『台湾文学集』への数編 の再掲載を除けば、中島利郎が「忘れられた「戦争協力詩」 まど・みちおと台湾」62 で示した『台 湾地方行政』と『台湾時報』の作品があることが確認されているのみである。戦争協力詩とされる
〈朝〉〈はるかな こだま〉2 編が載った『少国民のための 大東亜戦争詩』の発刊は 1944 年(昭 19)9 月で、まどが戦地に行った後である。63 応召までのまどの気持ちがいくらかでも垣間見られるのは 中島が同論文で問題とした『台湾時報』1942(昭 17)年 12 月 5 日掲載の〈妻〉と〈近感雑記〉である。
〈近感雑記〉は「北原白秋先生がつひに逝かれた。」と書き出し、白秋に対する想いと白秋なき後 の日本の童謡界を憂い、「この国家の超非常時下、真に正しい新童謡への発足は、実に大きいこれ からの仕事である。(中略)日本の子供たちに、あたらしいうたを、あたらしい力を、際限なく注い でやらねばならないことだつたのだ。しかし先生は逝かれた。ついに逝かれた。」64 と述べ、それ に続けて台湾少国民文化の創造と推進に言及している。中島はこれをまどの台湾少国民の「皇民化」
と読み、戦争協力詩とされる〈朝〉〈はるかな こだま〉はこの〈近感雑記〉の延長線上に位置す ると判断した。そして、自分を「地球人」と称するまどとの間に大きな違和感を覚えると感想を述 べている。ここでは〈近感雑記〉の文から、白秋に関することに触れておきたい。
ご生前、一度も直接お訪ねしたことのなかつたわたくしだが、ながい間童謡を教へていただ いてゐたので、多少わたくしなりの思ひ出は教へられる。いちばん忘れられないのは、一昨年 だつたか、第一回児童文化賞(童謡)が与田 準(ママ)一氏に決定をみて、その事で同氏が先生を訪 ねられたとき、特にわたくしに伝へてくれといはれたといふあたたかい激励のおことばだ。し かし、その年の秋までに出すやうにすすめられてゐた童謡集も、つひに出さなかつたばかりか、
種々の理由があつたにせよ、二年を経た今日なほ、仕事らしい仕事を纏めえないでゐる程のだ らしなさだ。おろかしくも今となつて、悔い嘆きお申訳なさに涙を感じてゐるが、も早なんと もせん術なく胸ばかりふさがる思ひだ。
61 陳秀鳳 前掲論文、p.35-36。
62 中島利郎 前掲論文「忘れられた「戦争協力詩」 まど・みちおと台湾」、 p.24、29、44。
63 与田凖一等の連名による「あとがき」の日付は出版の 1 年以上前の 1943(昭 18)年 8 月 10 日になっている。
64『台湾時報』、1942 年 12 月 5 日。
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白秋の死去は 1942(昭 17)年 11 月 2 日である。〈近感雑記〉の『台湾時報』掲載は 12 月 5 日なの で、その間一ヵ月ほどである。白秋死去のニュースを聞いて間もなく書いたこの文には白秋に対す る想いが溢れていて昂った感じがある。
ここで、他の詩人たちがまどにとってどういう存在であったかを少し触れておきたい。まず人間 的な意味では、東京での就職を二度まで誘った与田凖一が一番大きいであろう。与田は戦後のまど の就職の世話もしている。次に『昆虫列車』をともに創刊した水上不二は、『動物文学』『童話時 代』『童魚』などで互いに名を知り文通が始まったと思われる。二人はそれらにほとんど同じ時期 に投稿を始めている。戦後の交流や、水上不二が没した 40 年後の『水上不二さんの詩』の刊行に尽 力した65ことを見ると、まどの水上に対する親しさを感じる。次に台湾の西川満であるが、西川と の関係は先に見たようにまどに近い存在という印象は受けない。以上、これらは人間的な面である が、創作面での関係については、まどは水上作品を「ふしぎな美学」と言い、「私にはないものが あった」と述べた66そうだが、創作上の影響とは言えない。それは『昆虫列車』の真田亀久代等に も言える。ただ、まどが好きだったという尾形亀之助の世界に、まどは「とぼけた所があって、無 意味なことをやっている、世の中のことは何も感じないで、ただ自分の中にとじこもっている、遊 びみたいな詩」67 を感じ、自分の共感を表明している。谷悦子はそれを「意識下にブラックホール のような空洞を背後に持つノンセンスな笑い」68「状況に左右されないで、自分自身に即して生き ていく存在のあり方」69 と分析し、まどのナンセンス性を帯びた〈毒ガス〉〈ポン博士〉の創作の 共通土壌と見る。しかし、それさえも影響とは言いにくい。そういう中で白秋については「白秋先 生のことでは、擬音について、私はずいぶんその作品から感銘を受け、また、学びとったものです。」
70 と擬音についての白秋からの影響について述べている。「白秋は非常に大きい存在でしたから、
意識せずに知らず知らずにそういうのが出ているというのはみんなあると思いますから、私の場合 もあるかもわかりませんが、意識的にはそんなに無いのではないでしょうか。(中略)『月と胡桃』
は読んだんですけど、それ以外はあまり読んでいないんです。」71ということばもあるので、擬音 以外は全体として白秋からの影響も直接意識されるようなものはなかったと言ってよい。ただ、人 情的には最初に認めてくれた恩人という意識はもっていたであろうし、1929(昭 4)年 7~8 月の白秋 の台湾訪問の際には白秋の講演を一番前で聞いた体験もある。72 また、自分の「まど」という名が 喫茶店やら新聞のコラムに沢山あるので嫌になって変えようとした時に、白秋が「いい名前だ」と
65「あとがき」『水上不二さんの詩』水内喜久雄編、ポエム・ライブラリー 夢ぽけっと、2005 年 11 月、p.343-346。
66 同書、p.345 。
67 阪田寛夫『まどさん』、p.100。
68 谷悦子『まど・みちお 詩と童謡』、p.49。
69 同書、p.50。
70 まど・みちお/柏原怜子『すべての時間を花束にして まどさんが語るまどさん』、P.123。
71 谷悦子『まど・みちお 研究と資料』、p.198。
72 まど・みちお/柏原怜子『すべての時間を花束にして まどさんが語るまどさん』、P.56。白秋の台湾滞在は昭和 9 年 7 月 2 日~8 月 10 日であった。(北原白秋『華麗島風物誌』弥生書房、1960 年 12 月)。伊藤英治は「遠くの席 から眺めただけ」ということばを伝えている。(「まどさんの眼と心」『季刊 銀花 no.136 冬の号』文化出版局、
2003 年 12 月、p.68)。