ジャーナリスト、ミレナ・イェセンスカーの仕事
−1920年代のモード記者としての活動を中心に−
著者
半田 幸子
学位授与機関
Tohoku University
学位授与番号
11301
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129437
博士論文
ジャーナリスト、
ミレナ・イェセンスカーの仕事
--
1920
年代のモード記者としての活動を中心に--半田 幸子
2020 年
目次
序 章 研 究 の 目 的 と 諸 前 提
1
第 1 節 研究の対象と目的 1 第 2 節 先行研究 5 1. 伝記と「ミレナ神話」 6 2. 著作研究 10 2.1 欧米での研究 10 2.2 日本での研究 15 3. 周辺分野に関する研究:モードおよびメディアについて 16 第 3 節 研究の方法 17 第 4 節 各章の目的と構成 19第
1
部 イ ェ セ ン ス カ ー の 執 筆 活 動
23
第
1
章 戦 間 期 チ ェ コ の ジ ャ ー ナ リ ズ ム
24
第 1 節 戦間期チェコジャーナリズム史 24 1. 第一共和国期(1918-1938):新聞各紙とその特徴 25 1.1. 主要 5 政党および共産党と各日刊機関紙 26 1.1.1. 農業党と『田園』 26 1.1.2. 社民党と『人民の権利』 28 1.1.3. 国民社会党と『チェコの言葉』 29 1.1.4. 人民党と『人民新報』 30 1.1.5. 国民民主党と『国民新聞』 31 1.1.6. 共産党と『赤い権利』 32 1.2. 非政党機関紙 33 1.2.1. 『国民政治』 33 1.2.2. 『人民新聞』 34 1.2.3. 『論壇』 34 1.2.4. 『国民解放』 35 2. 第二共和国期(1938-1939) 35第 2 節 女性向けの媒体とジャーナリスト:前史および 1920 年代において 38 1. 前史:19 世紀から第一共和国前まで 38 2. 1920 年代:国民国家形成期の女性向け雑誌 41 2.1. 創刊ラッシュと民族意識の高まり 41 2.2. 誌面に見る民族意識 42 2.3. 新聞における女性向け紙面 46 2.4. 女性向け紙面の代表的なジャーナリスト 48 2.4.1. オルガ・ファストロヴァー 49 2.4.2. マリエ・ファントヴァー 51
第
2
章 執 筆 活 動 の 概 観
54
第 1 節 記者前史:女子ギムナジウムにて 54 第 2 節 翻訳者として 56 第 3 節 フェイェトニスト(文芸欄執筆者)として 61 第 4 節 モード記者として 66 1. 『論壇』において 66 2. 『国民新聞』において 69 3. 『鮮やかな週』において 75 4. 『人民新聞』において 76 第 5 節 1930 年代の活動 80 1. 左翼系新聞・雑誌において 80 2. 『現在』において 84第
2
部 モ ー ド 記 者 時 代 の ジ ャ ー ナ リ ズ ム
90
第
3
章 モ ー ド と モ ー ド 記 者 の 役 割
91
第 1 節 想定した読者像 91 1. 読者の性別、年齢および社会層 91 2. 中間層に向けた思い 96 3. 小括 99 第 2 節 モードとモード記者の意義 1001. 1920 年代初頭の言説 100 2. ギムナジウム時代の言説 104 3. 時代認識とモード記者の意義 106 4. 小括 108 第 3 節 記事の特徴—外見と内面とその調和 109
第
4
章 モ ー ド ・ ラ イ フ ス タ イ ル 論 (
1
) 理 想 の 追 求
114
第 1 節 シンプルという理想 114 1. 装飾の排除 118 2. 機能性や合理性の重視 121 3. 精神面におけるシンプル 124 第 2 節 女性の生き方 128 1. 男女平等について 128 2. モダンな女性の理想像 131 3. 仕事と家庭と衣服 135 4. イヴニングドレスの特権性と価値観 141 第 3 節 結語 147第
5
章 モ ー ド ・ ラ イ フ ス タ イ ル 論 (
2
) 時 代 と 流 行
148
第 1 節 大量生産・大量消費社会における個性のあり方 148 第 2 節 身体と衛生 153 1. 身体の手入れと衛生 153 2. スポーツ 157 第 3 節 外国イメージとモード・ライフスタイル 162 1. ドイツ語圏観 165 2. フランス観 169 3. イギリス・アメリカ観 173 4. 小括:外国イメージに見る思想 178 第 4 節 流行との距離 179 第 5 節 結語 183終 章
185
参 考 文 献
190
補 遺
198
補 遺 資 料 一 覧 199 資 料 1.200 資 料 2.
202 資 料 3.
204 資 料 4.
205 資 料 5.
208 資 料 6.
209 資 料 7.
210 資 料 8.
230 資 料 9.(図版) 302 資 料 10.(図版) 304 資 料 11.(図版) 309 資 料 12.(図版) 311 資 料 13.(図版) 312 資 料 14.(図版) 313 資 料 15.(図版) 315 資 料 16.(図版) 316
序章 研究の目的と諸前提
第 1 節 研究の対象と目的
本 論 文 は 、 戦 間 期 チ ェ コ の 新 聞 ・ 雑 誌 に お い て ジ ャ ー ナ リ ス ト と し て 活 躍 し た ミ レ ナ ・ イ ェ セ ン ス カ ー(Milena Jesenská, 1896-1944、以下イェセンスカー1)の 執 筆 活 動 に つ い て 、 こ れ ま で 未 確 認 で あ っ た 彼 女 の 記 事 に 関 す る 基 礎 資 料 を 掘 り 起 こ し 、 先 行 研 究 の 不 足 を 補 い な が ら 整 理 す る こ と で 活 動 全 般 を 確 認 す る も の で あ る 。 第 1 章において後述するが、チ ェ コ の 歴 史 に お い て 第 一 次 世 界 大 戦 と 第 二 次 世 界 大 戦 の 間 の 期 間 、 い わ ゆ る 戦 間 期 は 、 他 国 の 支 配 を 脱 し 、 議 会 制 民 主 主 義 国 家 チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 共 和 国 と し て の 国 づ く り が 行 わ れ た 、 非 常 に 重 要 な 時 代 で あ る 。 こ の 時 代 の 論 壇 で イ ェ セ ン ス カ ー が 活 躍 し た こ と の 意 味 は 大 き く 、 活 動 全 般 を 確 認 す る 意 義 も 非 常 に 大 き い も の で あ る 。 基 礎 的 な 資 料 を 丁 寧 に 整 理 し た 上 で 、 特 に 、 彼 女 の 活 動 全 体 の な か で も 、 発 表 記 事 が 最 も 多 く 、 ひ と 際 華 々 し い 活 躍 を 見 せ た 1920 年代のモード欄での執筆活動に焦点を当て、その意義を明らかにする。モ ー ド 欄 は 、 単 に 彼 女 が 華 々 し い 活 躍 を 見 せ た 紙 面 と い う だ け で な く 、 当 時 の 女 性 ジ ャ ー ナ リ ス ト に 任 さ れ た 場 で あ り 、時 代 を 読 み 解 く 重 要 な メ デ ィ ア と し て 捉 え ら れ る も の で あ る 。 イ ェ セ ン ス カ ー は 、1896 年にオーストリア帝国統治下のボヘミア王国の首都プラハに生 ま れ た2。 民 族 意 識 の 強 い 父 ヤ ン ・ イ ェ セ ン ス キ ー (Jan Jesenský, 1870-1947)と主婦とし て 夫 に 従 う 病 弱 な 母 ミ レ ナ・イ ェ セ ン ス カ ー(Milena Jesenská[旧姓:ヘイズラロヴァー (Hejzlarová)], 1874-1913)のもと一人娘として育った。母は、イェセンスカーが 16 歳 の と き に 病 死 し た 。 父 は 民 族 意 識 が 強 く 保 守 的 だ が 、 教 育 に 関 し て は 進 歩 的 で 、 中 欧 初 の 女 子 ギ ム ナ ジ ウ ム 、い わ ゆ る 女 子 の エ リ ー ト コ ー ス で あ る ミ ネ ル ヴ ァ3に イ ェ セ ン ス カ ー を 1 ミレナ・イェセンスカーは、数多くのペンネームを用いたが、なかでも多用したのが「ミレナ」であった。それに加えて、『ミ レナへの手紙』でカフカに付随する形で先行して知られたため、ドイツ文学者らの間でも「ミレナ」として名を知られる機会 が多い。したがって、「ミレナ」としての知名度がより高いとは思うが、本論文においては、研究対象の呼称として一般的であ る姓の「イェセンスカー」を呼称とする。2 以下、本節では主に以下の伝記等を参考にした。Kathleen Hayes (ed). The Journalism of Milena Jesenská: A Critical Voice in Interwar
Central Europe. New York: Berghahn Books, 2001、Jaroslava Vondráčková. Kolem Mileny Jesenské. Praha: Torst, 1991. Lenka
Penkalová. Rubriky pro ženy v denním tisku 20. let 20. století a jejich autorky: Olga Fastrová, Marie Fantová, Milena Jesenská, Staša
Jílovská a Zdena Wattersonová. Doktorská práce. UK FSV, 2011、Alena Wagnerová (ed.). Dopisy Mileny Jesenské. Praha: Prostor, 1998.
