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空間社会学系

ドキュメント内 要旨 (ページ 48-56)

第 1 章 理論的スコープ

1.2. 空間研究の系譜と視点

1.2.3. 空間社会学系

本項では、〈地〉として無標であった〈空間〉が有標化される際、それは社会のどの ような実践や言説によってなされるかという〈空間〉の社会的、文化的、あるいは政治 的な問題について議論する。社会の中にある隔たりや何かと何かを分かつ差異が、いか に社会性を帯び、ひいては絵画を始めとする視覚表象にも反映されるものであるかを、

その研究の流れと代表的な主張に依拠して考察を試みる。また本研究が焦点を当てる

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19 世紀末からの視覚表象における〈空間〉のあり方の変化は、美術史の文脈でどう語 られているかについても述べる。

社会空間内であろうと、視覚芸術内であろうと、〈空間〉をどう捉え、何を配置し、

それによって何を示すのか、すなわち、何を〈図〉とし、何を〈地〉とすべきかはひと つの考え方に基づいたものであり、ある種のイデオロギーがその背景には存在する 31。 それが受け止められ、習慣化することで、人々の〈空間〉に対する見方、態度は変化す る。その考え方、態度の変化が基盤となって、〈空間〉にまた新たな価値が付与される。

ひとたび新たな価値を付与されれば、〈空間〉を巡って人は行動を起こす。すなわち、

〈空間〉にまつわる利益や不利益が生じる行為がなされるのである。そしてしばらくす ると、生じた不利益を取り戻したり、さらに大きな利益を考えて〈空間〉を破壊したり、

新たな〈空間〉をつくり出したりする。こうして〈空間〉をめぐる行動と言説が生まれ、

またそれに基づいて人間が、生産活動や社会的行動をする、つまり、〈コミュニケーシ ョン〉をするというスパイラルが発生する。

〈空間〉と社会や階級、イデオロギーとを結びつけた以上のような考え方は、大航海 時代から市場を生み出す根源は常に資本にあるという主張や、工業化による工場の集中 や都市化などに象徴される、時間による空間の絶滅というマルクスの議論にその萌芽が みられる。〈空間〉と社会とを結びつけた空間社会学の古典的貢献者として名高いのは 社会学者ジンメルであろう(阿閉, 1989; アーリ, 2003)。ジンメルは社会をひとつの絵 画に見立てて、個別の要素と統一体としての全体との関係性について美学の観点から論 じたり32、シンメトリーという造形の構成が、いかに建物や表象のみならず、社会の組 織構成をはじめとする〈空間〉の構成全体に反映しているものであるかという議論33

31リアルのみならず、インターネットなどのバーチャルな情報ネットワークが、日常生活に欠か せないものとなった現在、ルフェーヴルを出発点とした〈空間〉と社会、権力、資本との関係の 議論は、さらにその光彩を増し、インターネットの誕生によるサイバー・スペースというバーチ ャルな〈空間〉の存在が社会にもたらす様々な出来事や問題に着目した研究も増えた。サッセン

(1999)、カステル(2009)、観光や移動と〈空間〉との関係を論じたアーリ(2003)などが代表 的である。また日本の都市論、空間論では、都市社会学、地理学、経済学といった領域の視点を 持った吉原・斉藤(2011)、篠原(2011)、またクイア研究と空間論とを接合させたMorita (2014) などがある。

32ジンメル(1999a)(1999b)の2つの論文が代表的である。

33我々の外部にあるものとしての〈空間〉と観念の中にある〈空間〉という〈空間〉の二面性を

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どで展開しており、視覚芸術の〈空間〉と社会生活の中での実践的な〈空間〉との結び つきに視線を向けた。だが〈空間〉に社会性、文化性、そして政治性、歴史性があり、

