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第 2 章 まど・みちおの歩みと詩作 ――戦後

第 1 節 日本での出発

1.1 出版社勤務と厳しい現実

まどは 1946(昭 21)年 6 月に広島県大竹港に引き揚げ船で無事帰還、昔の佇まいの郷里徳山に辿り 着いた。神奈川県川崎の味の素工場の守衛として職を得、妻子と一緒に生活できるようになったの は半年後である。

台湾時代に職場やキリスト教会内での人間的な醜い部分に、失望・嫌気・疲れを覚えたまどは、

戦時中の軍隊においても変わらない。その失望を日誌に「腕時計が「インチキインチキ」と、いち んち鳴ってゐるのが、ただ苦のタネだ。」と書いた。1 そして、戦後守衛として働いてもその潔癖さ は同じである。味の素工場で働き始めた時は皆食べるのに精いっぱいの時代である。働く仲間が工 場から物を持ち出すのは日常茶飯事であった。まどはそれら不正に対する怒りと、現実には苦しい 自分の生活などで体調さえ崩した。ことばを書きしるすことは息をすることの次に大事であったま どにとって、守衛として働いた 2 年近くは日誌を書くこともままならない苦しい体験であった。そ れに、戦中に記した日誌や植物記を失った喪失感もその当時は強かった。そのようなときに与田凖 一から声がかかった。復刊されることになった子ども雑誌『コドモノクニ』の編集の仕事であった。

まどは 1948(昭 23)年 10 月、味の素川崎工場から東京の婦人画報社に転職した。

私は編集という仕事についても、児童文化や幼児教育についても全く無知で、むろん復刊誌 への抱負などは持っていませんでした。ただその投書欄に投書して北原白秋に選ばれたことで、

生涯童謡を書き暮らすことになった雑誌、「コドモノクニ」そのものとの浅からぬ因縁に感激し てはいりました。2

その後の 10 年に及ぶまどの出版社勤務について、『チャイルド本社五十年史』を参照して考えて みたい。まどの就職先の出版社名と雑誌名にはいきさつがあって紛らわしい点がある。まず、婦人 画報社であるが、戦前に『コドモノクニ』を発刊していた時は東京社であった。まどが就職した 1948(昭 23)年に社名を婦人画報社に改めた。また、予定していた雑誌名も変更された。種々の経緯 から誌名の『コドモノクニ』は『チルドレン』に、さらに『チャイルドブック』にと変更された。

創刊号は予定どおり翌 1949(昭 24)年の 3 月に、4 月号(入園号)として刊行された。まどはその『チ

1 阪田寛夫 『まどさん』、p.195。

2 石田道雄「思い出すままに」『チャイルド五十年史』チャイルド本社、1984 年 1 月、p.116。

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ャイルドブック』の編集長であった。ところが、創刊号が出た年の秋に国民図書刊行会が『チャイ ルドブック』の発行を引き受けることになり、同社発行の『日本のこども』と合併して『チャイル ドブック』の紙名を継承して発行することになった。3 国民図書刊行会4は 1944(昭 19)年の出版企業 整備統合によって帝国教育出版部から変わったもので、与田凖一との縁が深い。『チャイルドブッ ク』と合併した国民図書刊行会の『日本のこども』も、元をたどれば『コドモノヒカリ』で、その 後『日本ノコドモ』から『日本のこども』となった。『コドモノヒカリ』は『コドモノクニ』の編 集をしていた奈街三郎等が独立して起こした子供研究社から創刊した雑誌で、後に奈街は小川未明 主宰の『お話の木』も出した。しかし、『お話の木』は 1 年あまりで経営難で廃刊し、『コドモノ ヒカリ』も帝国教育出版部で引き受けて続刊することとなった。その編集者として与田は迎えられ たのである。『チャイルド本社五十年史』を通読して感じられることは与田の存在の大きさである。