イェセンスカーの生い立ちや経歴については、日本語では、マルガレーテ・ブーバー=ノイマン『カフカの恋人ミレナ』田中 昌子訳、平凡社、1993 年、および松下たえ子編訳『ミレナ 記事と手紙』みすず書房、2009 年でも詳述されている。以上に挙 げた伝記等については、本章第4 節先行研究で詳述する。イェセンスカーの生い立ちや経歴を概観できるように、年譜を補遺 資料1.(200-201 頁)として添付した。
通 わ せ 、 卒 業 後 も 、 自 分 の 母 校 で も あ る カ レ ル ・ フ ェ ル デ ィ ナ ン ト 大 学 ( 現 カ レ ル 大 学 、 以 下 カ レ ル 大 学 ) の 医 学 部 進 学 へ と 導 い た 。 だ が 、 イ ェ セ ン ス カ ー は 父 の 民 族 的 思 想 と 折 り 合 わ ず 、 医 学 部 も 2 年で退学し、ユダヤ系ドイツ語作家が多く集まる文学カフェで時間 を 過 ご す よ う に な っ た 。 そ こ で 知 り 合 っ た 、 ユ ダ ヤ 系 の 文 芸 評 論 家 エ ル ン ス ト ・ ポ ラ ッ ク (Ernst Pollack, 1886-1947)と交際し、父には激しく反対されながらも、最終的に結婚に た ど り 着 き 、 ウ ィ ー ン へ 移 っ た 。 ウ ィ ー ン へ 移 っ た 後 、 夫 が 仕 事 を せ ず カ フ ェ に 入 り 浸 る 生 活 を 送 っ た た め 、 イ ェ セ ン ス カ ー は 職 探 し に 奔 走 す る こ と に な っ た 。さ ま ざ ま な 仕 事 を 経 験 し な が ら 、1919 年秋頃、ミ ネ ル ヴ ァ 時 代 か ら の 友 人 で 最 も 親 し い ス タ シ ャ ・ イ ー ロ フ ス カ ー (Staša [本名:スタニ ス ラ ヴ ァ (Stanislava)] Jílovská, 1898-1955)がプラハで編集や記事執筆を担っていた日 刊 紙 『 論 壇4』(Tribuna, 1919-1928)でチェコ語への翻訳の仕事を得た。 そ の な か で 、20 世紀を代表する作家フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883-1924)との 出 会 い を 果 た し た 。翻 訳 許 可 を 得 る た め に 手 紙 を 出 し た こ と が き っ か け と な っ て 、1920 年 か ら 情 熱 的 な 手 紙 の や り 取 り が 交 わ さ れ る よ う に な り 、恋 愛 関 係 に 発 展 し た 。1921 年に関 係 を 解 消 し た 後 も 、 両 者 の 互 い に 対 す る 敬 意 は 失 わ れ な か っ た5。 翻 訳 を 手 が け る よ う に な っ て か ら ま も な く 、 エ ッ セ イ も 執 筆 す る よ う に な り 、 そ の 後 、 モ ー ド 欄 の 記 事 の 執 筆 や 編 集 も 担 当 す る よ う に な っ た 。1920 年代は 3 紙の日刊紙、『 論 壇 』、
『 国 民 新 聞 』(Národní listy, 1861-1941)、『人民新聞』(Lidové noviny, 1893-1945, 1988- )
に 執 筆 の 場 を 得 た 。そ の 間 に 夫 と の 結 婚 生 活 は 破 た ん し 、1925 年の離婚後、プラハへ戻っ
た 。 そ の 後 、 チ ェ コ ・ ア ヴ ァ ン ギ ャ ル ド6の 芸 術 協 会 「 デ ヴ ィ エ ト ス ィ ル7」(Devětsil,
1847-1926)が1871 年に構想を立て、チェコの女性解放運動家たちとともに女子教育の権利獲得のために1890 年9 月に創立し た、中欧初の高等教育機関進学を可能とした8 年制(創立当初は5 年制)の女子ギムナジウムである。(Jana Malínská. Do politiky
prý žena nesmí – proč?: Vzdělání a postavení žen v české společnosti v 19. a na počátku 20. století. Praha: Libri, 2005, s. 39-40 および Jana
Mlýnková. Dívčí školství v českých zemích v 19. století a na přelomu 19. a 20. století. Diplomová práce. Praha: UK FF, 2008, s. 68-79. クラースノホルスカーが1871年に構想を立てたことは、創立40周年記念誌Albína Honzáková (ed.). Československé studentky let
1890-1930: Almanach na oslavu čtyřicátého výročí založení ženského studia Eliškou Krásnohorskou. Praha: Ženská národní rada a
spolek Minerva, 1930. に記されている。)政治家や教育者、医者などチェコのエリートの子女が通い、医師や哲学博士を始め とする多くのエリートを輩出した。ミネルヴァの卒業生は、チェコスロヴァキア建国に対しても貢献する役目を果たし、また 建国後の様々な場面でも活躍した。代表的な例が、初代大統領トマーシュ・ガリグ・マサリク(Tomáš Garrigue Masaryk, 1850-1937)の娘アリツェ・マサリコヴァー(Alice Masaryková, 1879-1966)で、彼女は卒業後、チェコスロヴァキア赤十字社 の初代理事長を務めた。 4 創刊時の編集長はフェルディナント・ペロウトカ(Ferdinand Peroutka, 1895-1978)で、イェセンスカーが1937 年以降、ルポ ルタージュを執筆する場となった雑誌『現在(Přítomnost, 1924-1945)』の編集長でもある。 5 イェセンスカーとカフカとの関係については、書簡集日本語訳最新版、フランツ・カフカ『ミレナへの手紙』池内紀訳、白水 社、2013 年の解説(323-336 頁)に詳述されている。 6 現在、日本で1920 年代のチェコ文化としては、チェコ・アヴァンギャルドに関する研究が最も進んでいるといってもいい。特 に美術に関する研究は近年盛んである。書籍では、井口壽乃・圀府寺司編『アヴァンギャルド宣言—中東欧のモダニズム』三
1920-1931)と交流を持つようになり、そのなかで知り合ったモダニズム建築家ヤロミー
ル・ク レ イ ツ ァ ル(Jaromír Krejcar, 1895-1949)と 1927 年に再婚し、1928 年に長女ヤナ(8 Jana
Černá, 1928-1981)を出産した。 ヤ ナ を 妊 娠 し た 前 後 か ら 膝 痛 を 患 い 、 痛 み を 和 ら げ る た め に 使 用 し た モ ル ヒ ネ に 依 存 す る 生 活 を 送 る こ と に な る と 同 時 に 、そ れ ま で の 仕 事 を 失 っ た 。1930 年代前半は、共産主義 に 共 感 し 、 共 産 党 系 の 新 聞 や ラ ジ オ で 活 動 し た 。 し か し 、 ソ 連 に 赴 い た 夫 か ら ソ 連 の 否 定 的 な 情 報 を 聞 き 、 ソ 連 や 共 産 党 に 対 し て 失 望 し て 、 チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 共 産 党 批 判 に 転 じ た 。 物 理 的 距 離 の 離 れ た 夫 ク レ イ ツ ァ ル と も 1933 年に離婚した。 約 10 年にわたるモルヒネとの闘いを乗り越え、1937 年から、主に政治を扱う、独立系 の 週 刊 誌 『 現 在 』(Přítomnost, 1924-1945)で記事を書き始めた。記事にはドイツとの国境 沿 い を 取 材 し て 書 い た ナ チ ス の 脅 威 を 伝 え る ル ポ ル タ ー ジ ュ な ど が 綴 ら れ た 。 ま た 、 地 下 組 織 の 雑 誌 編 集 も 手 伝 っ た9。そ の こ と が 問 題 視 さ れ 、1939 年 11 月に、反ナチス活動への 協 力 の 嫌 疑 で ゲ シ ュ タ ポ に 逮 捕 さ れ た 。1940 年 6 月の裁判では証拠不十分で訴状が棄却さ れ た に も か か わ ら ず 、プ ラ ハ の 拘 置 所 を 経 て 、1940 年の秋にはドイツ北部に位置するラー フ ェ ン ス ブ リ ュ ッ ク 強 制 収 容 所10に 送 致 さ れ た 。 収 容 所 内 で 持 病 が 悪 化 し 、1944 年 5 月に 47 歳の若さで亡くなった。 イ ェ セ ン ス カ ー の 人 生 は 、 多 く の 波 乱 を 経 験 す る 劇 的 な も の で 、 伝 記 と し て 非 常 に 魅 力 元社、2005 年、西野嘉章『チェコ・アヴァンギャルド—ブックデザインにみる文芸運動小史』平凡社、2006 年、井口壽乃・加 須屋明子『中央のモダンアート—ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー』彩流社、2013 年、加須屋明子、井口壽乃、 宮崎淳史『中央の現代美術—ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー』彩流社、2014 年などで、デヴィエトスィル(注 7 参照)のメンバーらの活動の一端が明らかにされている。 7「9 つの力」、「蕗」の意。画家、作家、詩人、出版人、音楽家、批評家、役者、舞踏家、写真家などによる戦間期チェコのアヴ ァンギャルド芸術家集団。戦間期のヨーロッパで最も長く活動したグループのひとつ。1920 年10 月、「デヴィエトスィル協会」 として発足した。1930 年代に、チェコシュルレアリスムのグループらに引き継がれた。チャールズ・チャップリン(Charles Chaplin, 1889-1977)、ハロルド・ロイド(Harold Lloyd, 1893-1971)なども名誉会員として協会員のリストに名を連ね、1920 年代のチェコ・モダニズム文芸運動の一翼を担った(Derek Sayer. The Coast of Bohemia: A Czech History. Princeton: Princeton University Press, 1998, p. 209.)。他に、イェセンスカーと関わりがある人物では、夫クレイツァルや、『鮮やかな週』(注72 参 照)での同僚、作家やイラストレーターなどの肩書を持つアドルフ・ホフマイステル(Adolf Hoffmeister, 1902-1973)もこの メンバーである。また、グループの中心的人物カレル・タイゲ(Karel Teige, 1900-1951)とは夫婦揃って親交が深かった。 8 イェセンスカー達は娘ヤナを男性名ヤン(Jan)の愛称であるホンザ(Honza)と呼んだ。このことは、イェセンスカーが娘で はなく息子を望んでいたとも考えられるし、娘にたくましく生きるよう望んだとも考えられる。あるいは、その両方かもしれ ない。いずれにしても、この事実は、イェセンスカーが性別に捕らわれない、あるいは捕らわれたくないという、ジェンダー に対するリベラルな思想を持っていたことのひとつの事例であるといえよう。
9 Hayes (ed.), The Journalism of Milena Jesenská, p. 3 では、非合法雑誌『闘いへ』V boj の配布を手伝ったことが指摘されている。さ
らに、それ以前には使われたことのないペンネームBlovskáの記事は、彼女のものとされている。(Růžena Hlušičková atd. (eds.).
