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第 2 章 執筆活動の概観

第 4 節 モード記者として

1. 『 論 壇 』 に お い て ( 1919-1922)

『論 壇』は 進 歩 的 な チ ェ コ系 ユ ダヤ 人 のグルー プ によっ て イ ギ リ ス の 新 聞 を目 指し て創

276 1922年の文芸欄の記事は『論壇掲載が5本で、『国民新聞』掲載9本と、前年の比から逆転した。

277 1924年が133本中の3本、1925年は161本中の4本がフェイェトンとして掲載された。

278 補遺資料8.「イェセンスカーの記事目録」の230-237頁を参照

刊さ れ た独 立紙 で あ る279。 イ ェ セ ン ス カ ー はフェ イ ェ トニス ト と し て 活 動 を開 始し た が 、 すぐに モ ー ド 記 事 も担当 す るよう に な っ た 。学 友で『論 壇』で の前任者ヴ ァターソノヴ ァ ー が ア メ リ カ に渡っ た こ と で 、 イ ェ セ ン ス カ ー が モ ー ド 欄 を担当 す る こ と に な っ た の で あ る 。前項で も 見 たよう に 、彼 女 のフェ イ ェ ト ン 執 筆 は

1920

年 がピークで あ り 、同時 期 に す で に モ ー ド 記者と し て の 活 動 も始 めて い た 。

モ ー ド 記 事 と 一言で言っ て も 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 場合、 モ ー ド と モ ー ド で は な い も の の 境界 が曖 昧で あ る 。 モ ー ド 欄 に掲 載さ れ て い て も モ ー ド と か け離れ たテーマを扱っ て い る 場合も あ り 、 ラ イフスタイルも モ ー ド に含ま れ て い る と考え ら れ る 。 一方、 モ ー ド 欄 に掲 載さ れ て い な い 記 事 で も モ ー ド 記 事 と呼 べる も の も あ る 。 つ ま り 、 モ ー ド の概 念をどのよ う に定 める か によっ て 、 モ ー ド 記 事 の範囲が 大 き く変わ る の で あ る 。 イ ェ セ ン ス カ ー の 場 合、 モ ー ド の概 念は 明 ら か に広い 。 こ れ に つ い て は 、 次 章 で詳述 す る 。 モ ー ド の概 念を広 げて考え る と 、イ ェ セ ン ス カ ー の モ ー ド 記 事 と は 、

1920

年 代 に 関 し て い えば、翻 訳とフェ イ ェ ト ン 以外の 記 事 すべて を指し て い い の で は な い か と思わ れ る 。 なぜな ら 、 そ れ ら は す べて モ ー ド か ラ イフスタイルの いずれ か に 関 わ る 記 事 だ か ら で あ る 。そ こ で 、本 論 文 で は 、 フェ イ ェ ト ン 以外の

1920

年 代 の 記 事 を モ ー ド 記 事 と と ら え る こ と と す る 。

1920

年 に『論 壇』に掲 載さ れ た

56

本 の 記 事 の うち、 モ ー ド 記 事 は

33

本 あ る 。

1920

年 か ら

1922

年 ま で は 、毎月何ら か の 記 事 が掲 載さ れ た 。

1920

年 は

8

月と

10

月がピークで

6

本掲 載さ れ 、 そ の 他 の月で も

1

本 か ら

4

本 は掲 載さ れ た 。

1921

年 は 、 モ ー ド 記 事 の編 集を 任 さ れ た ため、 モ ー ド 記 事 が格段に増え 、

68

本 を数え る 。

5

21

日か ら は 、別刷の「モ ー ド評 」の 発 行 が始ま り 、編 集も担当 し た 。「モ ー ド評 」 に掲 載さ れ た 記 事 は

46

本 を数え る 。

1922

年 に は 、さ ら に数が増え 、「モ ー ド評 」の 記 事 だ け で も

86

本 を数え 、 そ の 他 、フェ イ ェ ト ン で な い 記 事 も

8

本 あ り 、合わ せ て

94

本 あ る 。 うち、『国 民 新 聞』の 記 事 が

6

本 あ る ため、『論 壇』で の実 質的 な モ ー ド 記 事 は

88

本 で あ る 。 こ れ ら の数だ け を考え て み て も 、『論 壇』で の 活 動開 始か ら

2

年目に し て す で に イ ェ セ ン ス カ ー の モ ー ド 記者と し て の 活 動 は軌道に乗っ た の だ が 、

1922

12

31

日の モ ー ド 記 事 を 最 後 に『論 壇』と の契約を終え 、『国 民 新 聞』に 活 動 の 場 を移し た 。

ブーバー= ノイマン の著書によれば、ポラッ クは イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 を 読んで吹き出 し 、 イ ェ セ ン ス カ ー は深く心を傷つ け ら れ た と い う280。 夫 に笑わ れ た せ い か 、自ら の 記 事

