第5章 <必要系>における「必要類」
3.1 意図性
3.1.2 意図性がない場合
意図性がある場合と異なり、意図性がない場合にはナケレバナラナイとザルヲエナイが 両者とも以下のように用いられる。
「ナケレバナラナイ」
(20)このバス代が一万五千百二十円、一方汽車の方は京都−並河間がこれは二十四.八 キロですが、昨年上がっても千二百四十円で汽車賃の約八倍なんですね、バス代 が。汽車がない、バスしかないという状況でどうしてもバスに頼らなければなら
- 107 - ない。 (『国会会議録』)
(21)私的資本のかわりに国家の補助金や制度融資に全面的に依存しても、地域経済の 自立的な発展は望めない。農村における信用の非商品化が進められなければなら ないのである。 (『豊かなアジア、貧しい日本』)
「ザルヲエナイ」
(22)もし負けたばあいのことを考えると、さらにその敗戦のじかの責任者が秀頼であ る場合を考えると、秀頼は当然殺されざるをえない。 (『城塞』)
(23)「諸外国に比べると日本では、公私ってことについては公が私に優先する傾向が顕 著なんだそうですけど、今の例では、逆に私が公に優先する」「というよりも、自 分を偉いと勝手に思ってる奴がもうがむしゃらに無理を通してしまうってことだ ろうね。その結果は言わずとしれたことで、金銭的な面は全部会計担当官にしわ 寄せになる。私たちは、こんなことやってはいけないんだと思いながらも、どう してもやらざるをえない。イズムを曲げざるをえない。無理が通れば道理が引っ 込む、ってやつです。 (『総領事館』)
ナケレバナラナイのグループについて、「どうしても」と共起した(20)では、汽車がな い、バスしかないという状況から「バスに頼る」という判断をしている。言い換えれば、
こういった状況におかれた人間は、自らバスに頼ろうという意図はみられないのである。
また、受身形の場合には、(21)における「信用の非商品化」から見れば、同様に「進めら れる」という事については非意図的なものであると考えてよい。
一方、ザルヲエナイのグループについて、(22)も「秀頼」が意図的に「殺される」こと を望む、或いは、実現しようとしているといった解釈をするのは難しい。また、(23)では この例文の「私たちは、こんなことやってはいけないんだと思いながらも」から分かるの は、「やる」ということが意に反していることであろう。「やる」ということは行為者の「私 たち」にとって「不可避」のことであり、自ら実行しようとする意欲がないのである。
ところが、典型的に意図性がない人の心理的な状態・感情などの場合、ザルヲエナイの 例文しか確認することができなかった。
(24)日本人は、相手からウワテに出られると、「やられた」と思うよりも、「イヤな奴
- 108 - だ」とにわかに反感を抱いてしまいがちである。とくに京都人にとっては「気安 うされた」つまり見くびられたということになり、「気安ういわんといてんか」と 気色ばまざるをえない。 (『比較文化のおもしろさ』)
(25)トウルが知りたかったのは、老婆と話をしたり、その日常をみるたびに、敗北感 のように感じざるをえない、あのえたいのしれぬたしかさ、底ぶかさ。
(『さらしなにつき』)
(26)この新しい要請に充分に応えられているだろうか。私は懐疑的にならざるをえな い。 (『日本の「死」』)
この三つの例文に含まれる、「気色ばむ」と「敗北感のように感じる」及び「懐疑的にな る」はいずれも意図的に制御できない人の心理的な状態を語っている。これらのようなザ ルヲエナイで述べられた意図性がない且つ制御不可能な事態に対しては、表現者が当該事 態qの実現が望ましいという判断が含まれるとは考えにくい。
また、この3例で述べられた事態については、(24)が表現者以外の判断である知識表明 文として考えられる。一方で、(25)は、波線部で示された復文節の「たびに」から分かる ように、「敗北感のように感じる」ことを何回も繰り返している状況として叙述する。よっ て、同じく知識表明文であると考えられる。また、(26)では、「私」はこれから「懐疑的 になる」というわけではなく、前の文脈の「この新しい要請に充分に応えられているだろ う」と述べている点から分かるのは、今まさにこういう「懐疑的になった/なっている」状 態にあることを述べている点である。このようにザルヲエナイは、心的状態に関わった述 語と共起される際に、既実現な事態と知識表明文が叙述されるのである。
それに対し、実例を収集する際、ナケレバナラナイはこのような心的な状態と共起され た例文を確認することは出来なかった。実際この三例はナケレバナラナイに置き換えると、
容認度が下がる。以下、例文をみてほしい。