V boj: Edice ilegálního časopisu I. díl 1939. sv. 6. Praha: Historický ústav čs. armády, Památník odboje, Vojenský historický archív,
1992., s. 893)
10 ナチスが整備した最初の女性強制収容所(1939 年使用開始)。収容所の詳細は、マルセル・リビュー『ナチ強制・絶滅収容所
が あ る 。 だ が そ れ 以 上 に 、 彼 女 の ジ ャ ー ナ リ ス ト と し て の 活 動 は 大 き な 意 義 を 持 つ 。 ま ず 、 彼 女 の 育 っ た 家 庭 環 境 や 教 育 的 背 景 、 す な わ ち エ リ ー ト の 父 と 家 庭 で 夫 を 支 え る 19 世紀的な女性像そのままの母のもと最先端の女子エリート教育を受け、昔馴染みの学友 を 伝 っ て ジ ャ ー ナ リ ス ト の 道 を 開 い た と い う 経 歴 自 体 の メ デ ィ ア 史 に お け る 意 義 が 大 き い 。 ま た 、彼 女 の 活 動 期 間(1919-1939)が戦間期とも、その期間存在したチェコスロヴァキア 共 和 国( 第 一 お よ び 第 二 共 和 国 の 時 代:1918-1939)ともほぼ重なっており、特に、チェコ ス ロ ヴ ァ キ ア が 独 立 し 民 主 国 家 と し て 歩 ん だ 約 20 年と重なることの意義も大きい。加えて、 1300 本を超える記事の数の多さ11と 内 容 の 豊 富 さ 、 の ち に 詳 述 す る 彼 女 の 執 筆 活 動 の メ デ ィ ア と な る 新 聞 ・ 雑 誌 の 性 質 の 多 様 性 、 加 え て 彼 女 に 対 す る 当 時 の 注 目 度 の 高 さ に よ っ て 裏 付 け ら れ る チ ェ コ で の 社 会 的 影 響 力 の 大 き さ が 見 ら れ る か ら で あ る 。 特 に 彼 女 の 記 事 の 内 容 の 豊 富 さ と 影 響 力 の 大 き さ に つ い て は 、 第 1 部 第 1 章 に お い て 具 体 的 に 詳 述 す る が 、次 の 2 点によって証明される。第一に、1920 年代のモード記事におい て 、 服 飾 の 流 行 の み を 伝 え る の で は な く 、 現 在 で は ラ イ フ ス タ イ ル12と さ れ る ジ ャ ン ル に 多 く の 紙 幅 を 割 い た こ と で あ る 。 そ の 内 容 は 、 服 装 や 生 活 の あ り 方 へ の 具 体 的 提 言 、 さ ら に は 人 生 と の 向 き 合 い 方 に つ い て な ど 多 岐 に わ た っ て い た 。 モ ー ド 記 事 は 、 服 飾 流 行 の 提 示 以 上 の 役 割 、 す な わ ち 女 性 た ち を 啓 蒙 す る 役 割 を 果 た し て い た の で あ る 。 第 二 に 、 記 事 の な か で 言 及 さ れ る 読 者 へ の 語 り か け や 読 者 か ら の 反 応 の 数 の 多 さ か ら 読 者 に 対 す る 影 響 力 の 大 き さ が 窺 え る 。 イ ェ セ ン ス カ ー の も と に は 読 者 か ら 「 ミ レ ナ さ ん へ13」 と い う 宛 名 で 多 く の 投 稿 が 寄 せ ら れ て い た の だ 。ま た 、1930 年代後半の政治記事に、厳しい検閲があ る こ と も 含 め て ナ チ ス へ の 抵 抗 を 記 し 、 そ れ ら の 活 動 の 結 果 、 ゲ シ ュ タ ポ に よ っ て 逮 捕 さ れ た 。 こ の こ と か ら も 社 会 的 影 響 力 を 見 て と る こ と が で き る 。 2009 年刊行の『ミレナ 記事と手紙』の編訳者松下は、チェコでのイェセンスカーに対 11 正確な記事数は現在も判明していないが、翻訳連載などの連載記事も 1 回分を 1 本として数えた場合、1300 本を超えている。 後述する先行研究『ミレナ・イェセンスカー交差点』では、1164 本の記事のデータ一覧が添付されているが、これは、イラー スコヴァーと筆者の数え方の違いによる。イラースコヴァーは、翻訳に関して回を重ねて連載されているものもまとめて1 本 と数えている一方、筆者は、新聞や雑誌に掲載された記事は同一のもの以外すべて1 本として数え、全数を出していることに 起因する。翻訳連載の各回をそれぞれ一本とする理由は、連載の回数が、数回程度のものから70 回を超えるものまで連載自 体の回数の差に大きなばらつきがあり、かつ数十回にわたるものも含めてまとめて翻訳記事1本と数えることは、彼女の業績 を正しく評価できない恐れがあるからである。 12 ライフスタイルとは、『広辞苑』第七版では、「生活様式。特に、趣味・交際などを含めた、その人の個性を表すような生き方」 とされ、『大辞林』第三版では、単に「生活の仕方。生活様式」とされており、含有する意味が幅広く想定される言葉である。 ただし、特定の分野における辞典および事典では、定義がより限定されたものにもなる。本論文では、イェセンスカーの記事 を分析する上で筆者が「ライフスタイル」として捉える範囲を最も適切に表現している『日本国語大辞典』第二版における定 義「生活の様式・仕方。また、人生観・価値観・習慣などを含めた個人の生き方」を用いることとする。 13 Paní Mileno から始まる投稿は多くみられる。
す る 評 価 に つ い て 、「 一 九 三 ○ 年 前 半 に 共 産 主 義 に 傾 倒 し た こ と を 除 く と 、終 始 自 分 の 尺 度 で 人 と 世 界 を 見 た 人 、 人 種 、 国 籍 、 宗 教 、 イ デ オ ロ ギ ー に と ら わ れ な い 内 な る 強 さ 、 内 な る 自 由 を 持 ち 続 け た 女 性 、 二 十 世 紀 を 代 表 す る チ ェ コ 女 性 の 一 人 で あ る と い う 評 価 が 、 本 国 で も 定 着 し て き て い る よ う に み え る14」 と 指 摘 し て い る が 、 こ の 評 価 は 日 本 で は 、 ま だ 一 般 に は 広 ま っ て い な い よ う に 思 わ れ る 。 筆 者 は 、 松 下 の 挙 げ た 「 人 種 、 国 籍 、 宗 教 、 イ デ オ ロ ギ ー 」 だ け で な く 、 性 別 、 世 代 、 分 野 に も と ら わ れ な い 視 点 を 持 っ て い た と 考 え て い る 。 共 産 主 義 に 傾 倒 し た こ と も 含 め て 、 分 野 、 民 族 、 地 域 、 性 別 、 イ デ オ ロ ギ ー な ど あ ら ゆ る 枠 に と ら わ れ ず 、 そ れ ら の 境 界 の 内 と 外 を 自 由 に 行 き 来 し 、 か つ そ の 境 界 を 曖 昧 な も の に し て い た よ う に も 感 じ ら れ る 。 1920 年代だけで 900 本を超えるモードやライフスタイルをテーマにした記事の分析は、 チ ェ コ 文 化 史 の 一 部 を 補 完 し う る も の で あ る 。 ま た 、 彼 女 が ジ ャ ー ナ リ ス ト と し て 目 覚 ま し い 活 躍 を し た に も か か わ ら ず 、 政 治 的 な 抑 圧 に よ っ て 歴 史 の な か に 封 印 さ れ て き た こ と に 鑑 み れ ば 、 メ デ ィ ア 史 の 一 部 を 補 完 す る こ と に も な る 。 さ ら に は 、 強 い 意 志 を 持 っ て 女 性 向 け の 記 事 を 書 い た 女 性 で あ る こ と か ら 、 女 性 史 の 一 部 を 補 完 す る こ と に も な る 。 さ ま ざ ま な 境 界 に 対 す る 視 点 や 態 度 を 考 察 す る こ と は 、 グ ロ ー バ ル 化 と 排 外 主 義 が 渦 巻 き ま す ま す 境 界 を 意 識 さ せ ら れ る 現 代 社 会 に お い て は 、 様 々 な 問 題 解 決 の ヒ ン ト を 得 る こ と に も つ な が る で あ ろ う 。 し た が っ て 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 を 考 察 す る こ と は 、 彼 女 が 何 を 書 い て い た か と い う 我 々 の 知 的 好 奇 心 を 満 た す だ け で な く 、 チ ェ コ の 社 会 史 お よ び 文 化 史 研 究 を 中 心 と し て 放 射 状 に 様 々 な 分 野 に 対 し て 新 た な 視 座 を 提 示 す る こ と が で き る 。翻 っ て 、 こ れ ま で 「 カ フ カ の 恋 人 」 と し て イ ェ セ ン ス カ ー を 注 視 し て き た カ フ カ 研 究 に も 新 た な 知 見 を 加 え る こ と に も な る で あ ろ う 。
第 2 節 先行研究
イ ェ セ ン ス カ ー の モ ー ド 記 事 を テ ー マ の 中 心 に 据 え た 研 究 は 、 管 見 の 限 り 、「2.著作研 究 」で 言 及 す る キ ャ ス リ ー ン・ヘ イ ズ(Kathleen Hayes, 1955- )の研究のみである。ここ で は 、 本 論 文 に 関 係 の あ る 分 野 に 視 野 を 広 げ て 先 行 研 究 に つ い て ま と め た い 。 以 下 、 イ ェ セ ン ス カ ー に 関 す る 研 究 の 出 発 点 で あ る イ ェ セ ン ス カ ー の 伝 記 か ら 始 め 、 日 本 国 外 と 日 本 で の 著 作 研 究 、 モ ー ド と メ デ ィ ア の 状 況 に 関 す る 周 辺 分 野 の 研 究 と い う 順 で 整 理 す る 。 14 松下たえ子編訳『ミレナ 記事と手紙—カフカから遠く離れて』みすず書房、2009 年、19-20 頁。1. 伝記と「ミレナ神話」