279 Kárník, České země v éře první republiky (1918-1938) díl první, s. 331.

280 ブーバー=ノイマン、『カフカの恋人ミレナ』115頁。

に自信を持てず、 父親に は誇ら しげに原 稿を送っ て い る も の の 、 カフカ に は 見 せ た が ら な か っ た 。 し か し 、 カフカ は そ れ を高く評価し た281。 も っ と も 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 娘 チ ェル ナ ーや、学 友で あ りテキ スタイルデザイ ナ ー と し て 後 述 す る「ミ レ ナ チ ー ム」の 一 人 で あ っ た ヴォン ド ラ ー チュコ ヴ ァ ー の 記 述 によれば、『論 壇』に お け る イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 は 、 人気が あ り 、反響を呼んだ と い う282。そ の こ と は 記 事総数の 多 さ か ら も 、ま た 、「モ ー ド評 」 各号に お け る 彼 女 の 記 事 の数の 多 さ か ら も 明白で あ る 。

フェ イ ェ ト ン で も な く翻 訳で も な い 記 事 と し て 最 初 に登場 し た の が 、

1920

2

22

日 の『論 壇』

8

面 に掲 載さ れ た 記 事「 ウィ ー ン の カ ーニバル 」で 、 モ ー ド 欄 に 初めて登場 し た の は翌

3

14

日 同紙 の

10

面 か ら

11

面 に か け て掲 載さ れ た 記 事「 エレガン ス」で あ る 。 初 期 の頃に は 、ウィ ー ン で の モ ー ド を交え な が ら 、 読者の 見 識 を養う こ と を目的 に し た 記 事 を書く こ と が 多 か っ た 。 つ ま り 、 不況の 時 代 に買うべき必要 最低限の も の の な か で 、 い か にエレガン ト に 見 せ るよう な服を買う か と い っ たよう な視点 で あ る 。

ウィ ー ン の服 装に 関 し て書か れ た の は 、実際 に居住し て い た頃の 初 期 の み だ が 、 読者の 見 識 を養お う と す る姿 勢は変わ らず、様々 な ア イテム をテーマに 記 事 を手掛け た 。 記 事 の 数が増え る に 従 っ て 、 そ のテーマも拡大 し て い っ た 。 コ ー ト 、 下着、水着、雨具、パジ ャ マ、 ス ーツ、ブラウス 、 イ ヴニングド レ ス 、手袋、帽子 、靴、バッグなどのよう な ア イテ ムや、 子ども服、旅行服、夏服、秋服あ る い は スポーツ ウェ ア など より 大 き な カテ ゴリ ー をテーマと す る こ と も あ っ た 。加え て 、機能面や色、素材、襟などのよう なパーツ、 アク セサリ ー 、 ハ ン ド メ イ ド 、髪型など、 ア イテム に限らず、服 飾に ま つ わ るテーマも取り 上 げた 。 時 に は 、広くファッ ション産 業をテーマに扱う こ と も あ っ た 。 そ の数の 多 さ か ら 、 テーマが繰り返さ れ る こ と も しばしばあ っ た 。特 に 、チ ェ コ語で「コ スティ ー ム」

kostým

と呼ばれ るテー ラ ー ド ・ ス ーツ283や、 コ ー ト 、雨具などに つ い て は 、繰り返し好んで取り

281 手紙には、女のファッシン論を過小評価するのは間違いです」と直接述られている(カフカ、『ミレナへの手紙』148 頁)。訳語「貴女のファッシン論」は、語では、deine Modeartikelきみのモード記事(複数形)と記されている。Kafka, Briefe an Milena., S. 178.

282 Černá, Adresát Milena Jesenská, s. 41.

283 『ファッョン』によれば「紳仕立ての女性用スーツのこと。性用スーツのような生地とかっちりとした仕立て、

簡潔なラインとすっきりしたディテールをとする。」英語でtailored suit。(大淳、昭典、深井晃監修『ファッ ョン』文化出局、2009年(1999年)21頁。「コステーム」というチェコ語は、『チェコ語語源辞典Český etymologický

slovníkによると、ドイツ語のKostüm来であり、そのKostümは、フランス語のcostumeで、フランス語のcostume

は、イタリア語のcostume由来ということである。Jiří Rejzek. Český etymologický slovník. Praha: LEDA, 2001, s. 305.)チェ コスロヴァキアで出版された服飾百典の日本語による服飾百事典』にある記述「現代の衣服でも、簡で気 ジャットが、コステュームすなわちスーツに関係なく着用され、…](ルドミラ・キバロバー、オルガ・ヘルベノバー、