(27)a.??とくに京都人にとっては「気安うされた」つまり見くびられたということに なり、「気安ういわんといてんか」と気色ばまなければならない。
b.??ひっかけられたのではないかと疑心暗鬼にならなければならないからであり、
またひっかけられたのではなくても、日本人はアメリカ人流の気持の切りかえに ついていけないからである。
- 109 - c.??この新しい要請に充分に応えられているだろうか。私は懐疑的にならなければ
ならない。 (筆者による作例)
(20-23)と(24-26)は同じく意図性がない事態として考えられる。その一方で、(20-23)
はいずれも行為者にとって制御可能な事態であるのに対し、(24-26)のような心的状態が 表される動詞の場合には、制御不可能な事態として見なされる。そのため、ナケレバナラ ナイは「意図性」という点において、完全に中立的な立場にあるとはいいにくく、人にと って制御不可能な事態であれば、共起できないことがわかる。
3.2結論
以上の内容から分かることの一つは、ナケレバナラナイは基本的に、事態に対して「意 図性」が表された事柄であっても、事態に対して「意図性がない」事柄であっても共に用 いられる。ただし、非自己制御性の事態とは共起できないものと思われる。
それに対し、ザルヲエナイは「意図性がない」場合しか用いられない。その証拠として、
本研究においては、ナケレバナラナイには意志性が表された副詞の「なんとしても」、それ と「使役形」と共起できる一方、ザルヲエナイにはそれらと共起できないことを示した。
また、ナケレバナラナイとザルヲエナイは、両者とも「行為者の意図がない」ことに関わ った副詞の「どうしても」と、「受身形」とは共起できると考えられる。
従来の研究では、ザルヲエナイが論じられた際、一般的に望ましくないことと共起され る57と論じられてきた。その背景には、「行為者の意図」が含まれてないことと関係してい ると考える。意図性をもって実現しようとする行為ではない限り、ただその事態が不可避 である面のみが伝わるため、その事態は望ましくないと解釈されるのである。
このように事態に対する「行為者の意図性」を含めるか否かという点から見れば、ナケ レバナラナイとザルヲエナイは対立的な性格を持っていることが分かる。従って、本研究 では、両者を同じく枠の下で捉えられるのは不適切だと考える。
4.<当為判断>との関連
ナケレバナラナイは、以下の(28)のように<当為判断>を表す場合がある。
57 例えば、日本語記述文法研究会(2009)では、ザルヲエナイについて、多くの場合にその事 態の実現が行為者の意向や気持ちに反するというニュアンスを帯びると述べられているが、そう 判断した理由などの言及が特になされていないと考えられる。
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(28)「家」を全うするためには、己を充実させなければならない。 ((17)の再掲)
(28)については、当該事態が制御可能で且つ未実現である上で、前件の目的節の条件 として表された点から、当該事態の実現が望ましいと考えられるためである。
一方、ナケレバナラナイは、次のように表現者以外の判断である知識表明文を表すこと ができる。
(29)a.人間は誰しも死ななければならない。
b..プロ将棋指しになるにはまず奨励会という組織に加わらなければならない。
((v)の再掲)
また、本研究の39頁で既にふれていることであるが、ナケレバナラナイは行為遂行の命 令としても表す場合がある。
(30)(夏休みも終る頃、宿題を残した子供に、母親が)
「やらなきゃいけない事は、やらなきゃあいけません。」 (重見(2000))
??「やらなきゃいけない事は、やらなきゃあいけないと思う。」 (筆者による作例)
そして、3節の考察から、ナケレバナラナイには意図性がない且つ制御不可能のような望 ましくない事態の場合と共起できないという結果を得た。
(31)??この新しい要請に充分に応えられているだろうか。私は懐疑的にならなければ ならない。 ((27c)の再掲)
また、本研究の考察においては、ナケレバナラナイは既実現の行為を述べる場合と、制 御不可能な事態の場合とが確認できなかった。実際、(27)で示されたように制御不可能な 事態と共起しにくいと考えられる。以上のように<当為判断>から検討をした結果、ナケレ バナラナイは次のようにまとめられる。
表1:<当為判断>からみたナケレバナラナイ(筆者作成)
なければならない
<当為判断>を表す場合 ○
<当為判断>
を表さない場合
既実現な行為 × 制御不可能な事態 × 望ましくない事態 × 表現者以外の判断 知識表明 〇 行為遂行 〇