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行為者が「非指示的」な場合

ドキュメント内 第1章 (ページ 185-200)

第7章 <不可避系>

3.2 非<当為判断>の場合

3.3.2 行為者が「非指示的」な場合

調査の結果、この場合には、述部が<達成の自己制御性>、且つ未実現である事態の実例 しか確認できなかった。ここでは、まず例文から見ていこう。

(16) だからモバイルは、電源コンセントから離れて自由に使えるものでなくてはなら ない。しかし、それにはバッテリーが十分機能しなければならない。だからこそ、

充電や電池にも高い関心を払わざるをえない。(『インターネット時代の文章術』)

(17)教育分野を含め、自己に関する情報の自己管理を当然のものとする傾向は、国際 的にも、国内的にも高まってきている。指導要録の開示にしても、時期と方法の 問題を考えるべき段階にきているという認識を持たざるをえない。

- 177 - (『内申書の開示と高校入試の改変』)

(18)政治家の評価というものは歴史が下すべきで、同時代人が判断すべきものではな いのである。政治家というのは、手が汚れざるをえない仕事である。だからこそ、

政治はその結果で判断せざるをえない。 (『これが世界の読み方だ』)

以上の実例から、行為者が「非指示的」の場合には、(16-18)の中の「関心を払う」・「認 識を持つ」・「判断する」というような、<達成の自己制御性>の述部しか確認できない。そ の上、これらの事柄はいずれも「未実現の事態」として見なされる。例えば、(16)・(17)

の「充電や電池にも」や「指導要録の開示にしても」という項では、並列が表されるモ・

テモから考えれば、主語に関わる事態である「高い関心を払う」や「時期と方法の問題を 考えるべき段階にきているという認識を持つ」ことは、いずれも未実現な事態である。ま た、(18)の「政治」という概念名詞が主語に来る場合には、既実現な事態が表される余地 がなくなってしまう。

では、なぜ行為者が非指示的である場合にのみ、当該事態が制御可能、且つ未実現であ るという特徴がみられるのだろうか。この点について、(16)を例にしながら、筆者の見解 を述べたい。行為者が非指示である場合は指示的である場合とは異なり、「誰」にとって、

「充電や電池にも高い関心を払う」ことが不可避であるのかが明示されてない。行為者が 非指示的であるため、それに相当する人物はオープンな状態にある。従って、既実現な事 態が表される余地もなくなるという訳である。その状況に該当する人であれば、誰にとっ てもこの状況は不可避である。「だれにとっても」という逆節条件文が含まれる点から考え れば、当該事態は制御不可能な事態より制御可能な事態であると考えた方が自然であろう。

なぜなら、制御不可能な事態では、<非自己制御性>・<過程の自己制御性>の事態も含まれ るため、例え同じ状況に置かれているとしても、全ての人が同様な反応を示すとは限らな いからである。

誰にとっても不可避なこととは、言い換えれば、その状況に該当すれば、二人称(あな た)も含まれることになる。このように二人称が含まれ得るという点で、一種の「間接的 な行為要求」の表現として考えることができる。「間接的な行為要求」表現である限り、当 該事態の実現が表現者にとって「望ましい」ものだという解釈も可能となろう。即ち、<当 為判断>を表すものという解釈が可能になるのである。

- 178 - 4.結論

本章では、ザルヲエナイが「状況からの不可避」を表すことを基本としつつ、当該事態 が「誰」にとって不可避なのかというところに焦点を与え、どのような場合に<当為判断>

と見なされるのかを検討してきた。結果として、<当為判断>と見なされるケースは以下の 通りである

① 行為者が3人称であり、且つ当該事態が制御可能、さらに未実現の場合

② 行為者が「非指示的」な場合

特に②は、二人称が含まれうるという点で、一種の「間接的な行為要求」表現として考 えられる。よって、当該事態の実現が表現者にとって「望ましい」ものであるという解釈 が可能になり、<当為判断>を表すものという解釈も同様に可能だとした。ただし、ザルヲ エナイは主語に二人称が来られないため、これらの場合が<当為判断>との関連はあくまで も間接的だと考える。また、本研究では、前章のところでザルヲエナイについて、事態の 行為者が行為を行う意図性がない点から考えれば、価値判断のモダリティとしては見なせ ないと結論づけた。

このように本章の考察で得た結果、すなわち、<当為判断>からみたザルヲエナイの特徴 を整理したのが表2である。

表2:<当為判断>からみたザルヲエナイ(筆者作成)

