第 2 章 執筆活動の概観
第 2 節 翻訳者として
イ ェ セ ン ス カ ー の キ ャ リ ア225の出発 点 は外国 文学の翻 訳に あ る が 、翻 訳に 関 し て は 先 行 研 究 で も そ れほ ど多 く は語ら れ て い な い 。
19-20
世紀の米仏独露の短編小 説や 評論 が 主 で 、 探偵小 説などの娯 楽作品か ら左 翼的 な政治思 想の濃い評論 ま で幅 広く手掛け て い た 。 先 行 研 究 に加え て 筆者の調 査か ら判明 し た も の を ま とめる と 、 イ ェ セ ン ス カ ー による翻 訳は1919
年 か ら1935
年 ま で に 新 聞 およ び雑 誌 上 に掲 載さ れ て お り 、 そ の数は 、 のべで306
本 に 上 る226。 カフカ作品の翻 訳も そ の な か に5
本含ま れ て い る 。現 在 分か っ て い る限り で 最 初 の翻 訳記 事 は
1919
年11
月9
日付の『論 壇』に掲 載さ れ た 。 フラ ン ス の叙情詩人フラ ンシス ・ ジ ャ ム (Francis Jammes, 1868-1938
) の「楽 園227」で あ る 。 こ の ジ ャ ム の作品の翻 訳が掲 載さ れ た同 じ 月に は 、同 じくフラ ン ス の作家 ロマン ・ ロ ラ ン(Romain Rolland, 1866-1944
)の「永遠の ア ンティゴネー」や詩人シャル ル・ペギ ー(
Charles Péguy, 1873-1914
)による社会 主 義者ジ ャ ン・ジョレ ス(Jean Jaurès, 1859-1914
) と ジョルジュ・クレマンソー (Georges Clemenceau, 1841-1929
) に 関 す る評論 の翻 訳が2
本掲 載さ れ た228。そ の 後12
月に は 、ジ ャ ムやプ ラ ハ のユ ダヤ系ド イツ 語 作家フラ ンツ・ヴ ェル フェル(Franz Werfel, 1890-1945
) の作品など、4
本 の翻 訳記 事 が 、 いずれ も『論 壇』 に掲 載さ れ た229。翌
1920
年 に は 、『論 壇』と左 翼系文芸雑 誌『幹230』(Kmen: týdenní úvahy a poznámky o životě,224 Ibid., s. 11.
225 イェセンスカーのキャリアのなかでも、書籍として刊行されたものを本論文の巻末に補遺資料6.「イェセンスカー著書・訳 書一覧」(209頁)として収録した。
226 連載については、70回を超える長編の連載も含まれるため、各回を1本と数えている。補遺資料7.「イェセンスカーによる 翻訳記事目録」(210頁)参照。
227 Francis Jammese. „Ráj.“ přel. M.P. Tribuna. 9.11.1919, s. 10-11.
228 ロラン「永遠のアンティゴネー」„Věčná Antigona.“ 11月13日付1面、ペギー「ジョレス」„Jaurès.“ 11月25日付1-3面、ペ ギー「クレマンソー」„Clemenceau.“ 11月30日付4-5面掲載。
229 ジャム「小さな黒人女性」 „Malá černoška.“ 12月13日付1面、ジャム「人生の道」„Cesta života.“ 12月14日付10面、ヴ ェルフェル「狂人の冒涜」„Blasfemie blázna.“ 12月21日付9-10面、ヴェルフェル「親愛なる神様の心遣い」„Dobrota milého Pána Boha.“ 12月28日付11面。
230 1926年創刊の同名の月刊誌とは異なり、文学批評家フランティシェク・シャルダ(F. X. Šalda, 1867-1937)編集による、フラ ンティシェク・ボロビー(Fr. Borový)出版の週刊誌。
1917-1922
)に そ れぞれ15
本 と20
本231、そ のほか 、『国 民 新 聞』に2
本232、『 道 』に1
本233 の翻 訳が掲 載さ れ た 。補遺資 料7.