それは特定の学問の枠組みを超えて議論されるべきであると声高に主張し、スポットを 当てた最初の人物はアンリ・ルフェーヴルであり、1960年代にそれは始まった。

アンリ・ルフェーヴル著『空間の生産』(2000)は、そのタイトル自体が、〈空間〉と は社会的生産物であることを明快に表している。芸術家であり、マルキストであったル フェーヴルは、資本主義と政治権力による〈空間〉の搾取の問題を、格差や都市化の問 題のみならず、芸術など様々な学問の領野を横断する形で主張したのであった。

ルフェーヴルのように空間研究への明示的な言及はないが、同じ60 年代以降、ミシ ェル・フーコーは「狂気」や「監獄」といったキーワードをめぐる歴史を丹念に調べ上 げることで、社会、文化、特に権力と〈空間〉との関係に関する重要な研究成果を発表 した。代表作『言葉と物』(1974)の序には、空いている、隔てられるという〈空間〉

の存在がいかに社会、文化と結びついているかについての、鋭利な指摘がなされてい る34。フーコーは、ボルヘスのあるテクスト 35にあった「シナのある百科事典」の引用 に焦点を当てて話しを始める。この百科事典が採用している分類項目の立て方の異常さ、

例えば「皇帝に属するもの」、「乳呑み豚」、「遠くから蝿のように見えるもの」といった 奇妙な分類について言及している。そのような分類に目をやると、気づくのは、現代社 会に生きる我々の思考では思いつきにくい、物事の分離や分節の仕方があるということ である。知られるとおり、正常/異常の二項対立はフーコーの思想の中心的テーマのひ とつであるが、「異常」と日本語訳されるものがいくつかある。先の「シナのある百科 事典」の分類の場合は、“monstrousité”である。“Monstrousité”(=「怪物性」)は、1974 年から1975年にかけてのフーコーのコレージュ・ド・フランスにおける講義で詳しく 説明されているように、社会的に、より詳しくいえばその時代に考えられた法的、かつ 生物学的な例外という意味を持つ(フーコー, 2002)。しかしこの場合のそれは、単純に

論じたジンメル(1994a)などを参照のこと。

34ソジャ(2005)が述べるように、ルフェーヴルとフーコーの2者は同時代を生きていたにもか からず、ルフェーヴルのフーコー批判以外、その関係はあまり知られていない。

35フーコー(1974)によれば、引用はボルヘス著『続・審理』(1952)所載のエッセイ「ジョン・

ウィルキンズの分析言語」(p. 13)からのものである。

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そうした法的、かつ生物学的な二重の例外としての異常を示しているというよりも、そ れを敷衍させて、既存のカテゴリーに属さない事物や事象というものがなぜ起こり得る のかを、社会的産物と捉えて説明しようという試みのためというべきであろう。マルク ス主義者であることを否定しながら、歴史記述による権力論によって、権力批判、そし てブルジョワへの攻撃をし続けたフーコーのマルキスト的な視座は、権力概念の根底に ある「 自 然ナチュール」(フーコー, 2002, p. 62)なものとされているものの正体が、分類といった 一見なにげないものの中に隠れていることを見逃さなかった。あの奇妙な分類のそれぞ れの項目が指し示すものは、その項目と項目とを分かつ隔たり、つまり〈不在〉の〈空 間〉の存在36である。フーコーは論を進める中で以下のように述べている。

異常さは、どのような不思議な力の深層にも隠れてはいない。異常さというものは、

空いているすべての空間、諸存在を相互に《引きはなす》間隙のあらゆる余白

...................................

に滑 り込んでいるのでなければ、この分類のなかでどんな場所も占めてはいまい。[中 略]いかなる想像、いかなる可能な思考をも超えているもの、それこそ、こうした 範疇のひとつひとつを他のすべてに結びつけてしまう、アルファベット系列(a、b c、d)にほかならない。(フーコー, 1974, p. 14)[傍点引用者]

