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第 2 章 執筆活動の概観

第 5 節 1930 年代の活動

1. 左 翼 系 新 聞 ・ 雑 誌 に お い て

1930

年 代前 半の左 翼系新 聞・雑 誌 で の 活 動 に つ い て は 、あ ま りよく分か っ て い な い 。イ ラ ー ス コ ヴ ァ ー の『ミ レ ナ ・ イ ェ セ ン ス カ ー交差点』に お け る 記 事 リ ス トや 収録記 事 によ っ て 、 わずか に様子 が 見 え て き た程 度で あ る 。

『人 民 新 聞』で の職を失っ た

1930

年 の

9

月に は左 翼系雑 誌『創造』に

1

本翻 訳記 事 が 掲 載さ れ た程 度で 、そ れ 以外の 記 事 は現時 点 で は 見 つ か っ て い な い 。そ の 後 、

1931

年 に は 、

『創造』で の 記 事 が

1

本 の み 、

1932

年 以降は少し増え て

4

月に『パ ノラマ341』(Panorama,

336 1929424日付。Wagnerová, Dopisy Mileny Jesenské, s. 129-137.

337 Ibid., s. 130-132.

338 Hockaday, Kafka, Love and Courage, pp. 144-14.5およびVondráčková, Kolem Mileny Jesenské, s. 109.

339 Černá, Adresát Milena Jesenská, s. 75.

340 Milena. „Dvě radosti letních prázdnin.“ Lidové noviny. 1.6.1930.

341 左翼主義を標榜こそしていないが、左翼的思想を持つ芸術家たちと近しい関係にあった。『生きる』と出版元が同一

1927-1955

) 第

2

号に 、 雑 誌『生 き る』(Žijeme, 1931-1933) の創刊号に向け た 記 事 が掲 載 さ れ 、

6

月に は『創造』に

1

本 と 、 国立図書館に所蔵デ ータが存 在し て お らず 詳細不 明 の

『太陽、青年 の 生 活 新 聞』(Slunce, noviny života mládeže, 刊行 年 不 明 ) な る 雑 誌 に

2

本 の 記 事 が掲 載さ れ た 。『太陽、青年 の 生 活 新 聞』に掲 載さ れ た 記 事 は 、タイ トルか ら察す る に 、 モ ー ド 記 事 で あ る 。

先 行 研 究 で は公に な っ て い な か っ た が 、 そ の 後 、

1932

7

7

日の『松明』(Pochodeň,

1919-1932

) と

1932

7

24

日に『赤い権利342』(Rudé právo

, 1920-1938, 1945-

) に 、 国 際反戦 大 会 の参加 者募集の 記 事 が掲 載さ れ た343。『松明』は 、

1932

年創刊の チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 共産 党の東ボ ヘ ミ ア委 員会 の機関 誌 (週 刊) で あ り 、『赤い権利』は 、

1920

9

月 の創刊当 初 は社会 民 主党 系の 新 聞 と し て出発 し た のち、翌

1921

5

19

日に チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 共産 党(

KSČ: Komunistická strana československá

) の機関 紙 で あ る こ と を 表 明 し た日 刊紙 で あ る 。『赤い権利』は

1932

年 に 、 そ の左 翼的 な 記 事 を 理由に

3

度 目の 発 行停 止命令を受け 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 は地下出版さ れ た 新 聞 に掲 載さ れ た も の で あ る344。 ど ちら の 記 事 も 、 彼 女 が 、 ロ ラ ンやバルビュス 、ゴー リ キ ー の呼びか け による 国 際反戦 大 会 に赴く 代 表団と し て の参加 者を募る も の で 、 彼 女自身の自宅の住所 や電話番 号も公開し て 、 そ の窓口を担う も の で あ っ た 。

国 際反戦 大 会 は 、

7

28

日に ジュ ネー ヴ で 行 わ れ る と い う 当 初 の予定か ら変更に な り 、

1

ヶ月後 の

8

27

日か ら

28

日の

2

日間 に わ た っ て ア ム ステル ダム で 行 わ れ た 。同年

8

18

日発 行 の『松明』で そ の旨が伝え ら れ 、 チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア の 代 表団は

8

25

日に出 発 す る こ と 、交 通費およ び宿 泊費は自己 負担ま た は 代 表 と し て送り出す団体 の負担で 、

3

等席の列車代金およ び

3

泊分の宿 泊費合わ せ て およそ

1500

コルナ程 度か か る こ と が伝え ら れ 、詳細に つ い て は 、

7

月の 記 事 と同 じく ミ レ ナ ・クレ イツァ ロ ヴ ァ ー=イ ェ セ ン ス カ ー ま で と の旨が 記載さ れ て い る 。加え て 、経費に対す る出資者及び 受託金の 明細も 記載し 、