ミレナ・ラマノバー『絵による百事典野郁田二池田江訳、崎美術社、1971年、519頁)から考えると、チ

ェコ語のkostýmは、「スーツ」と訳すこともできるのが、ここに示した『ファョン典』の記述をらし合わせて考え

上げた 。

「モ ー ド評 」が 発 行 さ れ た こ と で 、 モ ー ド 記者と し て の 彼 女 の 執 筆や 編 集の腕に は 確実 に磨き が か か っ て い っ た 。そ の裏に は 、彼 女 が「モ ー ド評 」を構成す る ために結成し た「ミ レ ナ チ ー ム」と呼ばれ るグルー プ の協 力も あ っ た 。 先 述 の 、 後 に イ ェ セ ン ス カ ー の伝記 を 刊行 し たテキ スタイルデザイ ナ ー の ヴォン ド ラ ー チュコ ヴ ァ ー を はじ めと す る 、 モ ー ド に 詳し い 面 々 に イ ェ セ ン ス カ ー自身が声を か け 、協 力し て 紙 面 を作っ て い た の で あ る 。「モ ー ド評 」で の こ の協 力体 制 は 、

1923

年 以降『国 民 新 聞』に移っ て か ら も引き継が れ 、イ ェ セ ン ス カ ー の モ ー ド 記者と し て の黄金期 が築か れ る こ と と な る 。

2. 『 国 民 新 聞 』 に お い て

『国 民 新 聞』と は 、 イ ェ セ ン ス カ ー が『論 壇』か ら移る前か ら つ な が り を持っ て い た 。 と い う の も 、第 一 に 、イ ェ セ ン ス カ ー の 父 ヤ ン は青年 チ ェ コ党を 支持し 、『国 民 新 聞』を愛 読 し て い た か ら で あ る284。 第 二 に 、 父方の伯母 で作家 のルー ジ ェ ナ ・ イ ェ セ ン ス カ ー

Růžena Jesenská, 1863-1940

)が 記 事 を定期 的 に寄 稿し て い た縁 故が あ っ た 。イ ェ セ ン ス カ ー が『国 民 新 聞』に移っ た 理由も 、 そ の伯母 の 後押し が あ っ た か ら と み ら れ る285

ルー ジ ェ ナ286は 、プ ラ ハ か ら北東に

50km

離れ た ム ラダー・ボ レ ス ラフ(

Mladá Boleslav

) で小学 校の 教員を

2

年 間務めた あ と 、 プ ラ ハ で い く つ か の学 校に勤務し 、 そ の 後 、 子ども 向け 雑 誌や女 性向け カ レ ンダー の編 集を担当 し た 。詩人 、散文作家 、劇 作家 、翻 訳家 、 雑 誌編 集 者など多 く の肩書を持 ち、 チ ェ コ に お け る 新 ロマン 主 義 の 代 表 的作家 で あ っ た 。小 説は 、象徴主 義 と デ カダン ス の影 響を受け て 、隠 喩表現を得意 と し た287。 彼 女 の戯 曲は 国 民劇場 で 上演さ れ る こ と も あ るほ ど著名な 人物で あ っ た288。詩歌や童話、戯 曲、短編小 説、 長 編小 説など発 表 し た作品は

59

編を数え る289。著書の装丁 を 、

19

世紀の チ ェ コ芸 術を 代

ると、当時のチェコ語kostýmが訳語としては、「テーラード・スーツ」がより的確内容を示しているため、本論文では、

kostýmの訳語を「テーラード・スーツ」とする。

284 Hockaday, Kafka, Love and Courage, p. 5

285 Ibid., p. 86およびVondráčková, Kolem Mileny Jesenské, s. 60

286 呼称は本来、姓を用いるところだが、ミレナ・イェセンスカーと同名であることから、便宜上、名のルージェナを用いるこ ととする。

287 以上、ルージェナに関するここまでの記述は、Vladimír Forst, atd. (eds.). Lexikon české literatury: Osobnosti, díla, instituce: 2 H-J:

Svazek I H-J. Praha: Academia, 1993, s. 518. を参考にしている。

288 1925年に刊行された喜劇9番目の牧草地』は19319月から10月にかけ5919日、21日、29日、103 日、9日)上演された。(国民劇アーカイブ参照http://archiv.narodni-divadlo.cz/dokument.aspx/default.aspx?jz=cs&dk=Se znamPredstaveni.aspx&sz=0&ic=0&ju=2232&pn=456affcc-f402-4000-aaff-c11223344aaa(20203月7日最終閲覧

289 Kateřina Kotilová. Růžena Jesenská – život a dílo: Česká spisovatelka přelomu 19. a 20. století. Diplomová práce. Pardubice: UP FF, 2014, s. 32の引用を元に、Jan Opolský. Růžena Jesenská. Praha: Česká akademie věd a umění, 1944, s. 14-17. に掲載されている