与田が戦前戦後を通して、三度もまどに仕事のことで声を掛けることができた背景には、そのよう な児童書出版界における与田の力があった。

国民図書刊行会に移ってから、『チャイルドブック』の編集は『日本のこども』の編集者であった 城谷花子が専属となり、まどは他の多様な仕事に忙殺されることとなった。

それで私は与田さん、顧問の山下俊郎先生、「婦人画報」の編集長の熊井戸立雄さんらのご 助言に支えられ、我流で、ただやみくもに出発したように思います。(中略)

さて国民図書に移りました私は、それまでのようにひとりで勝手なことはやれなくなりまし た。こんどは城谷花子さん、小松アヤ子さんとご一緒です。仕事はむろん編集ですが、合併し た「チャイルドブック」だけでなく、さまざまな書籍類にも関わりました。5

まどが挙げたさまざまな書籍類は次のようなものである。『チャイルドブック』『保育ノート』

『新児童文化』『保育講座』『アメリカ教育使節団報告書要解』『うたとリズム』『こどものくに 名作選』『幼児げき』「教科書」「スライド」。そして、それぞれの仕事について次のような思い 出を書いている。6

・『チャイルドブック』:一番つらかったのは原稿料の催促を受けても、確実な支払日が答えら れなかったこと。

・『保育ノート』:〈ふしぎなポケット〉7 を 1954(昭 29)年 9 月号に載せた。

・『こどものくに名作選』8の編集の際、まどは編集者として自作の収録は辞退した。

3『チャイルド本社五十年史』、p.111。

4 1960(昭 35)年にチャイルド本社と改めた。

5『チャイルド本社五十年史』、p.116-118。

6 同書、p.118-120。

7 ポケットの中のビスケットが叩くたびにふえる、そんな不思議なポケットが欲しいという内容の童謡である。何 かしらまどのその当時の窮状を彷彿とさせる。

8『コドモノクニ名作選』アシェット婦人画報社、2010 年 8 月、下巻 p.214 にはまどの〈雨ふれば〉が載っている。

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・「教科書」:編集部全員に社長まで加わって、夜を徹して理科か算数の横書きの教科書原本の 整理をしたこともあった。

特に教科書の仕事の大変さは文部省の検定を通さなければならないという絶対条件があったから である。1947(昭 22)年に検定制度が施行され、国民図書刊行会も 1950(昭 25)年度用から検定教科書 を手掛けるようになった。出版目録9によると初年度はローマ字と高校音楽の教科書二種類だったの が、26 年度用は新たに 9 科目が増えた。時流とはいえ、出版社としては無理がある。柏原芳一「教 科書発行のころ」にも、「一応原稿完成という段階で社に原稿が渡されると、急拠その担当者を決 めて制作に当たらせていたようである。そして原稿申請の提出期日に合わせて、手を貸せるものは 業務の合間を利用して全員総がかりで進行し、提出用原稿を完成させた記憶がある。(中略)作業が 深夜に及ぶことがあって、遠くて帰宅できないものが事務室に泊まり込んだこともあった。」10 と ある。まどの日誌を辿ってみよう。1951(昭 26)年からのものである。

1951 年 2 月 25 日 日曜

思いきって、ノート、原稿用紙を少々買う。このノートもそれだ。何年ぶり、何十年ぶりと いうきもちだ、日誌をかくのは。見合がすんでいよいよ話が定った妻へ手渡したあの大学ノー ト大型十数冊へ書きつづった日誌。つくづく惜しい。戦地で書いたものまで烏有だ。もういう まい。作品もなにも一切なのだから。それにしても帰還後、はたしてどれだけの仕事をしたの だろう。ぜんぜんではないか。11

5 月 25 日

徹夜やら、残業やら、日曜祭日なしに、音楽、かきかたの教科書の仕事に追はれ、へとへと。

日記もぜんぜん。(略)酒田冨治氏来。「幼児のうた」12 にうたを書けと。

6 月 10 日

ひさかたぶりに早く帰って、日誌というもの、机というものについてみる。酒田氏への幼児 童謡六篇即興、ハガキにかいて……明朝ポスト。13

国民図書刊行会の出版目録にある新たな 9 科目の中に「小学校かきかた」や「たのしいおんがく 1~3 年」などが入っており、5 月 25 日のまどの日誌と合致する。また、6 月 10 日の部分は「一枚