イ ェ セ ン ス カ ー の 伝 記 に つ い て 説 明 す る 前 に 、 伝 記 が 刊 行 さ れ る に 至 っ た 経 緯 か ら 説 明 し た い 。 没 後 の イ ェ セ ン ス カ ー が 再 注 目 さ れ た 契 機 は 、 第 二 次 世 界 大 戦 後 、 マ ッ ク ス ・ ブ
ロ ー ト(Max Brod, 1884-1963)によってカフカの小説が出版され、1945 年にジャン=ポー
ル・サ ル ト ル(Jean-Paul Sartre, 1905-1980)やアルベール・カミュ(Albert Camus, 1913-1960)
ら フ ラ ン ス の 実 存 主 義 者 た ち に よ っ て カ フ カ が 「 発 見 」 さ れ た こ と に あ る 。 そ の 影 響 は 大 き く 、 堰 を 切 っ た よ う に 世 界 的 な カ フ カ ・ ブ ー ム が 始 ま り 、 現 代 に 至 る ま で カ フ カ の 人 物 像 と 作 品 の 解 釈 お よ び 再 解 釈 が 行 わ れ 続 け て い る15。 そ の な か で 日 の 目 を 見 た の が 、 カ フ カ か ら イ ェ セ ン ス カ ー 宛 に 書 か れ た 書 簡 集 『 ミ レ ナ へ の 手 紙16』 で あ っ た 。 本 書 は 、 イ ェ セ ン ス カ ー が ゲ シ ュ タ ポ に 逮 捕 さ れ る 直 前 に 手 紙 を 託 し た 友 人 ヴ ィ リ ー ・ ハ ー ス (Willy Haas, 1891-1973)の編集のもと、1952 年に刊行され た も の で あ る 。 も と も と 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 生 前 の 活 躍 は 、 チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 国 内 に と ど ま る も の だ っ た た め 、 こ の 書 簡 集 の 出 版 が な け れ ば 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 名 が こ れ だ け 世 界 的 な も の に な る こ と は な か っ た は ず で あ る 。イ ェ セ ン ス カ ー が ハ ー ス に 手 渡 し た と き に 、 そ こ ま で 想 定 し て い た か ど う か は 不 明 だ が 、い ず れ に し て も こ の 本 の 出 版 を き っ か け に「 ミ レ ナ 神 話17」 が 誕 生 し た 。 こ う し て 、 カ フ カ か ら の 書 簡 集 は 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 名 を 世 に 広 め る と い う 功 績 を 果 た し た 反 面 、「 ミ レ ナ 神 話 」と い う 虚 像 を 生 み 出 す 原 因 に も な っ て し ま っ た の で あ る 。 こ の 「 ミ レ ナ 神 話 」 に 磨 き を か け た の が 、 次 に 挙 げ る 7 冊の伝記の刊行 で あ る 。 イ ェ セ ン ス カ ー に 関 す る 伝 記 の 著 者 は 、2 種類に分けられる。イェセンスカーを個人的 に 知 る 人 物 と 、 ま っ た く 接 点 の な い 第 三 者 で あ る 。 前 者 は 、3 名いる。 1 人目の著者で、最初に刊行したのは、ラーフェンスブリュック強制収容所でイェセン ス カ ー と 知 り 合 い 、 親 し く な っ た マ ル ガ レ ー テ ・ ブ ー バ ー= ノ イ マ ン ( Margarete 15 『世界文学大事典』編集委員会編『集英社世界文学大事典1』集英社、1996 年、683 頁。
16 Kafka, Franz. Briefe an Milena. Hrsg. Von Willy Haas. Frankfurt a M.: S. Fischer, 1952. 〔カフカ、フランツ『ミレナへの手紙』池
内紀訳、白水社、2013 年。〕
17 後述するイェセンスカーの伝記『ミレナ・イェセンスカーの周辺で』(1991 年刊行)の解説(1968 年執筆)の冒頭、解説者の
グレベニーチュコヴァーは、「『ミレナへの手紙』のミレナ・イェセンスカーは神話である。カフカの作品に載ってチェコの国 境を越えて外に出たイメージを見れば分かる。つまり、カフカの名宛人の理想化されたイメージと実際の人物像―その性格― との間にはほとんど関連性はなく、その人物像については、チェコの戦間期の文化史において、より具体的に認識されている のみである」と記した。Růžena Grebeníčková. „Doslov: Publicistika Mileny Jesenské (krácený doslov z roku 1968)“. In: Vondráčková, Kolem Mileny Jesenské, s. 159.
Buber-Neumann, 1901-1989)である。1963 年に『カフカの恋人ミレナ18』(Kafkas Freundin Milena)を刊行した。イェセンスカー宛のカフカの書簡集が西ドイツで出版されてから 11 年 後 の こ と で あ る 。 カ フ カ の イ ェ セ ン ス カ ー 宛 書 簡 集 で そ の 存 在 が 知 ら れ 、 ブ ー バ ー = ノ イ マ ン に よ る 伝 記 刊 行 に よ っ て イ ェ セ ン ス カ ー の 生 涯 は 脚 光 を 浴 び た 。 ド イ ツ 語 で 書 か れ た 『 カ フ カ の 恋 人 ミ レ ナ 』 は 、 第 五 版 ま で 出 版 さ れ た 。 ま た 、 初 版 刊 行 か ら 3 年後の 1966 年には英訳が出版された。日本での出版もわりと早 く 、1976 年には、平凡社から邦訳(田中昌子訳19)が 出 版 さ れ た 。そ の 後 、1982 年に、カ ナ ダ で チ ェ コ 語 訳 が 出 版 さ れ た20。 当 時 、 チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア は 社 会 主 義 体 制 下 で あ っ た た め 、 同 地 で の 出 版 は 叶 わ ず 、 ト ロ ン ト に あ る 亡 命 出 版 社 か ら 出 版 さ れ た の で あ る 。 そ の 他 1980 年代には、イタリア語訳(ミラノ、1986 年21)、 フ ラ ン ス 語 訳 ( パ リ 、1986 年22)、 ス ペ イ ン 語 訳 ( バ ル セ ロ ナ 、1987 年23) が 出 版 さ れ 、 英 訳 、 邦 訳 、 イ タ リ ア 語 訳 、 フ ラ ン ス 語 訳 は 、 版 を 重 ね て い る 。 チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア の 体 制 転 換 後 の 1992 年には、1982 年版 と 同 じ 翻 訳 者 に よ っ て プ ラ ハ で チ ェ コ 語 訳 が 出 版 さ れ た 。 こ の よ う に 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 伝 記 は 、 カ フ カ と の 関 わ り が き っ か け と な っ て 、 世 界 的 に 大 変 高 い 関 心 を 得 た 。 こ の 高 い 関 心 は チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 国 内 に も 影 響 を 与 え た 。 チ ェ コ の カ フ カ 研 究 者 ゴ ル ド シ ュ テ ュ ッ ケ ル は 1966 年にイェセンスカーについて、「彼女は一方で、カフカの恋人と し て 理 想 化 さ れ て 歴 史 的 な 人 物 と な り 、 他 方 で は 、 共 産 運 動 の 裏 切 り 者 と し て 拒 絶 さ れ て い る24」と 評 し た 。1966 年といえば、ソ連共産党の非スターリン化の影響や、1968 年のア レ ク サ ン デ ル・ド ゥ プ チ ェ ク(Alexander Dubček, 1921-1992)のチェコスロヴァキア共産 党 中 央 委 員 会 第 一 書 記 就 任 に 次 ぐ プ ラ ハ の 春25に 結 実 さ れ る よ う な 自 由 化 へ の 緩 や か な 動
18 Margarete Buber-Neumann. Kafkas Freundin Milena. München: Gotthold Müller, 1963.
19 ブーバー=ノイマン『カフカの恋人ミレナ』田中昌子訳。1993 年には、平凡社ライブラリー版として文庫化もされた。 20 Margarete Buber-Neumann. Kafkova přítelkyně Milena. z něm. přel. Ivo Řezníček. Toronto: Sixty-Eight Publishers, 1982. 21 Margarete Buber-Neumann. Milena, l’amica di Kafka. Traduzione: Caterina Zaccaroni. Milano: Adelphi, 1986.