機械的なアルファベット式に物事を単純に分類することに慣らされた目からすれば、

あの百科事典にあった分け方は、奇異かもしれない。その慣れ親しんだ事物や事象の連 なりの序列や秩序の不整合によってできた〈不在〉の箇所を、フーコーは「空いている すべての空間、諸存在を相互に《引きはなす》間隙のあらゆる余白」と表現した。フー コーのこの示唆は、諸領域における、その個人が所属する社会、文化、歴史が持ってい る認識基盤に基づく、規範、そして有意味と考えられている事物や事象の連なりの結束 性の不整合に関する研究を横断、包括するものとして、ルフェーヴル同様、まことに先 駆的という他ない。フーコーは『監獄の誕生』(1977)においても、空間構成がいかに イデオロギーを投影し、社会的、文化的、あるいは政治的、経済的な志向へと導く「装 置」だったかを暴いている。ルフェーヴルとフーコーは、前者が民主主義、資本主義と

36ハーヴェイ(1999)は「フーコーにとって空間とは、権力の場、あるいは権力の容器のメタフ ァーであり、通常それは生成の過程を開放するものになることもある」(p. 274)とフーコーのい う〈空間〉への思想を評している。

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いうイデオロギーが持つ問題に、後者が歴史とはいったい何かという根本的な問いに焦 点を当てたという違いはあるが、権力と〈空間〉の関係性に着目し、〈空間〉自体の価 値や性質を変化させるのは社会であり、そこにはイデオロギーが存在することを暴いた 点で共通している。

ハーヴェイ(1999)はモダニズムのひとつの思想・芸術の様式としてポストモダニズ ムを捉える視点から、ポストモダニズム論を展開したが、資本主義は〈空間〉の変容の 中にあると述べて、社会の様々な〈空間〉の変化を、市場の形成や競争という資本主義 の観点からつぶさに説明している。ハーヴェイは、19世紀末から20世紀にかけて世界 を席巻したダダ、シュルレアリスムなどの芸術家たちの反体制、反ブルジョア的なレト リックが、プロパガンダに利用されたりしたこと、そして、結局、共産主義的な全体主 義の圧迫下にあった世界に、自由主義と個人主義の理想の形として頭角を現したアメリ カ資本主義の市場原理にみごとに取り込まれていった様子を描き出した。また1990 年 代のポストモダン空間論としてハーヴェイと並び評されるソジャ(2003, 2005)の論考 も、このハーヴェイの研究同様、表象の〈空間〉が社会的、文化的、歴史的な変化に対 応する形でもたらされる、社会的な産物であるとする立場を示す点で、フーコー、ルフ ェーヴルの〈空間〉への視座37と一致し、その流れを汲むものといえる。ポストモダン、

ポストコロニアルの理論から空間を論じた研究として、近代の宗主国と植民地、東洋と 西洋という二項対立を固定化しようとする、意味生産のシステムについて論じたバーバ

(2005)や、前述のトゥアン(1993)、レルフ(1999)も社会的実践としての〈空間〉

のみならず、人間の観念、精神の中や芸術などの表象上の〈空間〉も社会、文化、政治 と関連づけている点で共通しているとみることができる。『人間と空間』(1978)の著者 であるドイツの哲学者ボルノウは数学的空間やアリストテレスの空間概念、バロック様 式の空間など包括的に空間を研究しているが、時間と比較して〈空間〉を静的と捉えて いる点で、上記の構造主義、ポストモダンの研究者とは一線を画す。しかし、「空間は、

人間の秩序づけによってつくりだされ、人間の無秩序によって失われる」(ボルノウ,

37無論、マルキストであったルフェーヴルにとって〈空間〉をめぐる社会的実践も芸術といった 表象の中の〈空間〉も、資本主義によって時代を経て改変され、移行していくものである(ルフ ェーヴル, 1975)。一方フーコーは〈空間〉のそうした改変や移行を生む、各時代の社会が無意識 に持っていた構造に着目したといえる。したがって、ルフェーヴルが〈空間〉を歴史の連続性の 中にみているのに対し、フーコーはその不連続性、断絶性を注視したということができる(桜井,

2001; ガッティング, 2007; 中川, 2013)。しかし、両者とも〈空間〉が社会的、文化的、政治的

に価値や意味を付与されるものであるという立場は共有しているといえる。

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