9『チャイルド本社五十年史』、p.268~269。

10 同書、p.167。

11 阪田寛夫『まどさん』、p. 223。

12 佐藤宗子「酒田冨治曲譜「ぞうさん」の意味―もう一つの享受相と童謡の教育的活用―」『児童文学研究』第 44 号、日本児童文学学会、2011 年 12 月、p.32。この論文で、佐藤は綿密な調査の結果、次のような結論を導き出 している。「〈ぞうさん〉の初出は 1951 年夏に白眉音楽出版社から刊行されたと考えられる、酒田冨治編『新し い幼児のうた』であると、みなす。」

13 阪田寛夫『まどさん』、p.224。

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の葉書に書きこんだ六篇のなかに「ぞうさん」が含まれていた筈だ。」と阪田の推測があって、〈ぞ うさん〉誕生の逸話としてしばしば引用される。

阪田はこのようなまどの軌跡を辿りながら、「ここまでに紹介してきたまどさんの童謡で、自我の 痕跡をのこさぬ、つぎめひとつない、ユーモアを湛えた作品の多くが、この「怒り」と「焦り」を 原液に、吐気・微熱・頭痛・潰瘍・浸潤をたえず伴なって滲み出し、戦後の十数年間に集中して作 品化されている。 ――怒りと焦りなどと書いたが、それはまた「愛」と「いたみ」と言っても同 じだろう。」14 と述べている。また、谷悦子もこのまどの状況を「自己喪失の危機」と見て、〈ぞう さん〉誕生を「無意識層で燻っていた自分が自分であることへの思いは、苦悩に満ちた現実の時間 の中で濾過され、突然、簡潔な明るさを湛えた形象となって出現したといえよう。」と捉える。15

1.2 まど・みちおの自己存在

第 1 章からここまでまどの徳山での幼少時代と台湾での歩み、戦争を挟んで復員後の数年間のま どの歩みを見てきた。谷が自己喪失の危機.......

と捉えたその時のまどの心は、引用した 1951(昭 26)年 2 月 25 日の日誌に端的に表れている。大事に書きためたものがすべて烏有に帰した虚無感と、日本に 帰ってからの自己存在のよりどころとする書くという行為....................

、つまり、まどにとっての真の仕事..

を全 然していないという焦りが自己喪失の危機となっていた。戦地での日誌にもそれを書く動機として

「応召中の自分の生涯を空白にし度くない気持は強い」と表現したまどである。自己存在として書 くという行為そのものだけがよりどころであれば、紙に書かれたものが烏有に帰しても惜しい気持 ちはないはずである。書くことを通して見つめ発見する自己だけではなく、まどには書き残された ものはそれ以上に重要である。「自分の日誌はいはば『作品』だ。彼のはいはば『素材』だ。」16「こ の裏表紙をさへも空白にしておくのが惜しいやうな気持ちだ。祈の部屋にでもは入つたやうな感じ を、この紙質は自分にあたへる。」17 と日誌に記している。創作に専念するために国民図書刊行会 を退社した数年後の 1963(昭 38)年以降もノートとして 10 冊を残している。18

老年になり病院での一人生活になってからは、日記は黒と赤の二色を使い、黒字は頭、赤字は心 で、一人で対話をしている。19

そうすると、「こうなんだ」と言う黒いペンの自分に、赤は賛成したり、反対したり、励まし てくれたり、「そうだそうだ」って言ってくれたり、「もっと元気出せ」と言ったりします。

書く作業はまどの内部での自己対話であり、ことばになる以前の混沌からの意識化であって、し

14 阪田寛夫『まどさん』、p.227。

15 谷悦子『まど・みちお 詩と童謡』、p.61-63。

16 阪田寛夫『まどさん』、p.204。

17 同書、p.209。

18 谷悦子『まど・みちお 詩と童謡』、p. 61。

19 まど・みちお『百歳日記』、p.28。