第 4 章 まど・みちおの表現対象 ――動物・植物
第2節 まど・みちおにとっての植物
5. 主題化された植物
まどは動物に対して互いに相見る視線の意識を持っている。前節でも引用したまどのことばをも う一度示したい。「動物。それを現実に目の前に見詰める時、この時間的に永劫空間的に無限と言つ てもいゝ宇宙に於いて、はからずも時と場所とを同じうして相見てゐる事の、不思議さ、厳粛さ嬉 しさ」。19 動物に比べれば、植物に対してのまどの相見る...
という意識は弱く、自分の方が植物を見 るという意識が強い。それでも、まどは「はからずも時と場所とを同じうして」道端の植物と出合 うことに不思議さ、厳粛さ嬉しさを感じている。
〈みちばたの くさ〉
みちばたの くさ ちいさな くさ ゆきすぎかけて
19 まど・みちお〈動物を愛する心〉『動物文学』第 8 輯、p.11。
130 よく みたら
あった あった あった はなが あった
あおい ちいさな
ほしのよう 第 1 連
まどにとってこの道端の草は、よく見る....
までは目には入ってもその意識は弱かった。危なく通り 過ぎるところであった。しかし、存在に気付き足を止め、よく見ると花があり、その花は青い小さ な星のようだと感じた。最後に焦点を当てて見つめたのはこの小さな花である。まどの植物に対す る意識化の過程が作品化されている。先の〈レンゲソウ〉もそうであった。ちょうどカメラが被写 体をクロースアップしていくようである。ここにまどの見る..
ということに対する意識の高さが表れ ている。見つめた結果としての最終的なまどの意識世界は、〈レンゲソウ〉のように空想世界へ飛ん だり連想を伴う。
〈オオバコ〉
ためしに
ガリバーに なったつもりで じべたに はらばって 見てください
手のとどく 地平線に 三つ四つ よりそって立つ その みどりの尖塔を
どの塔のまわりにも むらがる
キララのような 白鳥たちを 前半部
『まど・みちお詩集① 植物のうた』
まどの短詩「ふくが/ちぢんで/ふとれない」〈ワサビ〉などは連想の延長線上にある。そのよう な作風は台湾時代の初期の作品から見られる。植物に限れば、《花箋》にある台湾の花に関する短編 などである。
〈くろとん〉
らぐびいのユニホームを着てゐます。雨がふると、黄いしづく、赤いしづく、青しづく。
どんなしづくでも垂らしてごらんにいれます。
《花箋》『台湾風土記』第 3 巻
131
クロトンは熱帯性の常緑低木で非常にカラフルな葉を持つ。観賞用として親しまれている。下の 龍船花も熱帯性の常緑低木で、桐のような大きな葉と派手で大きな橙色の花を咲かせる。
〈龍船花〉
この七面鳥は怒つてをります。
《花箋》『台湾風土記』第 3 巻
このようなまどの発想と表現は詩のレトリックとしての喩であるが、視覚性が中心である。この ような作品はある意味で自分を離れた自ら楽しむまどの世界となっている。
以上、まどの植物に対する視線と意識を遠景から近景へと作品を通して考察した。このような遠 近の視線の違いは、表現対象の中では特に植物において現れる。動物の鳥や無生物である山・天体 にも遠方という意識が現れることがあるが、他は接写的意識で主題化された動物や無生物である。
その場合、植物と同じようにそれらをよく見ることによって連想や短詩的比喩として表現される場 合が多い。そして、それらの喩とも連想とも捉えられる想いは、童話の世界へ行ったりコスモロジ カルな永遠性を帯びた思索の世界へつながっていく。
この節の考察の中で折々植物と動物との相違に言及した。それをここでもう一度まとめたい。植 物は偉大な自然の摂理の象徴としてまどに捉えられている。限りある命をもった動物とは違って、
命の終わりのない、めぐりめぐる永遠性をもった植物である。その植物は我々動物を養い、楽しま せ、母のような有り難い存在である。まどは〈動物を愛する心〉で動物と無生物を対比しながら、
自己を取り巻く森羅万象への想いを述べた。その中で植物はほとんど触れられていないが、「私たち 生物よりは先進であり、父であり、母であり、私たち生物の力とはまるつきりかけ離れた力と言ふ か、悟と言ふか、大きい愛のやうなものが感じられる無生物に対し、深慈を乞ひ、宥恕を求め、慰 撫を希はずにはゐられないのだ。」20 という無生物に近い気持ちを、まどは植物に対しても持って いる。そして、実際には生物としての命があり、花が咲き、実を結び、目を楽しませる美しさを持 つという点でも、植物はまどにとって特別な存在である。
20 まど・みちお〈動物を愛する心〉『動物文学』第 8 輯、p.11。
132