ざるをえない

間接的に<当為判断>を表す場合 ○

<当為判断>

を表さない場合

既実現な行為 〇 制御不可能な事態 ○ 望ましくない事態 〇 表現者以外の判断 知識表明 〇 行為遂行 ×

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終章 おわりに

1.はじめに

本研究は、価値判断のモダリティについて、個別の形式を考察した上で<当為判断>とい う観点に立ちながら検討を行なってきた。本章では、これまでの論考をまとめた後、<当為 判断>からみた価値判断のモダリティの体系を論じる。最後に、本研究の貢献と今後の課題 を述べていく。

2.価値判断のモダリティの分類

本研究では、<必要妥当系>と<許容系>は、価値付与のあり方自体は対立しているが、「妥 当類」と<許容系>とが当該事態q以外の事態の可能性が含意される共通点があると考えた 上で、意味上では完全に対立していないと結論づけた。また、ザルヲエナイは主語に二人 称が取れない点と、事態の行為者が行為を行う意図性がみられないといった点から判断し て、価値判断のモダリティとしては見なせないことを明らかにした。このように、本研究 における価値判断のモダリティの下位分類をまとめたものが、以下の図1である。

図1:価値判断のモダリティの下位分類の関係図(筆者作成)

価値付与の在り方が対立

2.1<必要妥当系>

2.1.1「妥当類」

まずベキダについてであるが、ベキダの「~qの否定的評価」とホウガイイとの関連性 について検討してきた。従来の研究では、ベキダは「~qの否定的評価」というニュウア

<必要妥当系>

「必要類」:なければならな い・てはいけない

「妥当類」:べきだ・ほうがい い・といい・ばいい・たらい い

<許容系>

てもいい

なくてもいい

- 180 - ンスがなかった点で、類義表現であるホウガイイとは一線を画すとされてきた。それに対 して本研究では、ベキダには語用論の観点から「~qの否定的評価」がある場合とない場 合との双方が存在すると考え、どのような条件において、ベキダに「~qの否定的評価」

が含まれやすいのかを論じた。結果として、ベキダは「行為者が指示的」である場合と、

行為者が非指示的、且つ主題が「集合限定」である場合にのみ「~qの否定的評価」が含 まれやすくなるとの結論を得た。こうした傾向が見られる理由を、特定できる人物と限定 されたコト(行為)には「~qの否定的評価」を与えた方が、「q」への実現の要求の妥当 性がより強調できるからだとした。一方、行為者が「非指示的」で、かつ限定される行為 が含まれない場合には、不特定な行為者にqの実現を強く要求することは難しいと考えら れ、「~qの否定的評価」に触れずに単なる理想的事態が述べられる場合が多いことも分か った。

次に、ホウガイイについてであるが、本研究では「pよりqほうがいい」が含意された

「差異比較構文」に着目し、「-ルほうがいい」と「-タほうがいい」の共通点・相違点を検 討してきた。従来の研究では、前者が「一般事態」、後者が「個別事態」という区別がなさ れてきたが、この分け方による説明しがたい場合が見られる。それに対して本研究では、

大きく相対的価値が付与される「相対的差異比較」と絶対的価値が付与される「絶対的差 異比較」とに区分した。結論として、「-タほうがいい」にはムードのタが含まれるため、

qの実現を強く要求する「絶対的差異比較」と共起しやすいという傾向がみられた。それ に対し、「-ルほうがいい」には、ムードのタが含まれないため、qに対する実現の要求は どちらかというと「-タほうがいい」ほど強くない。そのため、相対的差異比較に偏る傾向 も見られ、望ましくない事態が含まれる低比較とも共起できる点で、「-タほうがいい」と は異なることを指摘した。また、この「差異比較」の構造から、ホウガイイには「~qの 否定的評価」が含まれる場合と含まれない場合とが共に確認できた。一方、ベキダにも同 様の現象が存在した。そのため、従来の研究のようにベキダとホウガイイを論じる際、「~

qの否定的評価」があるか否かという点で区別するのは適切ではないとした。また、ベキ ダとホウがイイの違いについて、むしろ「既実現な事態」・「望ましくない事態」・「制御不 可能な事態」と共起できるか否かという点で対立することが分かった。

次に、トイイ・バイイ・タライイについてであるが、従来の研究ではバイイ・タライイ

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