「イ ェ セ ン ス カ ー による翻 訳記 事目録」を 見 て も分か る よう に 、1920
年 の夏ごろか ら『幹』への翻 訳掲 載の比重 が高ま り 、と同時 に左 翼的 な評論 の翻 訳が増え て い る 。続く
1921
年 に は 、翻 訳の数は前後 の 年 と比べて半 分程 度の19
本 と比 較的数が少な い 。『論 壇』に掲 載さ れ た の は ア ン リ ・バルビュス (
Henri Barbusse, 1873-1935
) の 作品234、 ア ン ド レ ・ ジッド(André Gide, 1869-1951
)の「 ダ ダに つ い て」と オク ター ヴ ・ ミルボ ー(
Octave Mirbeau, 1850-1917
)の「イ ンタビュー」、ジ ャ ン・ア ンテルム・ブリ ア= サヴ ァ ラ ン(Jean Anthleme Brillat-Savarin, 1755-1826
)の「チョコ レ ー ト に つ い て」の4
本 の み235、『幹』に は 、マク シム・ゴー リ キ ー(
Максим Горький [Maxim Gorky]
[ 本名:ア レク セ イ・マク シー モ ヴ ィ チ・ペシコフ(Алексей Максимович Пешков [Aleksey Maksimovich Peshokov
)], 1868-1936
))による レフ・トルス ト イ(Лев Толстой [Lev Tolstoy], 1828-1910
) に つ い て の回想録の連載が2
本236と ヴ ェル フェルの「狂人 の冒 涜237」を合わ せ た計3
本 が 掲 載さ れ た 。 ま た 、 文芸 評論 家 の ミ ロ ス ラフ・ル ッテ238(Miroslav Rutte, 1889-1954
)編 集の 文芸雑 誌『 道 』(Cesta: čtení zábavné a poučné: týdeník pro literaturu, život a umění,1918-1930
)に 、ゴー リ キ ー の「あ る罪人 の話」が4
回に分け て連載さ れ たほか239、筆者は 確 認 で き て い な い が 、『幹』同様に左 翼系文芸雑 誌『6
月 』(Červen: tendenční čtrnáctidenník[sic], 1918-1919
)に は 、「市民階級と そ の考え方の欠陥を あばこ う と努め240」た カ ール・シ ュテルン ハ イ ム (Carl Sternheim, 1878-1942
) の『ナポレ オ ン』(Napoleon, 1925)
や、マル クス 主 義者ロ ーザ・ル クセ ンブ ル ク(Rosa Luxemburg, 1871-1919
)が獄中 か らソーニャ ・ リ ー プク ネ ヒト(Sonja Liebknecht, 1884-1964
)に宛て た手紙 の翻 訳を 、そ れぞれ4
回に わ た っ て連載し て い た 。231 補遺資料7.「イェセンスカーによる翻訳記事目録」(210-229頁)参照。
232 ルイ=フィリップ「最後の意思」„Poslední vůle.“ 8月15日付7面掲載。
233 ラフォルグ「二人の愛しき人」„Dva holoubci.“ 9月3日付135-156頁掲載。
234 チェコ語のタイトル„Hlídač“は、「守衛」「看守」あるいは「子守役」を意味するが、いずれの意味にせよ、該当する作品が見 当たらないため、現時点では原作を特定できていない。
235 補遺資料7.「イェセンスカーによる翻訳記事目録」(210-229頁)参照。
236 1月27日付7-10頁および3月17日付3-7頁掲載。
237 3月3日付5-7頁掲載。
238 チェコの著名な演劇評論家および文芸評論家。Wagnerová (ed.), Dopisy Mileny Jesenské, s. 260.