8

16

日ま で に

1378.20

コルナ の収 入が あ っ た こ と も 明 か さ れ た 。国 際反戦 大 会 は 、共産 党 主催の 大 会 で は な く 、反戦 と い うテーマに お い て政治思 想の枠組み を超え て呼びか け ら れ た も の だ っ た が 、各国 の社民党は 大 会への参加を禁じる など、 共産 党により近し い 大 会 で も あ っ た 。最 も興味深い の は 、

1920

年 代前 半に ロ ラ ン 、バリュビュス 、ゴー リ キ ー の翻 訳

(Družstevní práce)である。

342 19398月から19455月1日までは非合法的に発行を続した。

343 補遺資料11.(309-310頁)に、赤い権利』に集記事が掲載された紙面および記事の拡大版収録した。

344 Beránková atd. (eds.), Dějiny československé žurnalistiky III. díl, s. 114.

も数多 く手掛け た イ ェ セ ン ス カ ー が 、

1932

年 に 彼 ら が 主催し た こ の 大 会 の チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 代 表団を送り出す窓口と な っ た と い う こ と で あ る 。

さ て 、 こ のよう に 、 イ ェ セ ン ス カ ー は

1930

年 代前 半に 共産 党と 非 常 に近い 関係に あ っ た の だ が 、 彼 女 が実際 に 共産 党に入 党し て い た かどう か と い う 点 は 、 か つ てホッカ デ イ も 調 べて い る が345、結論 と し て は現 在も定か で は な い 。 ヴォン ド ラ ー チュコ ヴ ァ ー は 、言い 伝え ら れ て い た話と し て

1931

年 か ら

1935

年 の 間 、 共産 党に所属し て い た と し て お り346、 ブーバー= ノイマン の 記 述 で は 、

1936

9

月、モ スクワに お け るグレゴリ ー・ジノヴ ィエ フ(

Григорий Зиновьев [Grigorii Zinoviev], 1883-1936

) と そ の同紙 に対す る 最 初 の スタ ー リ ン公開 裁 判のニ ュー ス を き っ か け に友人数 名と と も に 脱退し た と さ れ て い る347。 ヴォ ン ド ラ ー チュコ ヴ ァ ー は 、 共産 党の ヴ ィノフラ デ ィ (

Vinohrady

)地区の 議長か ら「 エ フ ジ ェ ン ・クリ ンゲ ルは除名し た が 、 イ ェ セ ン ス カ ー は名簿に名 前が な か っ た ため、除名で き な か っ た348」と伝え ら れ た が 、 そ の説明 に納得が い かず、 イ ェ セ ン ス カ ー が入 党し て い た証 拠を なんと か 見 つ け出そ う と し た の だ が 、見 つ け ら れずに終わ っ た349。ホッカ デ イ は 、 当 時 共産 党員の青年 だ っ た イ ジ ー・ジ ャ ン トフス キ ー(

Jiří Žantovský, 1909-2000

)に も イ ンタビュー を 行 い 、 イ ェ セ ン ス カ ー が党員で は な か っ た と い う証言を得た と し て い る350。 真 相は定か で は な い が 、先 に挙げた

1932

7

月と

8

月に 共産 党 系の 新 聞・雑 誌 に掲 載さ れ た 彼 女 の 国 際反戦 大 会参加募集の 記 事 か ら も分か るよう に 、 共産 党と は 非 常 に近い距 離に い た こ と は 確 か で あ る 。

1931

年創刊か ら わずか

2

年 で廃刊と な っ た季刊のグラフ誌『生 き る351』の

1932

年 の 誌 面 に も 記 事 が掲 載さ れ た 。タイ トルは「家庭で 子ども を 上手に 育 て る の は果た し て可能な の か?352」と あ る 。チ ェルナ ー によれば、当 時 の『生 き る』の編 集 長はタイゲで あ っ た が 、 極端な左傾化を 理由に編 集 長を辞任 さ せ ら れ 、 イ ェ セ ン ス カ ー が 一 時編 集 長を務めた 。 し か し 、彼 女 も左 派色を 強めた ために 、同様に辞任 し た と い う353。そ の 後 は 、