22 Margarete Buber-Neumann. Milena. Traduit de l’allemand par Alain Brossat. Paris: Seuil, 1986. 23 Margarete Buber-Neumann. Milena. Traducción del alemán de M. A. Grau. Barcelona: Tusquets, 1987. 24 Eduard Goldstücker. „À propos Milena Jesenská“. Literární noviny, 13.8.1966, roč. XV, č. 33, s. 4.
25 ドゥプチェクは 1963 年にスロヴァキア中央委員会第一書記に就任し、自由化を推し進めることによって市民の支持を獲得し て共産党体制を維持することを目的として、スロヴァキアの政治体制の自由化を推進した。その後、1968 年1 月にチェコスロ ヴァキア中央委員会の第一書記に就いた後も、スロヴァキアでの自由化と同様の目的で、「人間の顔をした社会主義」を掲げ た改革運動を実施した。4 月には共産党中央委員会総会にて「行動綱領」が採択され、そのなかには、「言論や芸術活動の自由 化」も含まれた。この1968 年の 4 月の「行動綱領」の採択以後、改革運動が社会全体に広まったが、8 月 20 日にソ連率いる ワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキア侵攻によって、改革運動は弾圧され、1969 年4 月には、ドゥプチェク政権に代わ り、グスターフ・フサーク(Gustáv Husák, 1913-1991)が政権に就き、翌年には、ドゥプチェクを筆頭に改革派の幹部は共産 党を除名され、「プラハの春」は幕を閉じた。その後、一連の改革運動が「異常」な状態とされ、緩和されていた規制を強化 する「正常化」体制が敷かれることとなった。
き が 見 ら れ た 時 期 で あ る 。 そ れ ゆ え の ゴ ル ド シ ュ テ ュ ッ ケ ル の 発 言 で も あ る が 、 彼 の 発 言 の 後 半 部 に 見 ら れ る よ う に 、 イ ェ セ ン ス カ ー に つ い て 語 る こ と は 、 政 権 や 共 産 党 批 判 が 見 ら れ る 社 会 主 義 政 権 下 の チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア に お い て も 、 タ ブ ー 視 さ れ た の で あ る 。 し か し 、 そ の よ う な 状 況 の な か で も 、2 人目の著者、イェセンスカーの娘ヤナ・チェル ナ ー ( 注 8 参照)は伝記を発表した。ブーバー=ノイマンの初版の少し後、1969 年に、チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア で 雑 誌 掲 載 さ れ た の だ が 、 す ぐ に 発 禁 処 分 と な っ た26。 広 く 日 の 目 を 見 た の は 、社 会 主 義 体 制 崩 壊 後 の 1991 年のことである。『名宛人ミレナ・イェセンスカー27』
(Adresát Milena Jesenská)の名で出版された。娘だからこそ知るイェセンスカー像もある
が 、イ ェ セ ン ス カ ー と は 11 歳までしか一緒にいられなかったため、多くは人づてに聞いて 知 っ た こ と を ま と め た も の で あ る 。 と は い え 、 チ ェ ル ナ ー の 伝 記 も ま た 、 フ ラ ン ス 語28、 イ タ リ ア 語29、 英 語30、 ポ ー ラ ン ド 語31に も 翻 訳 さ れ 、 関 心 の 高 さ を 示 し た 。 だ が 、 邦 訳 は 未 刊 行 で あ る 。 ち な み に 、 チ ェ ル ナ ー に よ る 伝 記 は 、 雑 誌 掲 載 当 初 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 娘 に よ る も の で あ る に も 関 わ ら ず 、 イ ェ セ ン ス カ ー 研 究 と し て の 評 価 よ り 先 に 、 カ フ カ 研 究 や カ フ カ 文 学 へ の 貢 献 者 と し て 名 を 連 ね る 著 者 と し て 評 価 さ れ た32。 強 制 収 容 所 で 強 烈 な 印 象 を 受 け て 情 熱 を も っ て 記 述 し た ブ ー バ ー=ノイマン、幼少期の記 憶 を 頼 り に 娘 に し か 分 か ら な い 情 報 を 交 え な が ら 記 述 し た チ ェ ル ナ ー に 次 ぐ 、 イ ェ セ ン ス カ ー を よ く 知 る 第 3 の人物は、ミネルヴァ時代の 2 年先輩であり『国民新聞』で同僚であ っ た ヤ ロ ス ラ ヴ ァ・ヴ ォ ン ド ラ ー チ ュ コ ヴ ァ ー(Jaroslava Vondráčková, 1894-1986)であ る 。1991 年に、イェセンスカーの伝記『ミレナ・イェセンスカーの周辺で33』(Kolem Mileny Jesenské)を出版したヴォンドラーチュコヴァーは、前述の 2 名とは異なる立場、同僚とし て の 立 場 か ら 見 え た イ ェ セ ン ス カ ー 像 を 提 示 し た 。 ヴ ォ ン ド ラ ー チ ュ コ ヴ ァ ー の 著 書 の 翻 訳 は 、 管 見 の 限 り 、 見 当 た ら な い 。 以 上 の 3 名によるイェセンスカーの伝記とカフカからの書簡によって、イェセンスカー
26 1969 年に「若い詩のクラブ」Klub Mladé poesie の編集で、雑誌『野ぶどう』Divoké víno の別冊として1000 部刊行されたが、
「正常化」後だったため発売されなかった。のちに、1986 年には雑誌『片足で』Jednou nohou に掲載されたという。1991 年刊 行の書籍は、1969 年の版を用いている。Jana Černá. Adresát Milena Jesenská. Praha: Concordia, 1991, s. 142.(編集後記)
27 Černá. Adresát Milena Jesenská, 1991. 本書は2014 年にTorst で再版された。
28 Jana Černá. Vie de Milena: De Prague à Vienne.... Traduit du tchèque par Barbora Faure. Paris: Maren Sell, 1985.
29 Jana Černá. Vita di Milena: Nella ricostruzione della figlia Jana le esperienze, il coraggio e la vivacità intellettuale della donna amata da Kafka.
Traduzione dal tedesco di Anna Martini. Milano: Garzanti, 1986.
30 Jana Černá. Kafka’s Milena. Translated from the Czech by A. G. Brain. London: Souvenir Press, 1988.
31 Jana Černá. Moja matka Milena i Franz Kafka. Przełożyli z czeskiego Magdalena i Tadeusz Lubijewscy. Katowice: Akapit, 1993. 32 František Kafka. „Opět jiný pohled na Franze Kafku“, Věstník ŽNO, 2.1970, roč. XXXII, č. 2, s. 3.
像 が あ る 程 度 形 成 さ れ た 。そ の 後 、1990 年代以降になって、イェセンスカーとの直接的接
点 の な い 世 代 、 す な わ ち 第 三 者 の 立 場 で あ る 研 究 者 4 名による伝記作成が始まった。その
な か で 注 目 に 値 す る の が 、1993 年 に 刊 行 さ れ た マ ル タ ・ マ ル コ ヴ ァ ー =コ テ ィ コ ヴ ァ ー
(Marta Marková-Kotyková, 1947- )の『ミレナ神話34』(Mýtus Milena)である。これは、
主 に カ フ カ の 書 簡 と ブ ー バ ー=ノイマンによって作り上げられたイェセンスカー像を批判 的 か つ 詳 細 に 検 証 す る こ と で 、 イ ェ セ ン ス カ ー 像 を 描 き 直 す こ と を 目 指 し た 著 書 で あ り 、 そ れ 以 前 の も の と 比 較 し な が ら 読 む と 興 味 深 い 。 た だ し 、 こ れ ま で に 作 り 上 げ ら れ た 「 ミ レ ナ 神 話 」の 検 証 に 集 中 す る あ ま り に 、「 ミ レ ナ 神 話 」の 補 修 的 な も の に と ど ま っ て し ま っ た 。 ま た 、 マ ル コ ヴ ァ ー = コ テ ィ コ ヴ ァ ー の 提 示 す る 情 報 が 必 ず し も 正 確 と は い え ず 、 他 言 語 に 翻 訳 さ れ る ほ ど の 重 要 な 扱 い は 受 け な か っ た 。結 果 的 に 、「 ミ レ ナ 神 話 」が 大 き く 覆 さ れ る こ と も な い ま ま と な っ た 。 研 究 者 に よ る 伝 記 と し て は 、他 に 、1994 年にドイツで出版されたアレナ・ヴァグネロヴ
ァ ー (Alena Wagnerová, 1936- ) の 『 ミ レ ナ ・ イ ェ セ ン ス カ ー 伝35』(Milena Jesenská:
Biographie)や、1995 年に英語圏で出版されたメアリー・ホッカデイ(Mary Hockaday, 1962- )
の 『 カ フ カ 、 愛 と 勇 気—ミレナ・イェセンスカーの人生36』(Kafka, Love and Courage)、
1996 年にチェコで出版された、チェコのイェセンスカー研究第一人者マリエ・イラースコ
ヴ ァ ー(Marie Jirásková, 1938- )による『3 つの選択に関する簡単な報告—1939 年以降
の ミ レ ナ・イ ェ セ ン ス カ ー 、ヨ ア ヒ ム・フ ォ ン・ゼ ト ヴ ィ ツ 、ヤ ロ ス ラ フ・ナ フ ト マ ン37』
(Stručná zpráva o trojí volbě)の一部(本書には、1939 年以降のイェセンスカーに関する
記 述 が 含 ま れ て い る ) が 挙 げ ら れ る 。 こ の 他 、2000 年代以降もイェセンスカー関連の書籍が刊行されている。2003 年には、1998 年 か ら 2003 年までプラハに居住したスウェーデンの作家セム=サンドベリによる、強制収 容 所 時 代 の イ ェ セ ン ス カ ー に 焦 点 を 当 て た 小 説 『 ラ ー フ ェ ン ス ブ リ ュ ッ ク—ミ レ ナ ・ イ ェ セ ン ス カ ー の 物 語38』(Ravensbrück)がスウェーデンで刊行され、2012 年にチェコ語訳39 が 出 版 さ れ た 。
34 Marková-Kotyková. Mýtus Milena: Milena Jesenská jinak. Praha: Primus, 1993. イェセンスカーの著作が10 篇収録されている。 35 Alena Wagnerová. Milena Jesenská: Biographie. Mannheim: Bolmann, 1994.