239 ゴーリキー「ある犯罪の物語I. II.」„Příběh jednoho zločinu I. II“ 10月7日付252-255頁, 「ある犯罪の物語 III. IV.」„Příběh jednoho zločinu III. IV.“ 10月14日付269-272頁, 「ある犯罪の物語V. VI.」„Příběh jednoho zločinu V. VI.“ 10月28日付287-289 頁,「ある犯罪の物語VII. VIII.」„Příběh jednoho zločinu VII. VIII.“ 11月4日付301-304頁掲載。
240『ドイツ文学辞典』、382頁。
1922
年 に は ド イツの 表現主 義作家 レ オ ン ハルト・フラ ンク(Leonhard Frank, 1882-1961
) の「原 因241」の翻 訳も1
月1
日か ら2
月19
日ま で の約1
か月 半に わ た っ て 不定期 に 全29
回に わ た っ て連載さ れ た242。フラ ンクと い えば、日本 で は 一 般 に は あ ま り なじみ が な い が 、30
歳 で 執 筆 を始 め、第 一 次 世 界 大 戦 の 際 に ス イ ス で の 大量殺 戮に反 対し て 、反戦平和 主 義 の立場 を作品に も託し た が 、ナ チ ス によっ て迫害さ れ 、1933 年 に ア メ リ カ に亡命し 、戦 後1950
年 に ド イツの ミュン ヘ ン に戻っ た作家 で あ る243。こ う し て 見 る と 、1920
年 の 後半か ら1921
年 に か け て 、イ ェ セ ン ス カ ー は左 翼的 な思 想を持つ 文 章 を頻 繁に翻 訳し て い た こ と が 明 ら か と な り 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 活 動 の 初 期 の頃に す で に 、 後 に思 想が左傾化し て い く萌 芽を のぞか せ て い た こ と が分か る 。こ の翻 訳に つ い て は 、
1922
年 に 雑 誌『鐘』(Zvon: týdeník beletristický a literární, 1901-1941) に お い て 、痛烈な批 評を受け た 。イ ェ セ ン ス カ ー の連載は書籍化さ れ 、1922
年 に 論 壇社か ら刊行 さ れ た 。そ れ に つ い て の批 評で あ る 。評 者は 、ヴ ァ ーツラフ・ブ ルトニーク(Václav Brtník, 1895-1955
) と い い 、司書、博物館学 芸員、 文学史 家 、詩人 、 文学 評論 家 、高校教 師の肩書き を持つ が 、 当 時 は プ ラ ハ の 大学図書館の司書だ っ た244。 大学で は ス ラ ヴ学、 ド イツ 学、哲学を専攻し 、1917
年 に哲学で博 士号を取 得し て い る 。彼 の妹は ミネ ルヴ ァ の卒 業生 で は な い が イ ェ セ ン ス カ ー と同 学年 で1915
年 に『女 性 新 聞』に 記 事 が掲 載さ れ る など、 作家 およ び 翻 訳家 と し て 活 躍 し た 。 プ ラ ハ の狭い社会 を考え れば、妹と イ ェ セ ン ス カ ー に た と え 面 識 が な か っ た と し て も 、互い の存 在を 認 識 し て い た こ と は想 像に難く な い 。 そ の よう な背 景の な か 、ブ ルトニークは18
行程 度の短い書 評を書い た 。ほとん どは物 語の 中身 に つ い て紹 介す る の だ が 、 最 後 に訳 者の イ ェ セ ン ス カ ー に対し て 、 次 のよう な辛 辣な評価 を加え た 。ド イツ 語か ら の翻 訳に は 、 チ ェ コ語が で き て 動詞の変化形を 間違わず、 チ ェ コ語の 表 現をよく知っ て い る 、少な く と も こ う い う 人物が選 ばれ るべき で あ る 。 ミ レ ナ ・ イ ェ
241 Leonhard Frank. „příčina“ (原書Die Ursache, 1915)『ドイツ文学辞典』では「義憤からなされた殺人犯を裁く社会そのもの を告訴しその不正不合理を裁く」作品とされている。(『ドイツ文学辞典』、724頁。)
242 掲載データについては、補遺資料7.「イェセンスカーによる翻訳記事目録」(210-229 頁)を参照。以下、連載小説に関して は同様。
243 『ドイツ文学辞典』、723-724 頁およびフリッツ・マルティーニ『ドイツ文学史—原初から現代まで』高木実ほか訳、三修 社、1979年、512頁を参考にした。
244 Vladimír Forst atd. (eds.). Lexikon České literatury: Osobnosti, díla, instituce 1 A-G. Praha: Academia, nakladatelství Československé věd, 1985, s. 308.