1933

2

月か

345 Hockaday, Kafka, Love and Courage, p. 241.

346 Vondráčková, Kolem Mileny Jesenské, s. 119.

347 ブーバー=ノイマン、『カフカの恋人 ミレナ』197頁。

348 Vondráčková, Kolem Mileny Jesenské, s. 119.

349 Vondráčková, Kolem Mileny Jesenské, s. 119.

350 Hockaday, Kafka, Love and Courage, pp. 241-242.

351 Žijeme: obrázkový magazín dnešní doby, Praha: Družstevní práce, 1931-1933. チェコスロヴァキア手工芸同盟(Svaz československého díla)の機関紙。

352 „Je vůbec možno vychovati dobře dítě doma?“

353 Černá, Adresát Milena Jesenská, s. 75.

7

月 半ばま で の 間 に『創造』の 誌 面 に

5

本 、そ の 間 に 、『生 き る』に

2

本 、『 仕事 の 世 界354

Svět Práce, 1933-1937)に

3

本掲 載さ れ た 。

1934

年 は 、

7

月に『 仕事 の 世 界』に

1

本 、

12

月 半ばに『創造』に

1

本 の 記 事 が掲 載さ れ た355

1935

年 は『 仕事 の 世 界』に

1

本 だ っ た が 、

1936

年 に は同誌 に

11

本 の 記 事 が掲 載さ れ た 。

イ ェ セ ン ス カ ー は『創造』の 誌 面 を 、 当 時 を 代 表 す る ジ ャ ー ナ リ ス ト 、ぺロウト カ と の 論争の 場 と し て も使 用し た と い う356。ぺロウト カ と い えば、『論 壇』『人 民 新 聞』で の 上司 で あ り 、ま た 、

1930

年 代 後半に イ ェ セ ン ス カ ー が『 現 在 』で働く き っ か け に も な っ た 重 要 な 人物で あ る 。ぺロウト カ が イ ェ セ ン ス カ ー の才能を高く評価し て い た か ら こ そ の両 者の 信頼関係の 上 に成り立つ 論争で あ っ た こ と で あろう 。

2

人 のやり と り の 論 点 と は 、 共産 党 と の向き合い方に つ い て で あ り 、ぺロウト カ は 共産 党に批 判的 で あ り 、 イ ェ セ ン ス カ ー と そ の 点 で真っ向か ら対 立し て い た と い う357。 そ のやり と り に つ い て は 、ホッカ デ イ の 記 述 に詳し い 。

ブーバー= ノイマン は 、 イ ェ セ ン ス カ ー は さ ら に

5

つ の偽名を使っ て社会 民 主党 系の 新 聞『人 民 の権利358』に も寄 稿し た と い う が359、偽名を 明 ら か に し て い な い ため、 イ ラ ー ス コ ヴ ァ ー の『ミ レ ナ ・ イ ェ セ ン ス カ ー交差点』に お い て も『人 民 の権利』で の 記 事 は 明 ら か に な っ て い な い 。左 翼系の 新 聞 で の 記 事 に つ い て は 、現時 点 で も 、研 究 が 進んで お らず、 今後 の 解 明 が待た れ る と ころで あ る 。

ホッカ デ イ は 、『 仕事 の 世 界』の職を失っ た 理由と し て 、編 集 部が求めるほ どに左 翼に な り き れ て い な か っ た 点 を挙げて い る360。偽名を使っ て い た と は い え 、社民党 系の『人 民 の権利』に も寄 稿し て い た こ と か ら 、 共産 党に対し て完全 な る忠 誠心を抱い て い た わ け で は な い様子 は う か が え る 。そ の 後 、イ ェ セ ン ス カ ー は

1930

年 代半ばに は 共産 党と 明 確 に距

354 KSČ機関グラフ誌。

355 『創』での掲載は、1933年29日付「助け別のところからやってくる」„Pomoc přijde odjinud“、1933年223日付

愚かな代」 „Kocourkovská generace“、1933年3月23日付自由はどこだれわれはどん前線しいのか? „Kde je svoboda - Jakou frontu chceme?“、1933年330日付「乞食のオペラについて」„O žebrácké opeře“、1933年46日付

物乞い」„Žebráci“19341215日付「子どものための本」„Knihy pro děti“『生きている』には、19332 タイスト」„Stenotypistka.“ 3の「リベラルな資本主義者との対話“Rozmluva s liberálním kapitalistou.“ 掲載 された。仕事の世界』での掲載は、1933年6月1日付「そのバロックは目に良い」 „Vono to baroko je dobrý je pro voko.“、