36 Mary Hockaday. Kafka, Love and Courage: The Life of Milena Jesenská. Woodstock, New York: The Overlook Press, 1995.
37 Marie Jirásková. Stručná zpráva o trojí volbě: Milena Jesenská, Joachim von Zedtwitz a Jaroslav Nachtmann v roce 1939 a v čase
následujícím. Praha: Nakladatelství Franze Kafky, 1996.
38 Steve Sem-Sandberg. Ravenskbrück. Stockholm: Bonnier, 2003.
ま た 、2011 年にはオーストリアで、『ミレナ神話』の著者マルコヴァー=コティコヴァ
ー 改 め マ ル コ ヴ ァ ー に よ る イ ェ セ ン ス カ ー と そ の 親 友 2 人に関する著書『ほぼすべての側
面 に お い て の 災 難—ミ レ ナ 、 ス タ シ ャ 、 ヤ ル ミ ラ : カ フ カ の 親 の 反 乱 と 女 性 の 反 乱40』
(Unglücke auf fast allen Siten)も刊行された。
さ ら に 、2013 年には、『不在41』(Nepřítomnost)という書名で、著者アンナ・マウトネ
ロ ヴ ァ ー(Anna Mautnerová)が自身の母に宛てた手紙という設定で書かれたマウトネロ
ヴ ァ ー の イ ェ セ ン ス カ ー の 伝 記 が チ ェ コ で 出 版 さ れ た 。加 え て 、2016 年には、2014 年に開
催 さ れ た チ ェ コ ・ ド イ ツ 会 議 の 成 果 と し て 、 伝 記 『 ミ レ ナ ・ イ ェ セ ン ス カ ー—伝 記 ・ 歴
史 ・ 記 憶—チェコ・ドイツ会議 2014』(milena jesenská)がチェコで出版された。この伝
記 は 、チ ェ コ・ド イ ツ 未 来 基 金(Česko-německý fond budoucnosti / Deutsch-Tschechischer
Zukunftsfonds)等の資金援助を受け、パヴラ・プラハー(Pavla Plachá, 1976- )とヴィ エ ラ ・ ゼ マ ノ ヴ ァ ー (Věra Zemanová)の編集のもと、12 名の著者によって執筆された。 文 章 だ け で な く 、 数 多 く の 文 書 館 や 歴 史 資 料 館 か ら の 資 料 提 供 を 受 け て 、 多 数 の カ ラ ー 写 真 も 掲 載 さ れ て い る 。 ま た 、 刊 行 の き っ か け と な っ た チ ェ コ ・ ド イ ツ 会 議 や チ ェ コ ・ ド イ ツ 未 来 基 金 の 掲 げ る チ ェ コ と ド イ ツ の 相 互 理 解 と い う 目 的 に も 適 う よ う 、 チ ェ コ 語 と ド イ ツ 語 の 二 重 言 語 で 表 記 さ れ て い る 。 こ の 伝 記 の 存 在 は 、 イ ェ セ ン ス カ ー が チ ェ コ と ド イ ツ の 架 け 橋 と 公 的 に 見 な さ れ て い る こ と の 証 で も あ る 。 以 上 の よ う に 、イ ェ セ ン ス カ ー の 伝 記 に 限 れ ば 、多 く の 研 究 の 蓄 積 が 見 ら れ る 。し か し 、 次 項 で 確 認 す る よ う に 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 著 作 研 究 は 、 近 年 よ う や く 大 部 の 著 作 集 が 刊 行 さ れ た が 、 伝 記 と 比 較 す る と 、 極 め て 緩 や か な 進 捗 状 況 で あ る 。 以 下 、 著 作 に 関 す る 先 行 研 究 を 整 理 す る 。 2. 著作研究 2.1. 欧 米 で の 研 究 イ ェ セ ン ス カ ー が 残 し た 記 事 を も と に そ の 執 筆 活 動 に 焦 点 を 当 て た 研 究 は 、1984 年にド
イ ツ で 出 版 さ れ た ド ロ テ ア ・ ラ イ ン(Dorothea Rein, 1945- )編『すべてが人生42』(Alles
40 Marta Marková. Unglücke auf fast allen Siten: Milena, Staša, Jarmila: Kafkas Elternrevolte und weibliche Rebellion. Innsbruck, Wien,
Bozen: StudienVerlag, 2011.
41 Anna Mautnerová. Nepřítomnost. Litomyšl: Sumbalon, 2013.
42 Dorothea Rein (ed.). Alles ist Leben. Frankfurt am Main: Neue Kritik, 1984. 1999 年にミュンヘンで刊行された版には「フュイエ
トンとルポルタージュ1919-1938」という副題が付けられた(Milena Jesenská. Alles ist Leben: Feuilletons und Reportagen 1919-1938. herausgegeben und mit einer biographischen Skizze versehen von Dorothea Rein. München: Goldmann, 1999. 本書は他にフラ
ist Leben)が始まりといえるだろう。ただし著作研究とはいえ、そのほとんどが基礎研究 の 前 段 階 の も の で あ り 、 い く つ か の 記 事 を 集 め た ア ン ソ ロ ジ ー の 出 版 に と ど ま っ て い る 。 『 す べ て が 人 生 』 は 1920 年代の記事選集で、イェセンスカーの 41 本の記事がドイツ語に 翻 訳 さ れ 、 ま た 略 伝 も 付 さ れ て い る 。 本 書 は 、1990 年、1996 年、1999 年、2008 年と版を 重 ね て い る43。 ま た 、 フ ラ ン ス 語 に も 翻 訳 さ れ て い る こ と か ら 、 こ の 著 作 は 現 在 も イ ェ セ ン ス カ ー の 伝 記 や イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 を ド イ ツ 語 圏 お よ び フ ラ ン ス 語 圏 に 広 め る 一 定 の 役 割 を 果 た し て い る 著 書 と い え る 。 イ ェ セ ン ス カ ー の 著 作 選 集 は 、 こ れ 以 外 に 書 簡 集 を 含 め て 以 下 の 5 つ挙げることができ る 。次 に 挙 げ る ド イ ツ 以 外 で の 著 作 選 集 は 、1990 年代後半から公刊され始めた。特にイェ セ ン ス カ ー の 生 誕 100 周年にあたる 1996 年前後に相次いだ。彼女の記事の在り処を知る上 で 、 大 変 貴 重 な 研 究 で あ り 、 本 論 文 に お い て も 多 く を 参 考 に し て い る 。 1990 年代以降の著作研究を刊行順にあげると、まず、1996 年にプラハで出版された、ヘ グ ネ ロ ヴ ァ ー 編 『 外 か ら と 内 か ら—ミ レ ナ ・ イ ェ セ ン ス カ ー の 著 作 選 集44』(Zvenčí a zevnitř)、および翌 1997 年に同じくプラハで出版された、ブリアン編『われらの力の超え
た と こ ろ へ—チェコ人、ユダヤ人およびドイツ人1937-193945』(Nad naše síly)の 2 つが
挙 げ ら れ る 。こ れ ら は い ず れ も イ ェ セ ン ス カ ー が 1930 年代に執筆し『現在』に掲載された 政 治 的 な 記 事 の ア ン ソ ロ ジ ー で あ り 、本 論 文 が 特 に 注 目 し て い る と す る 1920 年代の記事は 含 ま れ て い な い 。 だ が こ れ ら の 功 績 は な に よ り も 、 特 に チ ェ コ に お い て 、 イ ェ セ ン ス カ ー 像 に 、「 チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 国 民 を 守 る た め に 勇 敢 に ナ チ ス に 抵 抗 し た 女 性 」と し て の イ メ ー ジ を 新 た に 加 え た こ と に あ る 。『 わ れ ら の 力 の 超 え た と こ ろ へ 』の 書 評 に お い て 評 者 の マ ル テ ィ ン・フ ラ ン ツ(Martin Franc, 1973- )は、アンソロジーにおけるイェセンスカー像 に つ い て 次 の よ う に 記 し て い る 。「 ミ レ ナ・イ ェ セ ン ス カ ー は 、著 書 の な か で 、ど ん な 妄 想 に も 負 け な い よ う に 尽 力 し た 成 熟 し た 人 物 と し て 存 在 し て い る 。 チ ェ コ 人 の 国 民 性 を か け た 彼 女 の 闘 い は 、 チ ェ コ の ジ ャ ー ナ リ ズ ム 史 上 最 も 輝 く 功 績 の ひ と つ で あ り 続 け る で あ ろ
ンス語に翻訳されている。仏語版Dorothea Rein (ed.) Vivre. Traduit du tchèque par Claudia Ancelot, Paris: Lieu Commun, 1985. その後、1996 年にBibliotèques 10-18 から再版された。
43 2008 年版では、初版から 2 本が入れ替わっている。(「郊外」「広告はいかにしてつくられるのか」が削除され、「生業の妖怪」
と「巨大な白い沈黙—スコット隊長の南極探検隊の映画を観て」の2 本が追加された。