セ ン ス カ ー は そ の例に 当 て は ま ら な い245。
1922
年 と い えば、イ ェ セ ン ス カ ー も そ れ な り の数の翻 訳を 発 表 し て お り 、1919
年 に す で に オ ス カ ー ・ワイルド の翻 訳 書を刊行 し て い る こ と を考え れば、 こ の評価は相当 に厳し い も の と い え る 。 こ れ 以外に 、 こ こ ま で辛 辣な評価と い う の は 見 当 た らず、 こ の ひ と つ の評価 で イ ェ セ ン ス カ ー の翻 訳能力に疑義 を持つ に は 、今ひ と つ説得 力が 足 り な い 。 なぜな ら 、 そ の 後 も 彼 女 による翻 訳は掲 載さ れ続け 、 そ の う え さ ら に5
冊も訳 書が刊行 さ れ た か ら で あ る 。ブ ルトニークによる辛 辣な批 評を浴びせ ら れ な が ら も 彼 女 が翻 訳を続け て い た の は 、 彼 女 の翻 訳に対す る思い 、 ま た そ れ を 支 え る仲間 か ら の 彼 女 に対す る信頼と評価が あ っ た か ら で あ る こ と は 彼 女 の翻 訳の数の 多 さ が物 語っ て い る 。1922
年 の『論 壇』に は そ の 後 、プ ラ ハ に終の住処を得た ロシア の作家 アルカ デ ィ・ア ヴ ェルチ ェ ン コ(Аркадий Аверченко [Arkady Averchenko], 1881-1925
)や演劇 評論 家 の ハ ン ス・ジ ー ム セ ン(Hans Siemsen, 1891-1969
)の評論 、G. K.
チ ェ スター ト ン(Gilbert Keith Chesterton, 1874-1936
) の随筆 、 ア ン デルセ ン の童話246が掲 載さ れ た 。 ま た 、同年 か らフ ェ イ ェ ト ン と呼ばれ る 文芸欄 に も寄 稿し始 めた『国 民 新 聞』で は 、 ド イツの作家パウ ル・ ヴ ィ ーグラ ー (Paul Wiegler, 1878-1949
) の「料 理 人」の翻 訳が247、 さ ら に『 道 』に は 、 イ ギ リ ス の作家R. L.
スティ ー ヴ ンソン(Robert Louis Stevenson, 1850-1894
)の「水車小 屋のウィル 」(1887
年 )を はじ めと す る政治思 想の入ら な い娯 楽小 説10
本 の翻 訳が掲 載さ れ た248。1923
年 に は 、モ ー ド 記者と し て の 活 動 の 場 を『国 民 新 聞』に完全 に移し た が 、同年 の前 半は翻 訳の掲 載は 不定期 で あ っ た249。11
月21
日に な っ てようやく スティ ー ヴ ンソン の「バ245 Pro překlad z němčiny měli by býti vybíráni aspoň lidé, kteří umějí česky, nepletou si slovesné třídy a znají českou frazeologii.
Milena Jesenská mezi ně nepatří. (-btk-. „LITERATURA: Leonhard Frank, Příčina. Přeložila Milena Jesenská. Knihovny
‚Obelissk‘ číslo 4. Nákladem ‚Tribuny‘ v Praze.“ Zvon. 1922, roč. 22, č. 48, s. 670.)
246 アンデルセン「眠りの精オール・ルゲイエ」„Uspávač.“ 12月24日付8面掲載。
247 Paul Wiegler. „Kuchaři“ 1922年8月27日付1-2面掲載。
248 スティーヴンソン「水車小屋のウィル」全4回(8月4日付81-84 頁、8月18日付103-106頁、8月25日付124-126頁、9月 4日付81-84頁)、G. K. チェスタートン「探偵小説の弁護」„Obhajoba detektivních románů“ 10月6日付196-197頁、「惑星 の弁護」„Obhajoba planet“ 12月22日付354-355頁、「引き延ばされない約束の弁護」„Obhajoba nepředložených slibů“ 12 月22日付355-357頁、ギュスターヴ・フロベール(Gustave Flaubert, 1821-1850)「狂人の手記」„Posedlý knihomol“ 10月20 日付220-223頁および10月27日付241-244頁、カフカ「判決」„Soud“ 12月22日付369-357頁。
249 1月と4月にはカナダの作家チャールズ・G・D・ロバーツ(Charles G. D. Roberts, 1860-1943)「『大佐』はどうやってカラガ ーのもとに来たか」„Jak přišel „plukovník“ ke Callagherovi“が 1月6日付9-10面に、同著者「『コマドリ』とマックタヴィッ シュ」„Červenka a Mac Tavish“が 4月8日付9面に掲載され、そのほか6月3日付の9-10面にはフィリップ「ありきたりな 心」„Prostá srdce“、7月15日付10面に「出会い」„Setkání“が掲載された。