113日付「親愛なるマリエ同…」„Milá soudružko Marie...“、12月1日付「検閲官?」„Kdo je Cenzor?“ 1934年7 月1日付「貧しい愛の面に」„Straně chudých lásek.“ が掲載された。

356 Hockaday, Kafka, Love and Courage, p. 147.

357 Hockaday, Kafka, Love and Courage, pp. 147-151.

358 Právo lidu: Ústřední orgán Čsl. Sociálně demokratické strany dělnické. Kukleny u Králova Hradce: Antonín Němec, 1893-1938, 1945-1948. 1918年より社会民主Sociální demokratická strana)の機関紙。

359 『人民の権利』についての記述は、ブーバー=ノイマン、『カフカの恋人 ミレナ』192頁。

360 Hockaday, Kafka, Love and Courage, p. 155.

離を置き 、『創造』で 共産 党をめぐっ て 論 戦 を交わ し た相手ペロウト カ と と も に『 現 在 』に お い て 、 ナ チ ス の抑 圧と の 戦 い に健筆 を振る う の で あ っ た 。

2. 『 現 在 』 に お い て

1937

年 か ら イ ェ セ ン ス カ ー は リベラルな独 立 系雑 誌『 現 在 』で の 執 筆 を始 めた 。き っ か け は 、長年 の友人 で 、『人 民 新 聞』時 代 の編 集 長で あ っ たぺロウト カ か ら の誘い で あ っ た 。 ぺロウト カ は 、 当 時 す で に チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア を 代 表 す る ジ ャ ー ナ リ ス ト で あ り 、 発 行 人 で も あ っ た 。

『 現 在 』は 、ぺロウト カ が 当 時

100

万コルナ の 資 本 を得て 、

1924

年 に創刊し た 雑 誌 で あ る 。創刊号は 、

1924

1

17

日付で 、 発 行部 数は たちまち

3

8

千部に到達し た 。 こ の 部 数は 、こ の類の 雑 誌 で は前例の な い こ と だ っ た361。実際『国 民 新 聞』の 発 行部 数で さ え 、

3

万部程 度で あ る こ と を考え れば、 そ の売れ 行 き の良さ が分か る だろう 。 当 誌 は 、 チ ャペ ッ ク兄 弟を はじ めと す る チ ェ コ出版界 、言論 界 の優秀な 人材を集 める こ と に成 功し 、 チ ェ コ 国内の政治 、経済、 文化などあ ら ゆ る諸問 題に対し て も質の高い 記 事 を掲 載す る 雑 誌 と し て 認めら れ て い た362。ぺロウト カ は 、イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 を かねて か ら評価し て お り 、 イ ェ セ ン ス カ ー が 共産 党か ら離れ た の を機に 彼 女 の才能を自ら の 雑 誌 で 発揮さ せ る こ と を 考え た の で あ る363

イ ェ セ ン ス カ ー の 最 初 の 記 事 は 、

1937

9

29

日掲 載の「 自動機械―大 都市の側溝364」 で あ る 。

1937

年 は 、世 界 中 で 戦争の機 運が高ま っ て お り 、チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア に は す で に ナ チ ス の影がちら つ い て い た 。 記 事 のテーマに困る こ と は な か っ た 。むしろ、 イ ェ セ ン ス カ ー に は書かずに は い ら れ な いテーマが た く さんあ っ た の は 記 事 の数だ け 見 て も 明 ら か で あ る 。 筆者の調 査およ び『ミ レ ナ・イ ェ セ ン ス カ ー交差点』の 記 事目録で 確 認 し た範囲で は 、

1937

年 に は

4

本 の 記 事 が 、

1938

年 に は

25

本 、

1939

年 に は

24

本 の 記 事 が掲 載さ れ た 。

2

年 弱 で 合わ せ て

53

本 あ る 。月に もよる が 、多 い 時 で は週に

1

本 のペー ス で掲 載さ れ た 。各地で の 取 材を 重ねな が ら 記 事 を書い て い た と考え る と 、 か な り厳し い スケジュールだ っ た こ と は 想 像に難く な い 。ホッカ デ イ も指 摘し て い る が 、 初 期 の頃は 、必ずし も政治 的 な 記 事ばか

361 Kárník, České země v éře první republiky (1918-1938) díl první, s. 341.

362 Ibid., s. 335.

363 Hockaday, Kafka, Love and Courage, p. 160.

364 „Automaty-žlaby velkoměsta.“