44 Ludmila Hegnerová (ed.). Zvenčí a zevnitř: antologie textů Mileny Jesenské. Praha: N. Franze Kafky, 1996. 11 本の記事が収録され
ている。
45 Václav Burian (ed.). Nad naše síly: Češi, Židé a Němci 1937-1939. Olomouc: Votobia, 1997. 1937 年から1939 年にかけて『現在』
う46。」新 た な イ ェ セ ン ス カ ー 像 誕 生 の 背 景 に は 、こ の ア ン ソ ロ ジ ー の 出 版 が あ っ た の で あ
る 。
著 作 選 集 等 の 3 つ目として、ヴァグネロヴァー編書簡集『ミレナ・イェセンスカーの手
紙47』(Dopisy Mileny Jesenské)が挙げられる。1998 年にプラハで刊行された。この書簡集
に は 、イ ェ セ ン ス カ ー の 少 女 時 代 で あ る 1912 年に舞台女優に宛てた手紙からゲシュタポに
逮 捕 さ れ た 後 の 1940 年に娘に宛てた手紙まで、24 人に宛てた 93 通の手紙が収録されてい
る 。 イ ェ セ ン ス カ ー の 著 作 に 関 す る 重 要 な 基 礎 研 究 の ひ と つ と い え る だ ろ う 。
著 作 選 集 4 つ目には、2001 年に英語圏で出版されたヘイズ編『ミレナ・イェセンスカー
の ジ ャ ー ナ リ ズ ム—戦間期中欧における批判的な声48』(The Journalism of Milena Jesenská)
が 挙 げ ら れ る 。 本 書 は 、 本 論 文 が 特 に 先 行 研 究 と し て 注 目 し て い る 。 と い う の も 、 イ ェ セ ン ス カ ー の モ ー ド 記 事 を 中 心 に そ の 活 動 を 端 的 に ま と め た 序 章 が 付 さ れ て い る か ら で あ る 。 序 章 は わ ず か 46 頁ではあるが、イェセンスカーのモード記事を整理し客観的な評価を与え て お り 、 ア ン ソ ロ ジ ー で は あ り な が ら も イ ェ セ ン ス カ ー の 著 作 研 究 の 嚆 矢 と い え る 著 書 で あ る 。特 に 、イ ェ セ ン ス カ ー の 初 期 の 記 事 を 、12 頁弱にわたってテーマごとに分析してい る49。 そ れ ぞ れ の 時 代 を 象 徴 す る キ ー ワ ー ド や イ ェ セ ン ス カ ー の 著 作 の タ イ ト ル に ヒ ン ト を 得 て 、「 戦 後 の ウ ィ ー ン 」「 シ ン プ ル さ—内 面 と 外 面 に お い て 」「 女 性 と フ ァ ッ シ ョ ン 」 「 女 性 の 義 務 」 と し て 、 第 一 次 世 界 大 戦 後 の ウ ィ ー ン 、 シ ン プ ル 、 モ ー ド 、 女 性 の 4 つの 視 点 か ら 考 察 し て い る 。 イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 の ポ イ ン ト を 的 確 に 押 さ え た 視 点 で あ り 、 簡 潔 に ま と め ら れ て い る 。 し か し 、 前 述 の 4 つの視点だけでは、語り得ないテーマもある。たとえば、大量生産・ 大 量 消 費 社 会 と の 向 き 合 い 方 、 身 体 論 や 衛 生 の 概 念 な ど に つ い て は 語 ら れ て い な い 。 ヘ イ ズ は ま た 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 初 期 か ら 後 期 に 至 る ま で 、 彼 女 が 選 ん だ テ ー マ や 物 事 の 捉 え 方 は 第 一 次 世 界 大 戦 の 経 験 に 強 く 影 響 を 受 け て お り 、約 20 年のキャリアを通して一貫して い た と 指 摘 し て い る50。 ヘ イ ズ の イ ェ セ ン ス カ ー に 対 す る 見 解 は 基 本 的 に 好 意 的 で あ り な が ら 、 客 観 性 も 保 た れ て お り 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 を よ り 広 く 深 く 分 析 す る 上 で 手 が か
46 Martin Franc. „MILENA JESENSKÁ. Nad naše síly. Češi, Židé a Němci 1937-1939“. Dějiny a současnosti, 3/1998, s. 62. 47 Alena Wagnerová (ed.). Dopisy Mileny Jesenské. Praha: Prostor, 1998.
48 Hayes (ed.), The Journalism of Milena Jesenská.
49 序論全体では 41 頁あり、1930 年代の記事についても分析している。全体の記事分析は、7 つの項目(「戦後のウィーン」「シ
ンプルさ—内面と外面において」「女性とファッション」「女性の義務」「イェセンスカーとカフカ」「他の人々の仲間に加わる こと」「チェコ人は別のチェコ人に何を期待するのか?」)に分かれている。本文で触れたようにそのうち、主に1920 年代の 記事に関する分析は、最初の4 つが挙げられる。カフカとの関係について、特に多くの頁を割いている。
り と な る 著 書 で あ る 。と は い え 、12 頁弱にまとめられた分析は、あくまで概略にすぎない。 本 論 文 で は 、 ヘ イ ズ が ま と め き れ な か っ た 点 に も 踏 み 込 ん だ 分 析 を 行 う 。 特 に 約 2 頁に簡 潔 す ぎ る ほ ど に ま と め ら れ た モ ー ド 論 や 約 3 頁のシンプル論などは、踏み込む余地がある。 ま た 、 本 論 文 で は 、 研 究 の 基 盤 整 備 の 一 環 と し て 、 ヘ イ ズ が 多 く の 記 事 を 確 認 し な が ら も 添 付 し な か っ た 記 事 目 録 を 作 成 し 、 巻 末 に 添 付 す る 。 前 述 の カ フ カ の 書 簡 集 の 相 次 ぐ 刊 行 と 並 行 し て 、 チ ェ コ に お い て 研 究 者 に よ る イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 へ の 関 心 も 高 ま っ て き た 。イ ェ セ ン ス カ ー の 生 誕100 年にあたる 1996 年には、 フ ラ ン ツ・カ フ カ 協 会 主 催 で「 ミ レ ナ・イ ェ セ ン ス カ ー—100 年51」と 題 し て 研 究 報 告 会 が 行 わ れ た 。そ こ で は 、7 人からの報告があった。報告記執筆者によれば、第 1 の報告は、 ウ ィ ー ン 時 代 の イ ェ セ ン ス カ ー に つ い て52、 第 2 の報告は書簡をもとにしたイェセンスカ ー と カ フ カ の 関 係 を 分 析 し た53。 第 3 の報告はカフカの翻訳者としてのイェセンスカーに つ い て 的 を 絞 っ た も の54、 第 4 の報告は 1938 年および 1939 年のイェセンスカーの人生と 活 動 を ま と め た も の55、第 5 の報告はフェイェトンに焦点を当て56、第 6 の報告はイェセン ス カ ー の 記 事 に お け る 女 性 の 新 し い ラ イ フ ス タ イ ル に 着 目 し た57。 最 後 に 第 7 の報告はカ フ カ の 『 城58』 や イ ジ ー ・ ヴ ァ イ ル (Jiří Weil, 1900-195959) の 作 品 に お け る 登 場 人 物 と イ ェ セ ン ス カ ー の 関 係 に 関 す る 報 告 が 行 わ れ た と い う60。 こ れ ら の 報 告 が 書 籍 と し て 結 実 し た も の は ま だ な い が 、 い ず れ に し て も 、 チ ェ コ に お い て は イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 に 関 す る 研 究 も 少 し ず つ 幅 を 広 げ て い る と い え る 。 な か で も 、2011 年には、メディア史研究の一環として、カレル大学の社会科学部に、イ
51 イェセンスカーの人と作品に関する会議の報告記が雑誌に掲載されている。Jindra Broukalová. „Milena Jesenská – Sto let“.
ianua: sborník pro studia česko-rakousko-německých kulturních styků č. 3, 1997, s. 106.
52 Hanna Vinterová. „Milena Jesenská o Vídni 1919/1924“ (Ibid., s 95-96.)
53 Kurt Krolop. 報告題目不明。[原文:Kurt Krolop analyzoval na základě korespondence průběh vzájemného vztahu Mileny
Jesenské a Franze Kafky.](Ibid., s.96-98.)
54 Josef Čermák. 報告題目不明。[原文:Josef Čermák věnoval pozornost Mileně Jesenské jako překladatelce Franze Kafky.](Ibid.,
s.98-100.)
55 Marie Jirásková. 報告題目不明。[原文:Marie Jirásková referovala o předposledním období života Mileny Jesenské v letech
1938/1939, které zároveň představuje vrchol její novinářské kariéry.](Ibid., s.100-102.)
56 Blanka Svadbová. „O fejetonech Mileny Jesenské“ (Ibid., s. 102-104.)
57 Helena Jarošová. 報告題目不明。[原文:Novému životnímu stylu ženy v publicistickém díle Jesenské se věnovala i Helena
Jarošová.](Ibid., s.104-105.)
58 Franz Kafka. Das Schloss. München: Kurt Wolff, 1926. 最初の日本語訳は、マックス・ブロート編の『カフカ 全集』第1 巻とし
て、1953 年に新潮社から刊行された。〔フランツ・カフカ『城』マックス・ブロート編、辻瑆、中野孝次、萩原芳昭訳、新潮 社、1953 年。〕
59 チェコの作家、文芸評論家、新聞記者、翻訳者。1920 年代はデヴィエトスィルのメンバーでもあった。
60 Olga Klauberová. 報告題目不明。[原文:V závěrečném příspěvku nazvaném Milena jako literární postava se Olga Klauberová
ェ セ ン ス カ ー を 含 む1920 年代のチェコで活躍した 5 人の女性ジャーナリストたちの活動を
ま と め た 博 士 論 文 「1920 年代の日刊紙における女性欄とその女性執筆者たち—オルガ・
フ ァ ス ト ロ ヴ ァ ー 、 マ リ エ ・ フ ァ ン ト ヴ ァ ー 、 ミ レ ナ ・ イ ェ セ ン ス カ ー 、 ス タ ー シ ャ ・ イ ー ロ フ ス カ ー 、ズ デ ナ・ワ タ ー ソ ノ ヴ ァ ー61」(Rubriky pro ženy v denním tisku 20. let 20. století
a jejich autorky)がチェコメディア研究者レンカ・ペンカロヴァー(Lenka Penkalová, 1979- )
に よ っ て 提 出 さ れ た 。 こ の 論 文 は 、 イ ェ セ ン ス カ ー の み を 対 象 と す る の で は な く 、 イ ェ セ ン ス カ ー を 含 め て 同 時 代 に 活 躍 し た 5 人の女性ジャーナリストに焦点を当て、女性欄にお け る 彼 女 ら の 活 動 全 体 を 初 め て 詳 ら か に し た 大 変 意 欲 的 な 学 位 論 文 で あ る 。5 人の女性記 者 そ れ ぞ れ の 経 歴 や 特 徴 お よ び 携 わ っ た 新 聞 に つ い て ま と め た 上 で 、 女 性 欄 で 書 か れ た 内 容 に つ い て 的 確 に 選 ん だ ト ピ ッ ク に 基 づ い て 論 述 し て い る 。 ペ ン カ ロ ヴ ァ ー の 論 文 の 功 績 は 大 き く 、1920 年代の女性ジャーナリストの活躍を知る上で充実した情報量と分析成果だ と い え る が 、イ ェ セ ン ス カ ー の 活 動 の み を 詳 ら か に す る 研 究 と い う よ り は 、1920 年代の女 性 欄 お よ び 周 辺 の 状 況 を 包 括 的 に 取 り 上 げ た 研 究 論 文 で あ る 。 本 論 文 で は 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 活 動 を よ り 深 く 掘 り 下 げ 、 イ ェ セ ン ス カ ー の モ ー ド 記 者 と し て の 理 想 や 信 念 を 時 代 的 お よ び 社 会 的 背 景 と の 関 係 性 の な か で 詳 か に し た い 。 ま た 、 ペ ン カ ロ ヴ ァ ー の 論 文 で は 、 広 く 5 人の記者を取り上げたことで 5 人の記事の目録などは付加できなかった。本論文で は イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 目 録 を 資 料 と し て 添 付 す る こ と で 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 活 動 の 全 体 像 を 把 握 し た い 。 加 え て 、2016 年には、先述のイラースコヴァーによる、これまでで最も大部な著作集『ミ
レ ナ・イ ェ セ ン ス カ ー 交 差 点( 著 作 選 集 )62』(Milena Jesenská Křižovatky)がチェコで刊行
さ れ た 。1164 本に上るイェセンスカーの記事の掲載データを明らかにした記事目録も添付 し て 、そ の う ち 360 本の記事を収録した、索引を含めて 879 頁に及ぶ著作集である。また、 イ ェ セ ン ス カ ー や 周 辺 人 物 の 写 真 も 数 多 く 収 録 さ れ て い る 。 本 書 が 刊 行 さ れ る 以 前 は 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 の 掲 載 デ ー タ が 一 覧 で き る も の は な く 、 筆 者 も 、 こ れ ま で 刊 行 さ れ た 伝 記 お よ び 著 作 選 集 を 手 掛 か り に 収 集 せ ざ る を 得 な か っ た 。 本 書 の 刊 行 は 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 今 後 の 著 作 研 究 を 明 る く す る も の で あ る 。た だ し 、筆 者 の 持 つ デ ー タ に 照 ら し た 結 果 、 イ ラ ー ス コ ヴ ァ ー が 挙 げ た 一 覧 以 外 に も 記 事 の 存 在 が い く つ か 見 つ か っ て い る 。 ま た 、 記 事 を 360 本収録し、著作のみで 747 頁を割いていることからも分かるように、本書は、記
61 Penkalová., Rubriky pro ženy v denním tisku 20. let 20. století a jejich autorky. 62 Marie Jirásková. Milena Jesenská Křižovatky (výbor z díla). Praha: Torst, 2016.
事 選 集 と し て は 大 部 だ が 、 記 事 の 中 身 に つ い て 論 じ る 研 究 書 で は な い 。 そ の た め 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 著 作 研 究 は 、 こ の 大 著 の 刊 行 を 経 て も 、 よ う や く 基 盤 が 整 っ た 段 階 と 言 わ ざ る を 得 な い 。 以 上 挙 げ た よ う に 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 著 作 研 究 と い う と 、 こ れ ま で ア ン ソ ロ ジ ー や 書 簡 集 な ど 、 基 礎 資 料 の 整 備 と い っ た 基 盤 的 な 研 究 に と ど ま り 、 唯 一 分 析 的 に 論 じ て い る ヘ イ ズ で あ っ て も 、12 頁弱において、伝記のなかでイメージされてきたイェセンスカー像を記 事 の な か に 見 出 し 、 そ れ ま で の イ メ ー ジ を 踏 襲 す る に と ど ま っ て い る 印 象 で あ る 。 た と え ば 、 大 量 生 産 ・ 大 量 消 費 社 会 に お け る 自 己 表 現 に 関 す る 発 言 に つ い て は 、 今 ま で 指 摘 さ れ て こ な か っ た フ ラ ン ス 人 デ ザ イ ナ ー コ コ・シ ャ ネ ル(Coco [本名:ガブリエル(Gabrielle)] Chanel, 1883-1971)との比較からの考察を行うことで、これまでとは別の角度からの指摘 を 加 え る こ と も で き る だ ろ う 。 ま た 、 身 体 や 衛 生 、 ス ポ ー ツ 論 、 装 飾 の 排 除 、 男 女 観 や 女 性 の 生 き 方 に つ い て も 、ヘ イ ズ の 分 析 は 概 略 的 で 、よ り 深 い 考 察 を 加 え る 余 地 が ま だ あ る 。 本 論 文 で は 、イ ェ セ ン ス カ ー の 記 事 分 析 に 集 中 す る こ と で 、さ ら に 新 た な 視 座 を 投 じ た い 。 2.2. 日 本 で の 研 究 日 本 で の 研 究 状 況 は 、よ り 一 層 一 面 的 な も の に 止 ま っ て い る 。2000 年に出版社のオンラ イ ン エ ッ セ イ で チ ェ コ 文 学 者 の 阿 部 賢 一 は 、 イ ェ セ ン ス カ ー の 実 像 が 良 く も 悪 く も 「 カ フ カ の 恋 人 」と い う 形 容 に 振 り 回 さ れ て い る と 述 べ た63が 、そ の 状 況 は 20 年近く経った今で も そ う 大 き く は 変 わ っ て い な い 。 イ ェ セ ン ス カ ー 関 連 の 書 籍 が 最 も 新 し く 刊 行 さ れ た も の で す で に 10 年前の 2009 年だが、そのタイトルにおいても『ミレナ 記事と手紙—カフカ か ら 遠 く 離 れ て64』と 、「 遠 く 離 れ て 」と 言 い な が ら 、カ フ カ の 名 を 付 す こ と で 読 者 の 関 心 を 呼 ん で い る 。 本 論 文 の 巻 末 に は 、 日 本 に お け る イ ェ セ ン ス カ ー 関 連 の 研 究 一 覧 を 付 し た 。 総 計 27 本 あ る が 、 こ の う ち イ ェ セ ン ス カ ー に 主 眼 を 置 い た 論 文 は 、 筆 者 に よ る 論 考 5 本を除くと、 そ の 数 は 7 本である65。残 り の 14 本はすべてカフカに主眼が置かれたもので、カフカにつ い て 論 じ る に あ た っ て の ひ と つ の ア プ ロ ー チ と し て イ ェ セ ン ス カ ー 自 身 あ る い は イ ェ セ ン ス カ ー と の 関 係 を 取 り 上 げ て い る に 過 ぎ な い 。特 に タ イ ト ル を 見 る だ け で 一 目 瞭 然 な の が 、 63 成文社HP 上のリレーエッセイ第28 回(2000.02.01)http://www.seibunsha.net/essay/essay28.html(最終閲覧2020 年5 月28 日) 64 松下たえ子編訳『ミレナ 記事と手紙—カフカから遠く離れて』みすず書房、2009 年。 65 補遺資料2.「日本でのイェセンスカー研究一覧」(202-203 頁)においては、これらの論文に下線を付した。